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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第18話 留置の廊下

扉の外は、記録室よりも寒かった。


中立机の上では、白札十二番が動かなかった。

そのかわり、廊下にいる者たちが動けなくなっていた。


低い扉の前から離された少女は、屏風の向こうに座らされていた。

名は呼ばれない。

番号も呼ばれない。

ただ、保護中、とだけ書かれた細い札が、屏風の手前に置かれている。


若い受領係は、その斜め向かいに立っていた。

座れと言われても、腰を下ろさなかった。

自分が座れば、誰かが立たされると思っているようだった。


リーゼは、屏風の下から見える指先を見た。


少女の指は、杯を持っていた。

水が入っている。

それだけで、前の部屋とは違った。


「毛布をもう一枚」


カイルが言った。


命令ではなかった。

だが、廊下の兵はすぐに動いた。


少し前なら、誰も動かなかったかもしれない。

王女でもない少女の言葉で止まったものを、兵が守る理由はなかったかもしれない。


けれど、いまは違った。


中立机の記録がある。

無帰属権限留置がある。

開けない、呼ばない、戻さない、責めない、混ぜない。


それらはまだ、答えではない。

答えではないからこそ、廊下にいる者たちの足を止めていた。


「第二控えへ移します」


声がした。


廊下の端から走ってきた下役が、細い板を両手で掲げていた。

板には、短い移動書きが挟まれている。


「保護中の女、受領経路証人、夜置き棚担当を、第二控えへ。記録室周辺の廊下を空けるように、とのことです」


若い受領係の顔が白くなった。


少女の指が、杯の縁を強く握った。


廊下を空ける。

言葉だけなら、ただの整理だった。

人を広い場所へ移す。

疲れた者を休ませる。

危ない場所から遠ざける。


悪いことのようには聞こえない。


だからこそ、危なかった。


リーゼは、板を見た。


「第二控えには、誰がいますか」


下役は、答えられなかった。


「誰の控えですか」


「通常の証人待機室です」


「通常、とは誰の通常ですか」


下役の手が、板の下で震えた。


カイルがリーゼを見る。


「また止めるのか」


「はい」


即答してから、リーゼは息を吸った。


止める。

その言葉が、いまの自分には重かった。


処刑台で人を止めた。

記録室で扉を止めた。

白札を止めた。


止めるたびに、彼女の名ではないものが、彼女の首に近づいてくる。


「王女の命令としてか」


カイルの声は、低かった。


リーゼは、首を横に振った。


「新しい命令ではありません」


「では何だ」


「さっき書かれた留置です」


廊下が、静かになった。


リーゼは、屏風の前に置かれた細い札を指した。


「保護中の女。受領経路証人。夜置き棚担当。いま、その三つは、まだ別々に置かれています。移せば、同じ第二控えに入ります」


「休ませるためだ」


下役が言った。


責めるためではない。

その必死さが、言葉の先ににじんでいた。


リーゼは、彼を責めなかった。


「休ませることは、必要です」


そう言うと、少女の指が少しだけ緩んだ。


「でも、移すことは別です。水と毛布をここへ持ってくることと、人を別の場所へ動かすことは、同じではありません」


カイルの目が細くなる。


リーゼは続けた。


「優しさでも、経路になります」


その言葉を出した瞬間、自分の胸が痛んだ。

安心しろと言われて別室へ連れていかれた者を、リーゼは知っている。

丁寧な手でも、戻る場所を変えれば人は消える。


「第二控えに移したあと、誰が、この少女を同じ場所にいた者として証言しますか」


リーゼは屏風を見なかった。

見れば、呼んでしまいそうだった。


「誰が、若い受領係を、同じ受領経路証人として証言しますか」


若い受領係が、小さく息を呑んだ。


「誰が、夜置き棚担当を、責任者ではなく経路の証人として置き続けますか」


下役は黙った。


答えがない沈黙ではなかった。

答えてはいけないと気づいた沈黙だった。


「移せば、悪意がなくても、新しい札が付きます」


リーゼは言った。


「第二控えの札。移送者の札。移した理由の札。さっき留置した束に、別の束が重なります」


「お前は、廊下で台帳を作る気か」


カイルが言った。


叱責ではない。

試していた。


リーゼは、ようやく彼を見た。


「いいえ。廊下で、人を動かさないだけです」


その答えに、カイルは笑わなかった。


ただ、短く言った。


「読め」


記録係が、記録室の内側から顔を出した。


「はい」


彼は中立机の紙を持ってきた。

まだ乾ききっていない墨の匂いが、廊下まで出てくる。


「対象。低い扉前状態、保護中の女、紙本文、白札十二番、前日準備台帳、古い受領印、夜置き棚記録、受領経路証人、中立机記録」


一つずつ読まれるたび、廊下にいる者の目が、その対象へ向いた。

扉へ。

屏風へ。

記録室へ。

若い受領係へ。


「追加理由。白札十二番は対象者特定の根拠ではなく、古い受領経路への付着可能性を示す。本文未開封、対象者未特定、発信源未確認、許可者不在。よって、誰の名にも帰属させないまま留置する」


記録係が、最後の行へ目を落とす。


「留置中、移動、返却、開封、統合、責任者仮置き、証言順変更を禁ずる。必要な保護物は現位置へ届ける」


その一文で、廊下の空気が変わった。


リーゼは、はじめてその行を聞いた。

書かれていた。

自分が言ったからではなく、部屋が止まるために書いたから。


下役が、板を抱えたまま立っていた。


「では、移せません」


彼の声は、まだ震えていた。

けれど今度の震えは、さっきとは違った。


怖いから従えないのではない。

記録があるから従わないのだ。


「移せません」


彼はもう一度言った。


「水と毛布は、こちらへ届けます。第二控えへの移動は、留置違反として差し戻します」


若い受領係が、顔を上げた。


屏風の向こうで、杯が小さく揺れた。


リーゼは、何も言わなかった。


言えば、それはまた命令になる。

だから、何も言わなかった。


カイルが下役を見る。


「差し戻しの控えを作れ」


「誰の名で」


下役が聞いた。


カイルは一瞬だけ、リーゼを見た。


王女の名。

影の名。

偽の名。


どれを使っても、危ない。

どれを使わなくても、危ない。


リーゼは口を開いた。


「見た者の名で、お願いします」


カイルの眉が動く。


「私の名ではなく。王女の名でもなく。移そうとした板を見た者、留置の行を読んだ者、移さなかった者。その三つで、控えを作ってください」


下役は、しばらく理解できない顔をしていた。


記録係が先に頷いた。


「廊下差止め控え」


彼は言った。


「移動書き到着。留置行確認。現位置保護物搬入へ変更。移動不実施。目撃者三名」


その言葉で、廊下に新しい紙が生まれた。


薄い。

小さい。

誰かを裁くには足りない紙。


それでも、誰かを動かさずに済ませるには、足りる紙だった。


下役が膝をつき、板を床に置いた。


「差し戻します」


「責められるかもしれない」


カイルが言った。


下役は、顔を青くした。

それでも、板から手を離さなかった。


「その時は」


リーゼは言った。


「あなたが勝手に拒んだのではない、と記録します」


「でも、それでは」


下役の声が消えかけた。


リーゼが罪を増やす。

王女でもない少女の言葉が、また誰かの責任を止める。

そのかわり、彼女自身の名が、もっと逃げ場を失う。


そう言いたかったのだろう。


リーゼは、静かに言った。


「誰か一人の勝手にするために、留置したのではありません」


廊下の奥で、兵が戻ってきた。

毛布を二枚抱えている。

水差しもある。


彼は、屏風の前で足を止めた。


「入ってもよろしいですか」


少女の名を呼ばなかった。

番号も呼ばなかった。


ただ、屏風の向こうへ向かって、そう聞いた。


リーゼは、胸の奥が細く震えるのを感じた。


それは勝利ではない。

少女の答えがわかるわけでもない。

彼女が誰なのかも、なぜここにいるのかも、何を見たのかも、何もわからない。


けれど、名を呼ばずに尋ねることができた。


それだけで、廊下は少しだけ前と違っていた。


屏風の向こうで、杯が置かれる音がした。


小さく、布が擦れる。


返事はなかった。

返事がないまま、兵は待った。


それを見て、若い受領係もようやく座った。


誰も命じなかった。

座れとも、立てとも、答えろとも言わなかった。


彼は、自分で腰を下ろした。


少女は名を呼ばれないまま動かず、若い受領係は証人のまま座り、水と毛布だけが廊下に届いた。


カイルが、リーゼの隣に立つ。


彼は廊下の中央ではなく、第二控えへ向かう角の前に立った。

誰もそこへ動かされないように、道をふさいでいるだけだった。


「お前の言葉で、また一枚増えた」


「はい」


「廊下差止め控え。お前を軽くする紙ではない」


「知っています」


「なら、なぜ止めた」


リーゼは、屏風の前に置かれた水差しを見た。


「動かす方が、簡単だったからです」


影だった頃の彼女は、簡単な部屋替えと簡単な言い換えの中で、人が消えるのを見てきた。

簡単な手順ほど、誰の罪でもない顔をする。


「だから、止めました」


カイルはしばらく黙っていた。


その沈黙は、信頼ではない。

けれど、否定でもなかった。


廊下の端で、下役が差し戻しの控えを持って走り出す。


足音が遠ざかる。

すぐに、別の足音が戻ってきた。


早すぎる。


リーゼが顔を上げると、下役は息を切らしていた。

手には、さっきとは別の細い板がある。


移送ではなかった。

呼び出しでもなかった。


確認書だった。


記録係が受け取り、読み上げる前に、カイルがその板を見た。


表情が、わずかに変わる。


「なんと」


リーゼが聞く。


カイルは、すぐには答えなかった。


答えないまま、板を彼女へ向ける。


そこには、短い一文だけがあった。


留置効力確認のため、当該留置を成立させた発言者本人を、次回照合に同席させること。


王女とは書かれていない。

影とも書かれていない。

偽物とも書かれていない。


ただ、発言者本人。


リーゼは、その文字を見た。


逃げ道のない呼び方だった。


「私ですね」


「お前だ」


カイルは言った。


廊下では、誰も動かされなかった。

屏風も、証人も、若い受領係も、白札の束も、動かなかった。


そのかわり、リーゼだけが次へ動かされる。


彼女の嘘は、人の足を止めた。


そして今度は、その嘘をついた者の足が、呼ばれていた。


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