十一話「ハロウィンの笑み」
今は眠りの時間である深夜1時。
7畳のあゆむの部屋は、今や激狭イロモノ動物園。
まずは六匹のオタマジャクシおばけ達。
彼らはぷかぷかと浮かんで眠り、
お腹をかいたり鼻ちょうちんを膨らませたりとユニークです。
次にソファで眠る二柱の天使、トリエルにガブリエルママ。
布団がかけられその中で抱っこしあって寝ています。
部屋の隅では元悪魔バアルゼブルが、
壁に寄りかかる姿勢で寝ている……
いえ、休憩している状態でしょう。
元とはいえ悪魔の習性か、安眠はしないようです。
軽い睡眠を連続で取って、常に警戒しているのでしょう。
そして最後にあゆむの、あゆむだけの守護霊ピピ。
彼女は霊体のために睡眠が不要。
そのため、あゆむに寄り添う形で宙に浮き、
うっとりしながらその寝顔を見つめています。
「ずっとお傍で眺めていたいです……」
バアルゼブルはさすがに見ないフリをしているのか、
そこは気を使っているようです。
ピピに見守られながら、ちょっと重いものを感じつつも、
あゆむは深い眠りにつきます。
…………
時刻は早朝5時。もうすぐ起床の時間です。
あゆむが眠りから覚めるパターンは主に3つ。
・6時のアラームで覚醒する(レア)
・ピピの声とタッチで目覚める(ノーマル)
・アンポンタンの体当たりで起きる(ノーマルその2)
今まではこのどれかでした。
しかしここで第四のパターンが生まれました。
…………
ドギューーーン!!!!
「グェェェェッ!!??」
その強烈な痛みで目を覚ますと、
青いユニフォーム姿のアッチが他のおばけと抱き合っております。
♪デーテテレーテ! デーテテレレー!
こんな軽快な音楽まで付けて。
その後ろには笑顔のバアルゼブルが……
あゆむは一瞬で状況を把握します。
「あんのドS悪魔執事が……」
「失礼。彼らがどうしても
私のリフティングを見たいというものでしてね」
「嘘つけ!!」
「失敬な。嘘ではありませんよ。ほらこの通り」
するとバアルゼブルは再びアッチで
華麗なリフティングをはじめます。
しかし……バシュッ!! と勢いよく蹴り上げると……!!
それが天井で跳ね返って……
ぐにーーーーーーん………ドギューーーーン!!!
頭にゴーーーール!!!
おばけ達も大喜び!!
♪デーテテレーテ! デーテテレレー!
「失礼。つい興がのってしまい」
「絶対わざとだろ!!!」
「いいえ、わざとではありません。悪気はありましたが」
「それをわざとと言うんじゃい!!!!」
「ククク……遊び心のないお人だ」
「やかましい!!」
ここで数少ないあゆむの味方、
ピピがスーッと寄ってきてくれて
「大丈夫ですか……?」と優しい声で頭をよしよし。
彼女の冷たい手が癒しになります。
バアルゼブルに十字架は効くのか……?
ピピの手の冷たさを感じなら、あゆむはふと考えますが……
「ちなみに十字架、聖書、
マリア像の類は通用しませんのであしからず」
効かないみたいです。
「…………」
「おふぁよー……」とここでトリエルが目を覚ましますね。
その手には縁日でガブリエルママが
ゲットしたヒヨコのぬいぐるみがあります。
トリエルは右手人差し指で、
赤と茶色のオッドアイをゴシゴシとしています。
「……ん!?」
ここであゆむが、トリエルの違和感に気が付いたみたいです。
「お前、いつから目の色が変わったんだ?」
そういってあゆむはスマートフォンの鏡アプリを使い、
トリエルに見せると、彼女も興味津々です。
「ホントだー! でもちっちゃい頃はこの色だったよー」
「つまり元に戻ったのか……?」
「わかんなーい」
茶色の目と言えばあゆむには心当たりがあります。
恵美です。
お盆においてかの女性…桜井美恵との会話で、
そして力の発現でトリエルの生前は、
桜井恵美という少女だったことが確定しています。
これまでも恵美はトリエルの中で、
あゆむの危機に対して魂を燃え上がらせ、
その真の権能「笑顔」を使うことで
あゆむを含めた周囲を助けています。
その際のトリエルは生前の恵美の姿をとり、
髪と目の色が茶色になるのです。
「お盆での願い事の影響で変わったのか…?」
あゆむはそのようなことを考えていました。
お盆でのあゆむの願いは
「桜井美恵という女性の娘の魂を呼んで欲しい」でした。
その娘は恵美、
つまるところトリエルの中で眠る少女なのですから、
呼んで欲しいという願いは叶ったわけですが、
眠っていたそれを「呼んだ」結果、表に出てきたのでは……
あゆむはそう考えました。
「小さい頃は今と同じオッドアイだったみたいだしな……」
特に害もないしいいか。
あゆむは深く考えるのを止め、
トリエルの中の恵美を見守ることにしました。
――――
昼下がり、あゆむの部屋には、かぼちゃの甘い匂いが広がります。
「今日はハロウィンなのでパンプキンパイを作りました」
ピピがそう言ってテーブルに焼きたてのパイを運びます。
これにはおばけ達も興味津々で、それ自体は食べない彼らですが、
美味しそうに香りを嗅いでおります。
なんとも癒される光景です。
「ぱろぴーん?」
「食いながら喋るな!!」
「ハロウィンというのは……ええと」
ピピが説明に困っていると、バアルゼブルが助け舟を出します。
「ハロウィンとは夏の終わりに死者の霊を迎え、
同時に現れる悪霊から身を守るため、
火を焚いたり仮装をしたりして魔除けをするお祭りですね。
もっとも、近年では
ただの仮装大会に成り下がったりしておりますがね……ククク」
「なにそれ面白そー!」
「おのれは仮装の必要はないじゃろがい!!」
「あら、たまには意見が合いますね」
ここでガブリエルママがトリエルを抱っこします。
トリエルはニコニコ笑顔であゆむに猛アピール。
これに抗うのは正直苦行です。
何せトリエルの笑顔には文字通りの魔力が宿っておりますから。
「トリエルは仮装などしなくても十分愛らしい天使ですからね」
「お、そうだな」
あゆむはサラリとその会話を流しましたが……
「ハロウィンやりたーい!!」
「ククク……面白そうですし、やりましょうか」
「ピピも……実は少し興味があります」
しかし周りが囲まれました。
「はあ……散歩するだけだぞ」
コンビニ袋が膨らみそうな程のため息を吐きながらも、
あゆむは仕方がないので付き合うことに。
一抹の不安を抱えながらも――
――――
昼下がりの近所の住宅街を、あゆむはイロモノを連れて歩きます。
天使が二柱、宙に浮くおばけ、美少女の幽霊、元悪魔。
万年ハロウィン状態がデフォルトのあゆむは、今だけ町に馴染みます。
「すごー……あの仮装クオリティ高過ぎ」
「まるで本物みたい……」
「あの翼のクオリティ高ーー」
本物なんだよなあ……などとは言えず、
苦笑いをするしかないあゆむはそのまま歩みを続けますが、
ある民家の表札でその足が止まります。
――桜井。
生前のトリエル、つまるところ桜井恵美の生家、
そして桜井美恵が今でも暮らす家です。
あゆむは直ぐにそれを察し、離れようとしますが、
それを知ってか、バアルゼブルがわざとらしく手を叩き、
トリエルに入れ知恵をします。
「そうそう、トリエル様トリック・オア・トリートという言葉を
ご存知ですか?」
「なにそれー?」
「お菓子をくれないといたずらするぞという意味で、
ハロウィンの日に子供は民家を回ってそういうのですよ」
「イタズラしていいの!?」
「いえ、お菓子が通常は貰えます。試されてはいかがです?」
「うんー!!」
あゆむはバアルゼブルを睨みつけますが、
彼は涼しい顔で微笑みます。
どうやら初めからこれが目的だったようです。
やがて一人の女性が出てきます。
「トリック・オア・トリートー!!」
美恵はトリエルを見ると、一瞬寂しげな表情を浮かべますが、
何かを感じたのか、直ぐに笑顔を作り……
「まあ可愛い天使のお嬢さんね。どうぞ」と、室内にあゆむ達を案内します。
…………
「良かったんですか……俺達まで」
廊下の中、あゆむのその問いに美恵は何も答えず、
無言で軽くうなずきます。
「この女性は気付いてるな……」
バアルゼブルの言う通り、あゆむは確かに勘に優れている。
美恵はトリエルの正体を知っている、あるいは確信していると直感しました。
他人の空似ではない。
実の母だからこそ感じる何かを既に得ているのだと。
バアルゼブルもそれを察したから、トリエルをけしかけたのでしょう。
事実、美恵は以前トリエルが転生天使だということを偶然耳にしています。
その際に、茶髪のトリエルも見ているのです。
それだけならまだ、夢物語で済ませることが出来たでしょう。
しかし、お盆での接触はその夢を打ち破り、
確信という現実を美恵にもたらします。
美恵が案内した先、そこはリビングで目の前には木の長テーブル。
奥にはテレビに仏壇があり、遺影が目立つように置かれています。
やっぱり気付いていたか……とあゆむは心の中でそう呟きます。
仏壇の遺影、それは生家のトリエル、桜井恵美。
茶色髪の6歳程度の少女――それをあゆむが見た時でした。
(!!!!)
『くん! あゆむくーん!』
いつか見た、夢の映像がフラッシュバックし、
あゆむの脳裏に、在りし日の彼女が蘇ります。
「えっちゃん……」
「え?」
あゆむの『えっちゃん』という言葉に、美恵は反応を示します。
そのあだ名は、当時の恵美を知る者だけが使っていたものです。
「もしかして……あゆむ……君?」
「え……!?」
今度は、あゆむが『あゆむ君』という言葉に反応します。
(なんで俺の名前を)
「……そうなのね?」
「……はい。筒見 歩です」
答えを知って、美恵は何を思うのか、
まるで娘に報告するように、遺影を抱きしめ、あゆむの前に持っていきます。
「良かったね……恵美……彼が……あゆむ君が……来てくれたよ?」
声がかけられませんでした。
ポロポロと遺影に向かって報告する彼女を前に、
誰一人、動けません。
「娘が……恵美がいつも嬉しそうに……あゆむ君、あゆむ君って……
あゆむ君と一緒にゲームしたいから、ゲームステーションが欲しいって……」
(そうだったのか……だから)
「ごめんね、あゆむ君。恵美と突然遊べなくなったから、混乱しちゃったでしょ?
入院していたの……知らせる手段もなくて」
ここであゆむはようやく全てを思い出し、理解しました。
夢の女性、少女の正体、記憶のノイズ。
『彼女』への想い。
全てが繋がったのです。
美恵は軽く涙を拭うと、遺影を仏壇に戻します。
仏壇には恵美が好きだったであろうアニメ
「ハートフル・キュアプリ」の玩具があります。
そして中央にはあの木箱、お手製のびっくり箱もあります。
『自分の遺影』をトリエルは眺めますが、
仏壇のそれが生前の自分だとは気付いていないようで、
一瞬だけ遺影の自分と目を合わせると、本能的なのかすぐに目を逸らし、
リビングの長テーブルの椅子に腰掛けます。
美恵はキッチンへ消えると、
しばらくしてポテチとコーラを出します。
おそらく仏壇にあげるストックでしょう。
恵美の好物だったお菓子であることがうかがえます。
「お嬢ちゃん、ポテチとコーラは好きでしょう?」
美恵は確信を込めて言います。その声には迷いがありません。
「うん! 大好き!」
「キュアプリも好きよね?」
「うん!」
「一番好きなのは、ハートフル・キュアプリかしら?」
「そうだよー!」
「ゲームステーション3にも興味あったのよね?」
「よく知ってるねー」
「じゃあきっとすき焼きも大好きよね?」
「うん!」
そこまでのやり取りを続けると、美恵は再びキッチンへ向かい、うつむきます。
「……恵美」
その声は消え入りそうなほど小さなものでしたが、
あゆむにはハッキリと聞こえました。
それはガブリエルママも同じだったようで、
彼女は前に出ますが、あゆむがそれを腕を伸ばして制します。
「聞かせてくれますか? 恵美さんの……えっちゃんのこと」
あゆむはそれを聞かねばならないと、そう思いました。
あゆむが言わねばバアルゼブルが聞いていたでしょう。
これは清算なのだと、あゆむはそう理解します。
トリエルを迎えたあゆむと、
恵美の面影に縛られ続ける美恵との過去と現在の清算です。
美恵はおもむろに口を開き、語りだします。
「……恵美は最初は1400グラムで産まれたんですよ」
――――
2009年、東京の郊外、
とある若い妊婦が急な破水を起こしました。
名を桜井美恵21歳。彼女はまだ妊娠30週目、
「早すぎる」美恵はそう焦りながらも、
初子のため帰省していた事が幸いし、祖母が直ちに緊急通報。
「絶対に助けますから!」
「大丈夫! 母ちゃんが付いてるから!」
痛いと泣き叫び、早すぎる破水に焦る美恵を
救急隊も祖母も必死に励まします。
病院に到着すると直ぐに手術室へ運ばれ
帝王切開が開始され、女児を出産します。
……が、体重はわずか1400グラム。
超早産のため彼女は無菌の保護室へ運ばれ、
十分な体重になるまで徹底管理される事となりました。
「大丈夫、絶対助かるから」
夫の照人も妻を励まし、
二人は合間を見てはガラス越しに我が子を見守ります。
「今、笑った気がする」
ふと、美恵がそういうと照人も「うん。笑った」
と二人は娘を静かに見守り、微かに笑います。
そこでふと思いついたかのように、美恵が口を開きます。
「名前は……恵美なんてどうかな……」
美恵の娘だから恵美と思うでしょうか。
いいえ、二人にとってはそこにいるだけで笑みをくれる存在だから
恵美。
その提案に照人も優しく頷き、
彼女の名は桜井恵美に決まりました。
――――
「恵美はよく笑ってくれる子で、そこにいるだけで嬉しくて、
楽しくて仕方がなかった……」
美恵の目からは涙がこぼれます。
その視線はトリエルへ向けられ、彼女も何かを感じたかのように、
瞳を茶色く輝かせ、どこか切なそうに美恵を見つめます。
美恵は話を続けます。
――――
ある日の事です。
恵美はいつものように庭で遊んでいる時、
急に膝が痛いと言い出しました。
転んで痛めたのかと、美恵は小児科に連れていきますが異常なし。
「休ませてあげれば良くなると思います」
医師のその言葉を信じ美恵は恵美を休ませると、
しばらくして恵美は元気になりました。
それもあって美恵はすっかり信じ込みましたが、
そんなことが何度かあったある日――
恵美が「痛い痛い」と膝や腹部を押さえて泣き叫びます。
「どうしたの!?」
美恵は駆け寄ると、恵美はこれまでよりも激しく膝の痛みを訴えます。
「痛い……!! 痛い……!!」
(ただ事ではない)
美恵は恵美を抱き抱えると小児科へ連れていきますが――
(異常なし!?)
「そんなはずない!!」美恵は声を張り上げますが、
診断結果は変わりません。医師は首を横に振ります。
この時はじめて美恵は「なにかの病気なんだ」そう思いました。
(小さなクリニックの小児科じゃダメだ)
すがる思いで美恵は夫と共に大きな総合病院へ連れていきます。
――――
独特の消毒液の匂いが広がる診察室に、美恵母娘は夫と共にいました。
カルテでしょうか、青いファイルが整然と棚に並び、
手前に座る医師はパソコン画面を眺め、やがて振り返ると言い辛そうに美恵に告げます。
「急性の小児白血病です」
白血病……その言葉を聞き、
美恵はハンマーで叩かれたような衝撃と痛みを胸に受けます。
病室の薬品臭さすら感じないほどに、白血病という医師の宣告は、
美恵の胸に、痛みと深い絶望を残します。
「助かるん……ですよね?」
その言葉に期待はなく、助かると言って欲しい……
嘘だと言って欲しいという逃避でした。
「安心してください。白血病はガンと言っても、化学療法で90%以上が助かる病です。
お嬢さんも必ず助かりますよ」
医師のその言葉に、美恵は大粒の涙を流し、
「お願いします……助けてください」と膝から崩れ、医師にすがります。
お願いします……お願いしますと、何度も繰り返して。
照人は美恵を抱き支えると、医師の聞き慣れない言葉に対して質問をします。
「化学療法とはなんです?」
「抗がん剤と言えば分かりますか? それを使います」
「抗がん剤って大丈夫なんですか? 身体への負担は?
骨髄移植ではダメなのですか?」
「骨髄移植は身体へかかる負担が大きく、
お嬢さんの年齢を考えた場合、抗がん剤による治療が適切です。
ステージ的にもそれが一番です」
「再発の可能性は?」
「現在の化学療法であればおよそ20%程度です。
仮に再発したとしても、
5年以内に70%の患者さんが寛解しています。
安心してください。必ず助かります」
医師のその説明に、二人の表情はようやく希望を見出し、
抗がん剤による化学療法を選択します。
…………
複数のベッドが並ぶ病室では、
美恵はまだ自分の状態が分からない、恵美の無垢で小さなその手を、ぎゅっと握っています。
それは励ましとも、恵美を離したくないという逃避とも、
あるいはその両方とも取れるでしょう。
一瞬でも気を抜けば娘の前でポロポロと大泣きしてしまいそうな程に、
今美恵は心細く、白血病という重い病の名前が脳裏で繰り返されます。
それでも、娘の前では笑顔で、強くなくてはならない。
自分が泣いては娘が不安になる。
美恵は必死に笑顔を作り、医師の言葉を心の中でリピートします。
(白血病は最新医療で90%が助かる病気)
(90%が助かる病気)
「安心して、恵美。恵美の病気はね?
90%以上の人が助かる軽いものだから。
恵美はいい子だから、大丈夫よ」
「うん。恵美、頑張るね」
何も知らない恵美は母のその言葉を信じ、明るく答えます。
けれども、その無垢が美恵の心を皮肉にも抉ります。
白血病は確かに90%が助かる病です。
しかし、裏を返せば10%の人が亡くなっている、そんな病気なのです。
助かる可能性が高い、と言うだけで「軽く」はないのです。
その嘘が、美恵の胸を痛めつけるのです。
けれど、真実になどなんの意味もありません。
嘘で娘が助かるなら、美恵は喜んで嘘をつきます。
「助かるから」と美恵は恵美に必死にそう言い聞かせ、
そうすることで自分も安心させようと必死でした。
美恵は心の中で「90%が……ほとんどが助かっている」
と呪文のように何度も繰り返します。
そうしなければ、不安で押しつぶされそうでした。
治療期間はおよそ2~3年。
「小学校に間に合うかな?」
「間に合うよ。大丈夫だから。恵美は強い子だから」
大丈夫だから、強いから。
その言葉は、あるいは呪文は、恵美よりも美恵自身に向けられていました。
…………
やがて抗がん剤による化学療法が行われ、
恵美は副作用による痛みや脱毛に耐えながら、
両親のお見舞いの際には常に笑顔を作りました。
「すぐ良くなるね」
「大丈夫。みんな助かってるから。恵美だって絶対平気よ」
その想いが通じたのでしょうか。
一年後、恵美は回復し、無事退院出来ました。
照人と美恵はすっかり安心し、
「今日はお祝いですき焼きにしましょう!」
と恵美の好物を用意します。
「恵美、キュアプリみたく強くなったよ!」
「そうね。きっとキュアプリが助けてくれたのね」
…………
回復した恵美を中心とした親子三人は、笑顔を取り戻し、
表向きはより絆を強めました。
けれど、一度経験した深い絶望は、美恵の心に大きなトラウマを残します。
美恵は恵美に何かある度に神経質になるようになり、
とりわけ「痛い」という言葉にヒステリーに近い過剰な反応を示すようになります。
「痛!」
その言葉に美恵が真っ青な顔で駆け寄ります。
奥のキッチンではガシャンという皿の割れる音が響きます。
「恵美!? 恵美!!」
美恵の目に映ったのは、膝を押さえる恵美の姿。
(まさか……!!)
かつてのトラウマが美恵の脳裏に蘇ります。
最愛の娘。人生の全て。それを失うかもしれない恐怖が。
「大丈夫。ちょっと転んだだけ」
「そんなのなんでわかるの!? 病院いこう?」
そこにいつもの優しい母の顔はなく、娘を失いたくない。
もうあの悲しみを繰り返したくない。
そんな美恵の恐怖に歪んだ顔がありました。
そんな美恵の表情に、恵美も困惑し、その恵美の態度に美恵の不安が強くなる。
そんな負のスパイラルが形成されます。
「え……でも」
「お願い!! お願いだから……一緒に、一緒に病院行こう……ね?」
美恵は膝から泣き崩れ、恵美にすがりつきます。
その母の涙に、恵美も泣き出し、二人は抱き合ったまま泣き、救急車が呼ばれます。
「……軽い打撲です」
運ばれた先の病院では、以前恵美が白血病を患ったこともあって、念入りに検査されましたが、
異常は見当たらず、医師も困惑気味に答えます。
「……ご迷惑をかけました」
美恵は深く頭を下げて診察室を出ましたが、その表情は晴れません。
本当に娘は助かったのか?
その不安は消えないのです。
そんな美恵の不安を、小さな恵美は繊細に感じ取ります。
いつしか恵美は痛みを感じることが怖くなり、
「痛い」ということを言わなくなりました。
何があっても我慢し、無理にでも笑うようにしました。
「えへへ! 大丈夫」
その恵美の笑顔に、美恵も少しずつ自然に笑えるようになっていきます。
その笑顔が嬉しくて、恵美はますます痛みを我慢するようになります。
今になって思えば、間接や腹部の兆候と呼ばれる痛みでさえ、
恵美は懸命に堪えました。
(大丈夫。痛くない……笑わなきゃ)
しかし、その恵美の我慢が、
取り返しのつかない病魔を再び呼びます……
それはまるで悪魔が恵美の優しさを嘲笑うかのようです。
ある時、恵美は自室でとうとう痛みが我慢出来なくなって、
言ってはいけないと決めた「痛い」という言葉を繰り返し、
大きな声で泣き出してしまいます。
「痛い!! 痛い……!!」
「恵美!!」
その泣き叫びを聞くや、美恵は直ぐさま駆けつけ、
腹部を押さえる恵美を抱き抱えます。
――あの時の痛みだ。
美恵は直感し、恵美は緊急搬送されます。
「再発しています。しかも以前よりステージが進んでいます。
兆候はなかったのですか?」
医師はどこか責めるような表情で美恵に冷たく言います。
まるで美恵が我慢させた。
そう言いたいかのようです。
(私のせいだ。私が恵美に我慢させた)
美恵は自分を責めましたが、もう過ぎた過去は取り返せません。
後悔をどれだけ重ねても、再びやってきた病魔は退散しないのです。
…………
恵美はすぐに再入院しますが、我慢により進んだステージのそれは、
幼い恵美の体力を大幅に奪っていきます。
「なんでこの子が……恵美が何をしたの!!
90%が助かるって……そう言ったじゃない!!」
美恵はただそう叫ぶしかありませんでした。
迫り来る娘の白血病の恐怖から、叫ぶことしかできません。
自分のせいだと責めても、それで不安が消えるわけでもなく、
やり場のない怒りや不安が募るだけです。
夫の照人は、そんな妻へのストレスから仕事に逃げるようになり、帰りが遅くなりました。
夫婦のすれ違いは、美恵を孤独にし、恵美に依存させます。
美恵は毎日病室へ通い、
小さな手を、恵美の無垢な手を握りしめます。
「大丈夫。大丈夫だから」
「あゆむ君とも、また遊べるよね……?」
「もちろんよ……あゆむ君が、また遊ぼうって、そう言ってたわ」
代われるものなら、自分が代わりたい。
それで娘が助かるのなら、どんな痛みだって安いものなのに……
しかし、そんな願いは叶いません。
なんで娘が……悔しくて、涙が止まりません。
…………
再入院から数日が経ったある日のことです。
「ねえお母さん」
「なあに?」
「天国って……どんなところかな……」
この時、恵美は何気なくそう聞きました。
再発しても助かると聞いていたので、恵美自身はきっと平気だと。
しかし、それでも微かな不安が、
まだ死ということを完全には理解できない少女に、
このような質問をさせました。
ですが、その何気ない質問は美恵の心を大きく抉ります。
「……なんで……なんでそんなこと……聞くの……?
恵美は……恵美は助かるん……だから……助かる……から。
天国なんて……気にする必要……ない……でしょ……?」
美恵は恵美の手を握り、笑顔を作っているつもりでしたが、
目からはポロポロと涙がこぼれます。
恵美は母の笑顔が大好きでした。
母の優しい笑顔が好きで、いつも笑っていて欲しくて、
恵美もよく笑うようになりました。
人の笑顔を願う。そんな優しい子になりました。
けれど、今その母は……大好きな人は、泣いています。
その涙に、恵美自身も胸を痛めつけられ、どうしようもなく悲しくなり、涙が溢れます。
そして、この時恵美は初めて
「自分は思ってるより、ずっと重いんだ」と知ります。
「お母さんは…いつも笑顔だったのに……大丈夫だって……」
このまま二人は泣き続け、
母がいない時、恵美は恐怖でずっと震えて泣き続けました。
「天国になんて……行きたくない……行きたくない……!
お母さんとずっと一緒がいい……!!」
その日以降、美恵がお見舞いに来るたび、
恵美の笑顔は少しずつ小さくなっていきました。
でも美恵はそれに気付かないフリをしていました。
娘は助かるのだからと……
再発しても70%以上が助かっているのだからと。
それから半年ほど経った、ある日のお見舞いの日です。
「お母さん……これ」
恵美はそう言って小さな木箱を差し出します。
「なあにこれ?」
「もうすぐお母さんの誕生日だから……」
だったらその日に……美恵はそう言おうとしましたが、
悟ってしまいました。
恵美は自分が非常に重い状態だと、
もうおそらく長くないと、そう気付いたのだと。
「大丈夫……恵美は助かるよ」
そう嘘をつくことしか出来ず、恵美も
「そうしたら、またすき焼き食べたい」
そう笑顔を見せて、嘘をつきました。
お互いに相手を悲しませたくなくて、
母娘は互いに嘘をつきました。
罪のない、悲しい嘘を。
…………
その翌日でした。
状態が急激に悪化し、桜井恵美は亡くなりました。
「たとえ再発しても、助かる確率は統計上70%を超えている。
白血病は90%助かる病」
そう聞かされていた美恵には、
その言葉がまるでナイフのように突き刺さります。
なら、そこから「溢れてしまった」恵美は
「何かしたのか」と。
恵美のどこが悪かったのかと。
なにか悪い事をしたから、天は見放したのかと。
この世は常に「何を」ではなく、「誰が」が重要となる世界。
その非情な摂理は、一人の少女に、いえ一組の母娘に牙を向きます。
「懸命に戦った」ことは評価されず、「恵美だから」助からなかった。
そんな考えが過ぎります。
美恵は何度も自問自答しますが、その答えは出ませんでした。
享年6歳。
その後恵美はあまりにも余白がある棺に入れられ、無言の帰宅をします。
葬儀の日、美恵は棺にすがり付いて「連れていかないで!!」と泣き叫び、
最後は葬儀屋の職員が必死に30分以上説得してやっと出棺。
以降はとても耐えられないと判断され、火葬は欠席。
遺骨は見ることすら出来ず、彼女は精神を病み、閉じこもるようになります。
塞ぎ込む美恵と、娘の思い出が詰まった家に照人は耐えられず、
判子が押された離婚届を置いて蒸発します。
美恵はますます塞ぎ込むようになりました。
何日か経ったある日、暗くカーテンが閉じられた部屋、
美恵はふとカレンダーを見ます。
「誕生日……」
そう言えば、まだあの木箱を見ていない。
美恵は思い出したかのようにそれを開けます。
ばあーっ。
紙がバネのように飛び出し、おばけの絵が開かれます。
そしてそこには
「大好きなお母さんへ。いつも笑顔でいてね……えみ」
そう書かれていました。
それを見た美恵は膝から崩れ落ち、木箱を抱きしめると、
ただひたすら泣きました。
やはり恵美は悟っていた。自分の死期を。
そのうえで、なんとか母を元気づけようと
びっくり箱のイタズラを用意したのです。
寂しくないよと。
それからそのびっくり箱は美恵の宝物になり、
彼女は常に持ち運ぶようになりました。
セロテープで何度も紙を修復しながら、
泣きそうになる度にそれを開けました。
何度も。何度も。
その度に笑顔を作り、生きようと悲しみに抗いました。
それが10年前です。
――――
今桜井恵美が生きていたら16歳になっています。
ちょうどトリエルの外見年齢と同じです。
お盆の日、彼女が見た茶髪の天使は
見ることが出来なかった娘、恵美の成長した姿でした。
「すみません……今日はもう帰ってください」
美恵は消え入る声でそう言います。
目の前にいる少女は娘の生まれ変わりだ。
けど娘『本人』ではない。
その思いがこの言葉を発せさせました。
去り際、トリエルはその箱を貸してとせがみます。
美恵はしばらく黙りましたが、そっと持たせます。
「ちょっとだけ目を閉じてて」
トリエルがそういうと、美恵は何かを感じたのか、目を閉じます。
トリエルが胸に手を当てると、トリエルの両目が強く光ります。
やがて木箱にその光が移り
「もういいよ」と言ってそれを返します。
返された木箱には妙な温もりがあり、
まるで人肌のように感じました。
「後で開けてね」
トリエルのその言葉が指す意味が、
美恵にはよく分かりませんでしたが、
その夜、美恵はまるで導かれるかのように木箱を開けます。
すると……
ばあーーーー!!
そう言って茶髪の天使の映像が木箱から現れました。
彼女の桜色の笑顔は部屋中に広がり、周囲が虹色に輝きます。
「……いつでもそばにいるからね……お母さん」
それはトリエルがはじめて「自分の意思」で使った「笑顔の権能」でした。
美恵はまた膝から崩れ落ちて、恵美の映像を「天使の娘」を抱きました。
すると、その映像の恵美もまるで意思があるかのように、美恵を抱くように消えます。
――たとえ生まれ変わっても、魂と記憶は恵美のままだよ。
トリエルは……■■エルはそう伝えたかったのです。
確かに彼女は、生物学上、桜井美恵とは他人です。
美恵もそこに囚われていました。
あの子は恵美の生まれ変わりかもしれないけど、恵美じゃない……と。
しかし違ったのです。
トリエルの中に、恵美は確かに生きていて、さらに成長していたのです。
そして成長した姿で現れ、トリエルは恵美だと、そっと明かしました。
…………
その日から、トリエルは美恵の家に頻繁に訪れるようになりました。
お互いに本当のことを知りながら、二人はそれを口にせず、心の中で温めます。
本当のところ、美恵はトリエルを抱きしめ、
「おかえりなさい」
そう魂の言葉を発したいのです。
もう二度と離れないでと、強く抱き締めたい。
恵美としてもう一度、一緒に暮らそうと、そう言いたくてたまらないはずです。
けれど、今のトリエルは天使としてこの世に存在し、彼女には別の帰るべき場所がある。
桜井恵美の肉体はもうなく、天使の姿でしか存在できないのです。
トリエルの方も同じです。もし自分がまだ「恵美」として生きていられたら、
「ただいま」と笑顔で言いたい。
もうどこにも行かないよと、母を安心させたいはずです。
しかし、自分はもう人間の桜井恵美ではない。戻れない。
死んだ過去を振り払い、天使として新たな道を生きている。
美恵にこれ以上、娘の喪失を悲しませたくない。自分を責めさせたくない。
そんな想いが、二人に優しい嘘をつかせました。
母は娘の新しい人生を尊重し、娘は母に前を向いてほしいと願う。
もう涙を流してほしくない。後悔してほしくない。
トリエルとして母に寄り添う娘と、天使の少女として娘を受け入れる母。
かつて、二人は永遠の別れを強いられ、悲しい嘘で幕を閉じました。
でも今、ついているのは優しい嘘。
真実を明かせば、お互いを過去に縛ってしまう。
だから、優しい嘘で未来へ進むことを選んだのです。
「トリエルちゃん。
今度おばさんの家でキュアプリ見ながら、すき焼き食べましょう」
「うん! えへへっ! 楽しみー」
「お肉いっぱい買うから、ゆっくり噛んでね。
『むしゃごく!』はダメだからね?」
「おばさんトリエルのことよく知ってるね」
「おばさんはね? トリエルちゃんのことは、なんでも知ってるよ。
だってファンだもん」
「えへへっ! トリエルもね、おばさんの大ファンだよ」
「わたしも……ずっと……ずっとずっと……大ファンよ……」
たとえ直接正体を明かさなくても、そこには確かな母娘の絆が芽生えていました。
新しい形で、強く結ばれた絆。
最愛の娘を失い、時が止まっていた女性。桜井美恵。
彼女の心の時計は、天使の訪れでようやく動き始めました。
翌日、美恵は長年手をつけられなかった恵美の部屋を掃除し、窓を開け放ちます。
新鮮な風が部屋を満たし、灰色の心にも光が差し込みました。
「桜色の微笑みの天使」は、悲しみに暮れる一人の女性に、再び笑顔を届けました。
大切で、大好きな笑顔を。
「生まれてきてくれて……ありがとう……恵美」
…………
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