第34話 聖女の休息と、堕落のサンクチュアリ
ニート沼にひきずりこむ
「……ん……っ……。女神様……」
純白のシルクのシーツの上で、聖女は微かなうめき声を上げながら、ゆっくりとまぶたを開いた。
視界に入ってきたのは、大聖堂の無機質な石造りの天井ではなく、温かみのある最高級の木材で作られた天蓋だった。
部屋の中は、驚くほど温かい。
窓の外では、世界を凍らせるような猛吹雪が吹き荒れているはずなのに、その風の音すら、遠い幻のように優しく遮断されていた。
空気中には、薪が燃える微かな匂いと、甘く香ばしい、嗅いだことのない官能的な香りが漂っている。
「……ここ、は……? 私、は、大雪の中、広場で……」
聖女はぼんやりとした頭で、記憶を辿ろうとした。
『白き魔王(大寒波)』を防ぐための『神聖ロジスティクス』。その陣頭指揮を執り続け、魔力が底を尽き、意識がブラックアウトしたところまでは覚えている。
(……ああ。私、死んでしまったのですわ。そして、ここは女神様のおられる天界……)
聖女がそう結論づけ、安らかに再び目を閉じようとした、その時だった。
「目が覚めたか、ブラック企業の被害者さん」
「……えっ?」
頭上から降ってきた、あまりにも緊張感のない、しかし聞き覚えのある声。
聖女が慌てて声のした方を向くと、そこにはベッドの脇の椅子に座り、シルクのパジャマ姿でクッキーを齧っている、俺の姿があった。
「せ、先生……!? な、なぜ、天界に先生が……? もしや先生も、私を助けようとして……っ!」
聖女がガタッと身体を起こそうとするが、全身の力が抜け、シーツに沈み込んだ。
「落ち着け、死んでないから。ここは俺の私室だ。お前が広場で倒れたから、バルドがここまで担いできたんだよ」
俺は呆れ顔で、熱が出ている聖女の額に、冷たい水で濡らしたタオルを乗せた。
「先生の、私室……? うそ……。だって、部屋の中が、春のように温かいですわ。外はあんなに、酷い吹雪なのに……」
「俺の部屋は、壁の中に特別な保温魔法の術式を組み込んであるからな。外が氷河期になろうが、ここだけは常に二十五度に保たれる。……まあ、お前が倒れた原因は寒さじゃなくて、ただの働きすぎ(魔力枯渇)だけどな」
俺はため息を吐き、テーブルの上に置いてあった温かいココアを、聖女の口元に運んだ。
「……三日三晩、一睡もせずに魔法を使い続けるとか、正気の沙汰じゃない。お前、教会のトップだろ? もっと下の人間をこき使えばいいのに」
「そんな……っ。民が苦しんでいるのに、私だけが休むなんて、女神様への不敬ですわ! 先生の『完璧な計画』を成功させるためなら、私の命なんて……っ」
聖女が熱っぽい瞳で、義務感と使命感を口にする。
その瞳の奥には、以前国王のトラウマを治した時と同じ、重すぎる重圧と、完璧主義者ゆえの自己犠牲の精神が張り付いていた。
(……やれやれ。この世界の真面目な奴らは、どいつもこいつも、自分を追い詰めるのが好きだな)
俺はココアを聖女に飲ませると、真顔になって、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「聖女。最高位神聖アドバイザーとして、お前に最後の、そして最も重要な『教義』を授けよう」
「新しい……教義……?」
聖女が、居住まいを正そうとして、再びシーツに沈み込む。
「いいか。人間の魂と肉体は、魔力釜じゃない。無限にエネルギーを出し続けることはできないんだ。お前が倒れれば、お前を慕う国中の民が悲しみ、教会の指揮系統は崩壊し、結果的に『神聖ロジスティクス』は失敗する」
俺は指を一本立て、占い師らしい重々しいトーンで言い放った。
「つまり、『休むこと』もまた、国を救うための完璧な計画の一部なのだ。魂を最適な状態に保つための、神聖なる義務だ。……理解できたか?」
「休む、ことも……義務……?」
聖女が、目からウロコが落ちたような、衝撃を受けた顔をする。
彼女の人生において、「休む=怠惰=罪」という固定観念しかなかったのだ。現代社会の「休息の最適化」という概念は、彼女にとって女神の啓示にも等しい福音だった。
「理解できたなら、よし。これよりこの部屋は、聖女お前の魂を浄化し、休息を強制する『堕落のサンクチュアリ(絶対聖域)』とする。お前は女神の命令に従い、ここで徹底的にダラダラしなければならない」
「だ、ダラダラ……? 教会のトップである私が、そのような……っ」
「神聖アドバイザーの命令だ。異論は認めん」
俺は聖女の反論を封じ込めると、テーブルから、新作の『バターたっぷりキャラメルクッキー』の山を持ってきた。
「まずは、魂のエネルギー補給だ。教会の食事は質素すぎる。もっとこう、背徳的なカロリーを摂取しろ」
「背徳的な……カロリー……?」
聖女がおずおずとクッキーを受け取り、一口齧った。
「……っ!! な、なんですわ、この、とろけるような甘さと、濃厚なバターの香りは……! 身体の奥底から、力が湧いてくるようですわ……!」
聖女の目が、驚きと感動でキラキラと輝き始めた。
現代日本のジャンクフードの技術が詰まった、甘くて脂っこいお菓子の魔力。それは、魔力枯渇で飢えていた彼女の脳に、強烈な快楽を直接叩き込んだのだ。
「次は、心の洗濯だ。お前は真面目すぎるから、脳ミソのスイッチを切る必要がある」
俺はベッドの下の隠し棚から、アイリスに内緒で買い集めていた、この世界で流行っている娯楽小説(王道な騎士と姫のラブコメ)と、第七クラスの生徒が描いた適当な漫画(魔物図鑑を面白おかしく描いたもの)を取り出した。
「これを読め。女神のことや、国のことは一切考えるな。ただ、目の前の娯楽に心を委ねるんだ」
「えっ? お、お祈りではなく、このような、世俗的な読み物を……?」
聖女は戸惑いながらも、クッキーを齧りながら、小説のページをめくった。
最初の数ページは、罪悪感に苛まれていた。
だが、クッキーの甘さで脳がリラックスし、小説のベタな展開に引き込まれていくうちに、彼女の表情から徐々に緊張が消えていった。
「……あら。この騎士様、王女殿下に想いを伝えないまま、戦場へ行ってしまうのですか? まあ、もどかしいですわ……!」
聖女がクッキーを食べる手を止め、小説に見入る。
時折、漫画の方を見て「ふふっ、この魔物の描き方、バルド団長にそっくりですわ」とクスクスと笑い声を上げる。
部屋の中は、暖房魔法で完璧に暖かく、ソファはふかふかで、無限にお菓子とココアが出てきて、面白い読み物がある。
教会の冷たく厳しい椅子でお祈りをする日々に比べ、ここはまさに、魂がとろけるような『楽園』だった。
(……よし。完璧に『堕落のゲート』が開いたな)
俺は聖女が娯楽に夢中になっているのを確認し、自分もベッドに寝転がって、二度寝の準備に入った。
数時間後。
コンコン、と。
部屋の扉(ガストンが急いで修理した)が、控えめにノックされた。
「先生、エリアーナです。聖女様の様子はいかがでしょうか……?」
王女の声と共に、エリアーナとバルド団長が、心配そうな顔で部屋に入ってきた。
彼らは、倒れた聖女が大賢者(主人公)の絶対聖域で、どのような神聖なる儀式を受けているのかと、戦々恐々としていたのだ。
だが、二人が目にしたのは、神聖な儀式とは程遠い、あまりにも衝撃的な光景だった。
「……あら、この王女殿下、意外と大胆ですわね。騎士様の方からキスをするなんて……モグモグ、ふふっ、甘酸っぱいですわ……」
ソファの上で、分厚い毛布にくるまり、髪を少し乱した聖女が、クッキーをボリボリと貪りながら、小説に顔を埋めていた。
彼女の周囲には、空になったココアのカップと、クッキーの屑が散乱している。
かつての、凛として神聖だった、教会の象徴としての姿はそこにはなかった。
そこにいたのは、ただの『休日のダラダラしている女子』だった。
「……えっ?」
エリアーナ王女が、呆然と立ち尽くし、扇を床に落とした。
「せ、聖女様……? その、お姿は……?」
「ああ、エリアーナ殿下。先生の授けてくださった『あさーしょん』のさらに上を行く、究極の休息魔術『ちーとでい』の儀式ですわ」
聖女が小説から顔を上げ、口元にクッキーの屑をつけたまま、この世の真理に到達したような、とろけた笑顔で微笑んだ。
「お祈りも公務も、全てを忘れて、温かい部屋で甘いものを食べ、娯楽に耽る……。これこそが、魂を最も完璧な状態に浄化する、女神様の真の御心だったのですわ! 私、今まで人生を損していましたわ!」
「魂の、浄化……?」
エリアーナ王女とバルド団長は、顔を見合わせた。
彼らの脳内では、またしても都合のいい解釈が始まっていた。
『……すごい。先生は、聖女様の真面目すぎるがゆえの魂の穢れ(ストレス)を、あえて俗世の娯楽に浸らせることで、完全に中和し、浄化してしまわれたのだわ……!』
『教会の冷徹なドグマ(教義)を、ただの休息とクッキーで打ち破り、聖女様を真の意味で「人間」として解放する……! なんという慈悲深い、そして恐るべき心理魔術……!』
二人は再び、ベッドで爆睡している俺に向かって、畏敬の念を込めて深く頭を下げた。
「先生……! あなたは聖女様の魂すらも、その盤上遊戯で救ってしまうのですね……!」
「……すぅ……、すぅ……(お菓子食べて寝るの最高……)」
(※本人はただ、真面目な聖女を堕落させて、自分がサボりたかっただけである)
かくして。
この国の信仰の象徴であった聖女は、大賢者の部屋という最強のサンクチュアリで、現代の休息文化という名の、抗えない魅力に完全に屈服してしまったのである。
北の空では魔王(大寒波)の第二波が静かに迫りつつあったが、この部屋の中だけは、永久不滅のニート天国が完成しようとしていた。
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次回お楽しみに。




