第01話 ただいまの形
久しぶりに降りた駅は、思っていたよりも静かだった。
古びたホームの端に立つと、潮の匂いが混じった風が頬をかすめる。
都会の空気とは違う、少し湿った空気。
生まれ育った街なのに、毎回どこか他人の土地のように思える。
スマートフォンの画面に表示された時刻を確認して、俺は小さく息を吐いた。
三ヶ月ぶりか。
妻も息子も、もう何年も訪れていない。
改札を抜けると、タクシー乗り場には一台しか停まっていなかった。
子どもの頃に比べると、駅前はずいぶんと寂れた。
高校の頃は毎日歩いていた距離。
五十歳を超えた今、実家まで歩くのは億劫だった。
タクシーに乗り込むと、運転手は無言で車を発進させた。
「○○町のほうまでお願いします」
そう告げると、運転手は軽く頷いた。
窓の外に流れる山々は変わらないのに、景色は思い出と違う。
前回の帰省では、営業していたラーメン屋が潰れ、空き地になっている。
そこは、もともと何か小さなお祝いがあるたびに、家族で通っていた定食屋だった。
視線を膝の上に落とす。
今回も、変わっているだろうか。
父は。
母が亡くなってから十年。
そのうちの何度目かの帰省。
三ヶ月という間隔は、短いようでいて、変化を確認するには十分すぎる時間でもある。
最初に違和感を覚えたのは、四年前の帰省だった。
会話が少しだけ噛み合わなかった。
そして、次の帰省には、その違和感がはっきりと形を持ち始めていた。
同じ話を、繰り返すようになった。
タクシーが実家の前に停まる。
料金を支払い、ドアを閉めると、車は静かに走り去った。
「ただいま……。」
門の前に立つ。
見慣れたはずの家。
だが、外壁の色がくすんで見える。
手入れが行き届いていないのか、それとも自分の記憶が変わったのか。
インターホンを押す。
少し間があって、足音が近づいてくる。
ガラリ、と引き戸が開いた。
「……おお」
中から顔を出した父は、しばらく俺の顔を見つめたまま、動かなかった。
「……来たか」
その一言に、俺はわずかに肩の力を抜いた。
「うん、三ヶ月ぶり」
「……三ヶ月?」
父は眉をひそめる。
その反応は、忘れているというより、『聞いた言葉の意味を持て余している』ように見えた。
「まあ、入れ」
そう言って、父は奥へと引き下がった。
靴を脱ぎ、上がり込む。
玄関の匂いは、以前と変わらない。
しかし、どこかに残っていたはずの生活の気配が、少し薄れている気がした。
廊下を進むと、居間からテレビの音が聞こえてくる。
父はすでに座っていた。
定位置に腰を下ろし、リモコンを手にしている。
画面にはニュース番組が映っていたが、音量はやや大きい。
「元気にしてた?」
俺が声をかけると、父はしばらく考えるように視線を宙に泳がせた。
「……ああ、まあな」
短い返事。
会話はそれ以上続かなかった。
俺は部屋の中を見渡す。
テーブルの上には、いくつかの薬のシートが並んでいた。
空になったものと、まだ残っているものが混ざっている。
父を担当するケアマネジャーさんによると、父はヘルパーさんを酷く拒むらしい。
それが理由で、担当が何人も変わっている。
「薬、ちゃんと飲んでる?」
「ああ、飲んでるよ」
父は即答した。
だが、その言葉に確信があるようには聞こえなかった。
俺はそれ以上追及しなかった。
ふと、壁に掛けられた写真に目が留まる。
家族三人で写っている。母がまだ元気だった頃のものだ。
その写真の前で、父の視線が止まる。
「……母さんは、元気だったか」
そう言った。
俺は一瞬、言葉に詰まる。
父の中で、母は『入院したまま』になっている。
その状態は、ここ数年変わっていない。
「……元気だよ」
短く答える。
父は安心したように小さく頷いた。
「そうか……。」
それ以上、会話は続かない。
テレビの音だけが、部屋に残る。
俺は台所へ向かう。
会話はまだ、完全には途切れていない。
そう思おうとする。
だが同時に、別の感覚が確かにあった。
この家は、少しずつではなく、確実に何かを失っている。
その変化を、三ヶ月ごとに確かめ続けることになるのだろう。
そして、次に訪れるとき、それはまた別の形をしているはずだった。




