白昼夢
遠くから音が聞こえる。鐘の音のように聞こえるその音はどこか切なくて、寂しい音だ。
その鐘を目覚ましの様に感じながら俺は眠りについた。
ーーー今見ているのは、「夢」だとわかっている。
それでも、この朝がずっと続けばいいって思ってしまう。窓を開けると、爽やかな風がカーテンを揺らした。空は澄み渡っている。窓の外には住宅街があり、少し遠くに丘が見え、その上には一本だけ大きな桜の木が立っている。
現実と何も変わらない景色。
だけどここは、現実ではない。
二階から勢いよく駆け下りてくる足音が聞こえた。
「お・兄・ちゃーん!」
音に合わせながら階段を三段ほど飛ばして降りてきた少女は、そのまま悠真へ飛びついた。
「えへへ、おはよう!」
紺色の長い髪がふわりと揺れる。まだ十二歳らしい幼さを残した笑顔。
天城澪。俺の妹にして、一言で言えば天使だ。
「朝から飛びつくなって」
「だって今日は晴れだよ?いい天気なんだよ?」
「晴れてると飛びつく理由になるのか?」
「なる!お兄ちゃんもどうぞ!」
胸を張って手を広げるその姿に、俺は思わず笑ってしまう。
「…はいはい。」
飛びつく代わりに頭を軽く撫でた。澪は気持ちよさそうに目を細めている。
「今日はどこ行く?何する?」
「昨日、本屋に行くって言ってただろ。」
「そうだった!」ぱっと顔が輝く。本当に可愛い。
「じいさんが首を長くして待ってるぞ。」
「神話の続き探す!」
「あれまだ読んでるのか。」
「だって星座のお話大好きなんだもん。素敵なお話ばっかりだし。」
「怖い話も多いけどな。」
「それはそれでいいの!」
「昨日も夜遅くまで読んでただろ。」
「夢なんだから寝なくても平気だし!」
「それを言われると言い返せないな。」
二人で顔を見合わせて笑う。
そんな何気ない時間が、俺は好きだった。
昔も。
そして今も。
たわいもない話をしながら朝食を済ませる。準備は不要で片付けもいらない。夢の中の食事といっても味はある。香りもある。満腹にもなる。それなのに、不思議と何を食べたかは現実では思い出せない。でも、それでいい。
ここではそういうものだから。
「早く行こ!」
澪が玄関の扉を開ける。
外へ出ると、近所のおばあさんが庭へ水を撒いていた。
「あら、澪ちゃん。」
「おはようございます!」
「今日は元気ねぇ。」
「毎日元気なんです!」
そんな話をしている。いつも通りのやり取り。
澪は誰とでもすぐ仲良くなる。道を歩けば犬の散歩中の男性に話しかけ、楽しそうに話しているし、小さな子どもとしゃがみ込んで花を眺め、花が何を話しているかを真剣に相談する。初めて会った人とも、まるで昔から知っていたかのように笑い合える。
その姿を、悠真は少し後ろから見守る。
「お兄ちゃーん!」
振り返った澪が手を振る。
「早くー!」
「はいはい。」
この時間が終わらなければいいって何度そう思ったかわからない。
胸のどこかで小さな棘が刺さる。
――これは本物じゃない。
その思いは、いつだって消えてくれなかった。
本屋へ着く。見慣れた古びた木造の店。
店主はいつものように新聞を読んでいる。
「こんにちは!」
「おう。」
いつもと同じ。昨日と同じ。その前の日とも同じ。
澪は迷わず神話の棚へ向かっていく。
「ギリシャ神話もいいけど、日本神話も面白いよ?」
「じゃあ両方!」
「読む時間あるのか?」
「夢なんだからいっぱいある!」
「便利な言葉だな。」
俺は苦笑する。その横顔を見つめながら、澪はふっと優しく笑った。
「……お兄ちゃん。」
「ん?」
「今日は星も見ようね。」
「ああ。」
「約束。」
「約束。」
二人は小指を絡めた。その瞬間。胸が少しだけ締め付けられる。
約束。やぶってはいけない物。忘れてはいけない物。
だけど現実へ戻れば、そのほとんどを覚えていない。覚えているのは。『何か大切な約束をした』という感覚だけ。
だから俺は、約束を嫌いになりかけていた。それでも澪は、毎日のように約束をする。
まるで。
忘れられても構わないと言うように。
「……どうしたの?」
「いや。なんでもない。」
澪は少しだけ寂しそうな顔をした。ほんの一瞬だけ。
その表情はすぐ笑顔に戻る。
「今日は流れ星見えるかな!」
「ああ。」
「いっぱいお願い事しよう!」
「一個じゃなくて?」
「いっぱいの方がお得じゃない?」
「神様も忙しいだろ。」
「じゃあお兄ちゃんも手伝って!」
「俺は叶える側なのか?」
「もちろん!お兄ちゃんは神様です。」
二人の笑い声が店内へ響く。
仲の良いどこにでもいる兄妹。そのはずだった。
もし。
この世界が夢でなければ。
もし。
あの日、事故が起きていなければ。
この笑顔は、現実にもあったのだろうか。
その問いに答える者は、誰もいない。
だから俺は今日も目を逸らす。
目の前にいる澪だけを見つめて。
――それが、今の自分にできる唯一のことだから。
初投稿です。どれだけ書けるかわかりませんが思いつく限りは頑張ります。




