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亡国の嘘姫は、処刑台で本物になる  作者: 井芹蒼


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第15話 置かれた名

「鍵を返せ」


最初に罰を受ける形を取ったのは、紙ではなかった。


人だった。


第十五照合の机に、未使用札の箱が戻された直後、記録係の一人が低い声でそう言った。

言われた若い受領係は、何も反論しなかった。

彼は両手を胸の前で合わせたまま、ただ箱の縁だけを見ていた。

さっきまで白札を数えていた指が、もう自分のものではないように固まっている。


「未使用札は、お前の箱から出た」

記録係は言った。

「凹みのある札も、お前の箱から出た。ならば、最初に答えるのはお前だ」


その言い方は、答えを求めているようで、もう答えを決めているようでもあった。


リーゼは、机の上の白札を見た。

紙の本体は、まだ開かれていない。

低い扉も、まだ開かれていない。

白札は、ただ白いまま並べられている。

凹みのある第三未使用札だけが、薄い木枠の中で、他よりも少し遠くに置かれていた。


誰の名もない。

誰の印もない。

けれど、誰かを罰する形だけは、もう生まれている。


「鍵を返させる前に、記録してください」


リーゼが言うと、部屋の息が止まった。


若い受領係が、恐る恐る顔を上げた。

その目は、助けを求めているというより、助けを求めてはいけないと教え込まれている目だった。


「何をだ」

上座の官が問う。


「彼の罪ではなく、彼の位置を」


リーゼは、わざとゆっくり言った。

早く言えば、命令に聞こえる。

強く言えば、庇護に聞こえる。

どちらも、いまはこの若い男を殺す。


「彼が箱を持っていたこと。箱を開けた時刻。札を数えた順。どの札を手に取ったか。どの札に触れていないか。彼が白札を作ったかどうかではなく、どこで白札に出会ったかです」


「詭弁だ」

記録係が言った。

「持っていた者が、まず疑われる」


「疑われます」

リーゼは頷いた。

「だから、罰する前に分けます。扱った者。置いた者。押した者。名を書いた者。動かした者。同じ人とは限りません」


机の端で、カイルが目を細めた。


「お前は、また人を逃がす言葉を作っているのか」


「逃がすためではありません」


リーゼは彼を見た。


「逃げられないようにするためです。違う人の罪で」


若い受領係の喉が、小さく鳴った。

その音を、誰も聞かなかったふりをした。


リーゼは、未使用札の箱を指した。


「箱の底を見てください」


「紙ではなく、箱か」


「はい。凹みが札だけのものなら、札を疑えばいい。凹みが箱の中の位置と合うなら、札が一枚で動いていたとは限りません。積まれたまま、押されています」


記録係が、口を閉じた。


カイルが短く命じた。


「箱を開けろ。ただし札を動かすな。角度だけ変えろ」


護衛が動く。

木箱の蓋が外される。

古い木の匂いが、白い紙の乾いた匂いに混ざった。

若い受領係は一歩下がろうとしたが、足が動かなかった。


「そのままでいい」


リーゼは言った。


「あなたは、いま逃げてはいけません。逃げれば、逃げたことだけが記録されます」


「わ、私は」


若い男は声を詰まらせた。


「私は、数えただけです。十枚を数えて、戻して、箱を閉めました。底は見ていません」


「誰に数えろと言われた」


記録係が食いつく。


若い男はすぐに答えようとした。

けれど、その口より先に、リーゼが言った。


「その前に、質問者の名を記録してください」


記録係が彼女を睨む。


「何だと」


「この問いは、誰が命じたかを聞いています。彼が答えた瞬間、その名は別の者を疑うために使われます。ならば、誰がその名を求めたのかも同じ行に必要です」


「お前は、尋問まで止めるのか」


「止めません」


リーゼは、白札の列を見た。


「順番を入れます。扱いを聞く前に、作成を聞かない。作成を聞く前に、許可を聞かない。許可を聞く前に、名前を求めない」


部屋が、また静かになった。


その静けさは、好意ではない。

理解でもない。

だが、さっきまで若い受領係へ一直線に向かっていた罰の形が、少しだけ鈍った。


カイルが書記へ言った。


「欄を分けろ」


「どのように」


「取扱。作成。押印。移動。命令。証言」


書記は、一瞬だけリーゼを見た。

それから、羽根ペンを取った。


認められたわけではない。

それでも、手順が変わった。


リーゼはその変化を見て、息を吐きそうになった。

だが、吐かなかった。

息を吐けば、助かったと思ってしまう。

まだ助かっていない。

この若い男も。

彼女自身も。


護衛が箱の底を傾ける。

底板の右奥に、浅い傷があった。

古い傷ではない。

角が白く、木の毛羽がまだ寝きっていない。


書記が未使用札を並べ直さずに、薄い測り紐だけを当てた。


「第三未使用札の凹みと、箱底右奥の傷が合います」


「重なって押されたか」

カイルが問う。


「その可能性があります」


「一枚だけではないのか」


「少なくとも、一枚を抜いて押した形ではありません。束の位置で、上から圧がかかっています」


若い受領係の膝が崩れかけた。

だが彼は倒れなかった。

倒れてはいけないと知っていた。

倒れれば、また別の意味を与えられる。


リーゼは彼に言った。


「あなたが数えた時、札は何枚でしたか」


「十二枚です」


「使用済みは」


「ありません」


「白札は、白いまま許されていたのですか」


「はい。無記名の札は、箱に戻すものです。名がないものは、動かさない。そう教わりました」


「ならば、あなたはその教えに従った」


若い男が、初めてリーゼを見た。


「ですが、凹みが」


「凹みを作ったとは、まだ記録されていません」


リーゼは言った。


「記録されているのは、あなたが凹みのある箱を扱ったことです」


その違いは、薄い。

薄すぎて、怒りを持つ者なら簡単に破れる。

けれど、薄いものでも、一度線にすれば、上から踏みにじるには足跡が残る。


カイルが書記に命じた。


「受領係を保護証言者として残せ。鍵は預かるが、罰としてではない。鍵の位置も証拠に入れる」


記録係が顔を上げる。


「保護ですか」


「尋問前の処罰を止める」


カイルは言った。


「王女の請求によってな」


部屋の空気が変わった。


リーゼの背中に、冷たいものが落ちる。


王女の請求。


それは人を守る形をしている。

同時に、彼女の首を締める形もしている。


彼女が請求すればするほど、記録の中の「王女」は働く。

働けば働くほど、偽物である彼女の罪は増える。

そして、誰かがその名を使っていた痕跡にも、彼女自身の声が重なる。


カイルはそれを知って言った。

リーゼも、それを知って受けた。


「記録してください」


彼女は言った。


「王女の請求ではなく、王女名義の保全請求として」


カイルの眉がわずかに動く。


「また自分を遠ざけるのか」


「いいえ」


リーゼは首を振った。


「近づけます。私が使った名と、誰かが使った名を同じ箱に入れないために」


その言葉は、誰にも優しくなかった。

けれど、若い受領係だけは、息をした。

声にはならなかったが、息をした。


それで十分だった。


少なくとも、いまは。


書記が新しい欄を作る。

取扱。

作成。

押印。

移動。

命令。

証言。

そして最後に、小さな欄を一つ足した。


位置。


カイルがそれを見て、何も言わなかった。

消せとも言わなかった。


若い受領係は、箱を扱った時刻と数えた枚数を答えた。

箱は前日の夕刻に彼へ渡され、夜半の前に戻された。

彼は白札を十二枚数えた。

名はなかった。

印もなかった。

凹みは見ていなかった。

底も見ていなかった。


「その前は」


カイルが問う。


「箱はどこにあった」


若い受領係は唇を噛んだ。


「刑台支度の仮棚です」


誰も、すぐには書かなかった。


刑台。


その言葉は、部屋の温度を下げる。

リーゼの足元に、処刑台の板の感触が戻った。

喉の奥に、あの日の乾いた風が刺さる。


彼女は、瞬きをしなかった。

ここで目を閉じれば、彼女は被害者になる。

被害者になれば、次の言葉が遅れる。


「刑台支度の仮棚には、何を置きますか」


「縄、布、読み上げ札、群衆整理の札、役人の立ち位置札です」


「白札は」


「本来は、置きません」


「本来は」


リーゼが繰り返す。


若い受領係の顔色が、さらに悪くなった。


「前日分だけ、ありました。読み上げ札の補いとして。名がまだ決まらぬ者用だと聞きました」


「名がまだ決まらぬ者」


記録係が低く言う。


リーゼは、彼を見なかった。

その言葉に反応すれば、彼女のことになる。

彼女のことにされる。


だから、箱を見た。

札を見た。

位置を見た。


「その前日分の記録はありますか」


「支度帳に」


「持ってきてください」


記録係がすぐに反発した。


「それは処刑準備の帳だ。この照合とは」


「関係があります」


リーゼは言った。


今度は、声を弱めなかった。


「白い札が、名のないまま、誰かを置くために使われていたなら」


言葉が喉で止まる。


それは、自分のことだ。

処刑台に置かれた、名のない影。

王女の名を着せられた、白い札。


けれど、いま必要なのは、泣くことではない。

怒ることでもない。

その構造を、他の人間へ移させないことだ。


「使われた札だけを見るのでは足りません。使われなかった札が、どこで許されたのかを見ます」


カイルが書記へ頷いた。


「支度帳を出せ。紙の本体は開くな。白札の欄だけだ」


しばらくして、薄い帳面が運ばれてきた。

表紙に古い墨で、刑台支度、とだけ書かれている。

誰もその文字を長く見なかった。


書記が白札の欄を探す。

指が止まる。


「前日、白札十二枚。無記名。使用なし」


「それだけか」


「いえ」


書記の声が、少し細くなった。


「欄外に、あります」


カイルが身を乗り出す。


「読め」


書記は、迷った。

迷ってから、読んだ。


「位置合わせ済み」


部屋の誰も、すぐには動かなかった。


リーゼは、机の上の白札を見た。

白いまま、何も語らない紙。

けれど、もう何もないとは言えない。


名が書かれる前に。

命令が読まれる前に。

人が動かされる前に。


誰かが、白い場所だけを先に作っていた。


カイルが低く言った。


「処刑日の前か」


書記が頷いた。


「前日です」


リーゼは、指先が冷たくなるのを感じた。


前日。

彼女が処刑台へ置かれる前。

王女の名で死ぬ前。

群衆の前で嘘を本物に変える前。


すでに、白い場所は用意されていた。


「記録してください」


彼女は言った。


声は震えなかった。

震えないように、息を小さく切った。


「これは、受領係の罪ではありません。少なくとも、まだ」


カイルが彼女を見た。


リーゼは、白札から目を離さずに続けた。


「これは、誰かが名を書く前に、人の置き場所だけを作れる仕組みの証拠です」


その瞬間、白札はただの白い札ではなくなった。


答えではない。

まだ、答えではない。


だが、問いは一段深くなった。


誰が命じたのか、ではない。

誰が書いたのか、でもない。


誰が、名のない者を置ける場所を、先に作っていたのか。


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