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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第21話 先に置かれた言葉

廊下の水差しが、また取り上げられようとしていた。


若い書記官は、両手でそれを抱えていた。中身は多くない。水差しの口には布が巻かれ、揺らしても音が立たないようにしてある。奥の待機室にいる少女へ運ぶためのものだ。


だが、その前に立つ衛兵が、書記官の腕から水差しを抜こうとしていた。


「移送前の私物は、持ち込みを止めろとのことです」


私物。


リーゼは、その言葉で足を止めた。


水は私物ではない。布も私物ではない。人が、動かされる前に喉を湿らせるためのものだ。


それを私物と呼べば、差し止めの外に置ける。


それを移送前と呼べば、まだ移されていない事実を、もう移送が決まったものとして扱える。


若い書記官の指が、白くなっていた。


「まだ、移送の許可は出ていないはずです」


声を出したのはリーゼだった。


衛兵がこちらを見る。若い書記官も見る。彼はほっとした顔をしなかった。むしろ青ざめた。自分を助ける言葉が、また別の罪の入口になると知っている顔だった。


カイルは少し後ろにいた。


彼は止めなかった。


止めなかったが、助けもしなかった。


「移送ではありません」


衛兵は、そう言った。


「保護位置の変更です」


前室の空気が、薄くなる。


保護。


その言葉が使われた瞬間、リーゼの胸の奥で、硬いものが鳴った。


昨日まで、それは彼女が必死で選んだ言葉だった。人を動かさないための言葉。紙を開かないための言葉。名前を食わせないための言葉。


それが今、動かすための言葉として使われている。


「保護位置の変更なら、誰が保護を確認しましたか」


リーゼは聞いた。


衛兵は答えなかった。代わりに、脇に抱えていた細い紙筒を差し出した。封蝋は割られていない。表には、前室宛ての事務文字だけがある。


上席書記が受け取り、封を見た。


その顔が、わずかに固まる。


「騎士殿」


カイルが近づいた。


上席書記は、紙筒を開けないまま言った。


「外部照会です。発言者本人の意思確認を求めています」


「内容は」


「開封前に、発言者本人の署名が必要です」


リーゼは、手の中が冷たくなるのを感じた。


まただ。


中身を読ませないまま、先に署名を求める。


カイルが紙筒を見た。


「署名欄は」


上席書記が、封の端を示す。


紙筒の外側に、小さな札が二枚結ばれていた。


一枚目には、こう書かれている。


『虚偽王族名使用に関する自認』


二枚目には、こう書かれている。


『保全発言の王命性に関する忠誠確認』


前室の誰かが、息を止めた。


リーゼは、二枚の札を見つめた。


どちらも、同じ形をしていた。違う言葉で、同じ場所へ連れていく紙だった。


一枚目に署名すれば、彼女は言うことになる。


私は偽名で、人と証拠を止めました。


二枚目に署名すれば、彼女は言うことになる。


私の言葉は王命です。そして、それを誰から受けたか答えます。


どちらでも、人は動かされる。


どちらでも、証拠は先に開かれる。


どちらでも、彼女の口が、昨日より前に置かれた言葉の上に重ねられる。


「巧いな」


カイルが低く言った。


上席書記が視線を伏せた。


「はい」


「自認を取れば、保全は不法行為の結果になる。忠誠を取れば、保全は王命の経路になる。どちらにしても、昨日以前の言葉を、発言者本人の現在の意思で覆える」


リーゼは、若い書記官の腕を見る。


彼はまだ水差しを持っていた。


衛兵の手は、水差しの口元にかかっている。


奥の待機室の扉は閉じている。扉の向こうにいる少女の名前は、まだ誰も言っていない。言っていないから、守れている。言った瞬間に、連れていかれる。


紙筒は、まだ開いていない。


開いていないから、守れている。開いた瞬間に、読んだ者の名で処理される。


そして、自分は。


リーゼは、二枚の札を見た。


どちらかに署名すれば、少なくとも自分の立場ははっきりする。


罰せられるにしても、争うにしても、形ができる。


形ができれば、息はしやすい。


けれど、その息のために、順番が消える。


誰が先に「保全」という言葉を置いたのか。


どの控えが、彼女の言葉より前にあったのか。


どの手が、その言葉を動かす準備をしていたのか。


それが消える。


「署名しません」


リーゼは言った。


若い書記官が、目を閉じた。


衛兵の手に力が入る。


カイルは、まだ黙っている。


上席書記が、苦しそうに口を開いた。


「発言者本人が意思確認を拒んだ場合、保全は不成立として扱われるおそれがあります」


「不成立にしたい人が、そう書ける形になっています」


リーゼは答えた。


自分の声が震えているのはわかった。


けれど、止めなかった。


「私が今、自認しても、忠誠を確認しても、昨日より前に置かれた言葉が、私のものだったように見えます。違うかもしれないものが、私の罪か、私の王命になります」


「では、どうする」


カイルが聞いた。


質問は冷たい。


けれど、追い出す冷たさではなかった。


答えを置く場所だけを空ける冷たさだった。


リーゼは、二枚の札から目を離し、閉じた扉を見た。


「先に、順番を封じてください」


前室が静まり返った。


「中身ではありません。名前でもありません。誰の命令かでもありません。保全という言葉が、どの紙に、どの時刻に、どの位置で出たのか。それだけを封じてください」


上席書記が、ゆっくりと息を吸った。


「順番だけを」


「はい」


リーゼはうなずいた。


「私が嘘をついたかどうかは、あとで裁いてください。私の言葉に王命性があるかどうかも、あとで裁いてください。でも、その前に、私の言葉より前にあったものまで、私の口で塗らせないでください」


衛兵が眉を寄せた。


「それは、発言者本人が答えないということです」


「違います」


リーゼは、彼を見た。


「発言者本人が、先に答えないということです」


短い沈黙が落ちる。


若い書記官が、ほんの少し水差しを抱え直した。


カイルが、その動きを見た。


それから、上席書記に言った。


「記録名を」


「まだ、ありません」


「今つけろ」


上席書記は、唇を噛んだ。


机の上に、空の控え札が一枚置かれる。


筆先が迷った。


リーゼは、その迷いを見ていた。


名前をつければ、形になる。


形になれば、使われる。


使われれば、また誰かが傷つくかもしれない。


でも、形にしなければ、今ここで傷つく人がいる。


上席書記が書いた。


『先後保全封緘』


先と後。


保全。


封緘。


中身を言わないための名前。


順番を消さないための名前。


リーゼは、知らないうちに息を吐いていた。


カイルが、札を読んだ。


「効力は」


上席書記が答える。


「現時点で、開封、合綴、移動、後問、署名取得を一時停止。対象は、保全語句が現れた全控え、紙筒、発言者本人の二札、待機室の人物、紙体、および経路板開時刻控え。ただし、本文は読まない。人物名は取らない。発言者本人の罪責判断をしない」


「よし」


衛兵が口を挟んだ。


「それでは、外部照会への回答が遅れます」


「遅れる」


カイルは言った。


「遅れることを記録しろ」


「遅延責任は」


「発言者本人に負わせるな」


カイルの声が、そこで少し硬くなった。


「発言者本人は、署名を拒んだのではない。署名前に順番を封じろと答えた。違うなら、その違いを書け」


衛兵は黙った。


若い書記官の肩が、目に見えて下がった。


リーゼは彼を見ないようにした。


見れば、助けた気になってしまう。


助けたのではない。


まだ、ただ止めただけだ。


「水は」


リーゼは言った。


衛兵が反射的に水差しを見る。


「保護位置の変更が止まったなら、水は私物ではありません。現位置での保護です」


上席書記が、すぐに書いた。


『水差し、現位置保護物。移送前私物に非ず』


若い書記官の目が赤くなった。


それでも、彼は礼を言わなかった。


言えば、彼がまた目立つ。


リーゼも、何も言わなかった。


水差しだけが、静かに奥の扉へ運ばれていく。


その音を聞いて、前室の誰かが小さく息を吐いた。


カイルは、二枚の札を机の中央に置いた。


「これで満足か」


「いいえ」


リーゼは答えた。


今度は、すぐに。


カイルの眉が少し動いた。


「満足してはいけないと思います」


「なぜだ」


「これは、人を守るための形です。でも、私を守る形にも見えます」


前室がまた静まった。


リーゼは、机の上の札を見た。


自認。


忠誠。


先後。


どれも、紙だ。


紙は人を守れる。紙は人を食べる。


だから、紙を持つ手を間違えてはいけない。


「私がこれを出せば出すほど、誰かが言えます。偽の王女は、また自分のために手続きを増やした、と」


カイルは答えない。


リーゼは続けた。


「だから、記録してください。私は、この封緘で自分の処分を遅らせることを求めていません。待機室の人物、紙体、経路板開時刻控え、保全語句の先後だけを、先に動かさないよう求めました」


上席書記が、筆を取った。


「それを書くと、あなたの逃げ道が狭くなります」


「はい」


「発言者本人が、自分の処分より証拠順序を優先した、と残ります」


「はい」


「その文は、あなたを助けるとは限りません」


「でも、人と証拠を助けるかもしれません」


上席書記は、それ以上言わなかった。


筆が走る。


リーゼは、書かれていく一文字一文字を見ていた。


自分のための言葉ではない。


そう思わなければ、立っていられなかった。


カイルが、ふいに紙筒を持ち上げた。


「外部照会の返答は、こうだ」


彼は、上席書記を見た。


「発言者本人は、自認札および忠誠確認札への先署名を拒む。ただし、意思確認を拒否したのではなく、署名前に保全語句の先後を封緘するよう求めた。よって、開封、合綴、移動、後問、署名取得は一時停止」


「騎士殿」


衛兵が低く言った。


「それは、外部照会に対する抗命と取られます」


「俺の名で出す」


「騎士殿の名ですか」


「保全監督としてではない」


カイルは言った。


「現場停止の責任者としてだ」


リーゼは、思わず彼を見た。


カイルはこちらを見ていなかった。


彼は、自分の逃げ道も少し削った。


リーゼを信じたのではない。


紙の順番を信じたのでもない。


ただ、今ここで動かせば誰かが食われると判断した。


それだけだった。


それだけでよかった。


前室の奥から、扉が小さく鳴った。


水差しが、内側へ渡された音だった。


誰の声も聞こえない。


名前も出ない。


それでも、そこに人がいるとわかる音だった。


上席書記が、新しい紙を一枚取り出した。


「騎士殿」


「まだ何か」


「外部照会に、添付の予備通知があります。これは、開封せずとも表題が読めます」


カイルが顎を動かす。


上席書記は、紙の端に書かれた表題を読んだ。


『発言者本人の権限状態に関する正式判定通知』


リーゼの背中に、冷たいものが落ちた。


カイルの手が止まる。


上席書記の声は、さらに低くなった。


「判定候補は三つです」


誰も動かない。


紙の中身は読まれていない。


それでも、表題だけで十分だった。


「第一。虚偽王族名使用」


二枚の札が、机の上で冷たく光る。


「第二。緊急保全」


リーゼは、奥の扉を見た。


水差しの音は、もうしない。


「第三。暫定命令」


前室の空気が、今度こそ止まった。


誰も、その言葉をすぐに受け取れなかった。


暫定。


命令。


それは、王女と認める言葉ではない。


無罪にする言葉でもない。


けれど、偽だと切り捨てるだけではない言葉だった。


リーゼは、喉の奥が痛くなった。


自分が望んだものではない。


望んではいけないものだ。


でも、人と証拠を動かさないために置いた言葉が、とうとう、彼女自身の上に戻ってきた。


カイルが、紙を伏せた。


「読むな」


上席書記がうなずく。


「今日は、読むな」


カイルは、リーゼを見た。


その目に、優しさはなかった。


だからこそ、リーゼは逃げられなかった。


「次に問われるのは、お前の名前ではない」


彼は言った。


「お前の嘘が、何を止めたかだ」


リーゼは、答えられなかった。


奥の扉の向こうで、誰かが水を飲む、ごく小さな音がした。


その音だけが、今の彼女に残された答えだった。


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