第五話 不穏
しばらく進んだ後。上空で安定した飛行に入ったアンタエウスは、改めて地図を広げた。風を受けながら器用に広げ、距離を確かめる。
「さてさて、ここからは最短ルートで行くとしよう…」
アフォディが横から身を乗り出して覗き込む。
「どれくらいかかりそう?」
アンタエウスは指で距離をなぞる。森を抜け、山脈を越え、荒野を横断し――その指が、途中でぴたりと止まった。まるで石になったかのように。
「……嘘だろ?」
もう一度、地図を見る。縮尺を確認する。ルートをなぞり直す。そして、信じられないものを見るような顔でつぶやいた。
「ちょっと待てくれ、いやいやいや……」
アフォディが首をかしげる。
「どうしたの?」
アンタエウスは、どこか引きつったような笑みを浮かべていた。
「忘れてたよ……」
ぽつりとそう言うと、アンタエウスはゆっくりと空を見上げた。その表情は、完全に希望を失った者の顔だった。
「アールヴヘイムからムスペルヘイムまで、約二千三百マイルあることをね」
風が弱まった。まるで風自身が、状況を理解したかのように。
「にせん……さんびゃく? えと、にせんしゃんびゃく? え?」
アフォディの顔がみるみる青ざめていく。彼女は地図とアンタエウスの顔を交互に見ながら、必死に頭の中で距離を整理する。
「ミズガルズからアールヴヘイムが千二百マイルだろ……?」
「それの……ほぼ倍……?」
アンタエウスは何も言わず、ゆっくりと地図を閉じた。ぱたん、と小さな音がして、紙が折り畳まれる。そして数秒後――
「…楽しませてくれるじゃないの!!」
なぜか突然、妙に明るい声を出した。アフォディは思わず目をぱちぱちさせる。
「なぜおねえ? もしかしてそういう趣味が??」
「ないからね!? 誤解しないで!!」
二人はしばらく空中で黙ったまま漂っていた。下には広大な森と荒野が広がり、前方にはまだ見えない炎の国がある。そんな静寂を破ったのは、アンタエウスだった。
「今から帰る?」
「だめ」
即答だった。迷いのない返事に、アンタエウスは思わず微笑し、頭をかく。
「だよな!多少動揺してしまったが、やるしかないよな」
アフォディは、そっと頷いた。
「今は二千三百マイルでも、進めばゼロになるよ」
アンタエウスは、意外さに目を丸くした。
「意外と前向きなんだな」
「アンタエウスに感化されたのかも」
その言葉を聞いたアンタエウスは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「よし!! だったら飛ばすぞ!」
ぐっと姿勢を前に倒す。
「危なかったら一人で飛ぶからグッジョブだよ! アンタエウス!」
「あ、アフォディは妖精族さんでしたね……」
そして――三日後。二千三百マイルの道のりのうち、すでに二千二百五十マイルを踏破していた。
幾度も森を越え、荒野を越え、山脈を抜け、二人はほとんど休みも取らずに飛び続けてきた。地形は次第に変わり、緑は減り、地面の色は赤茶けたものへと変わっていく。空気も少しずつ熱を帯び始めていた。遠くの地平線は、かすかに赤く揺らいでいる。炎の国ムスペルヘイムが、もうすぐそこにある証だった。
「もうちょっとだな! 待ってろ! ムスペルヘイム!!」
アンタエウスは額の汗をぬぐいながら、前方を指さす。だが、その時だった。下の方から、ふいに人の声が聞こえてきた。
「……がっかりしたわ」
その声は、怒りというより、どこか冷めたような響きを含んでいた。アンタエウスは少し高度を下げる。視線を落とすと、岩場の陰に数人の冒険者らしき男たちが焚き火を囲んでいるのが見えた。どうやら休憩中らしい。アンタエウスは空中から声をかける。
「何ががっかりなんだ?」
「九界の守護団だよってあんた、柔指かい?」
「一応……」
“九界の守護団”その言葉に、アンタエウスの耳がぴくりと動いた。アフォディも、はっとしたように顔を上げる。
「この前、王都アルディスガルドで謁見したんだろ?」
「ああ……」
焚き火の火を棒でつつきながら、一人の男が苦笑する。
「英雄? 理想の騎士? はは……」
ぱち、と火の粉が舞い上がった。男は少し首を振る。
「めちゃくちゃ冷めてたぞ」
「冷めてた?」
アンタエウスは思わず聞き返した。
九界の守護団――。それは多くの者にとって憧れの存在であり、世界を守る象徴でもあるはずだった。だが、焚き火を囲む冒険者たちの表情には、尊敬の色はほとんど見えない。むしろ、どこか諦めに近いものが浮かんでいた。
「ああ。俺たちの話なんて、ほとんど聞いちゃいねぇ」
焚き火の向こうで、冒険者の一人が肩をすくめる。
「功績の報告をしても、“ああ、そうか”で終わりだ。目すら合わなかったぜ」
火の粉が暗い空気の中に散り、またすぐに消えていく。しばらく、誰も言葉を発しなかった。やがて別の男が、ぽつりと口を開く。
「俺……あの人たちは、もっと熱い存在だと思ってた」
炎を見つめたまま、静かに続ける。
「世界を守るっていう誇りに満ちた目をしてるって」
少しだけ笑う。しかしそれは、期待を裏切られた者の苦笑だった。
「でも実際は……」
呼吸しているかのように、焚き火の炎が小さく揺れる。
「まるで、操り人形だったぜ」
その言葉を聞いた瞬間、アンタエウスの胸がざわついた。
(そんなはずないだろう、あの伝説たちが?)
世界を守る騎士。誰よりも強く、誰よりも誇り高い存在。
それが――操り人形? そんな言葉は、どうしても信じられなかった。
「……気のせいじゃないのか?」
アンタエウスは小さく呟いた。隣に浮かんでいたアフォディが、横目で彼を見る。
「どう思う?」
アンタエウスは少しだけ考えた。ほんの数秒だったが、彼にしては珍しく真面目に悩んでいるようだった。そして、首を振る。
「きっと、疲れてただけだろ! 強い人ほど、感情を表に出さないんだ!!」
それは、冒険者たちへの反論というより――どちらかと言えば、自分自身に言い聞かせているような声だった。冒険者の一人が、最後にぽつりと付け加える。
「目がな……光ってなかったんだよ。死んだ魚の目っつーかなんつーか」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。風が吹き、会話は次第に遠ざかっていく。アンタエウスは黙ったまま、再び高度を上げた。
「行こう。もうすぐムスペルヘイムだ」
――そして。数時間後。大地の色が、完全に変わった。赤い岩。黒く焼けた地面。溶岩の川がゆっくりと流れ、空気は歪むほどの熱を帯びている。遠くでは炎の柱が立ち上り、巨大な火山が空に煙を吐いていた。




