悪女に人生を掌握されました
「報告が遅い……なぜ、サイル峡谷からまだ連絡がない」
ヴァルター・グリムは、机上の報告書を指先で叩いた。
叩く音が、そのまま彼の不安を打ち鳴らすようだった。
第三特務部隊――彼が密かに手配した“処理部隊”――からの通信が、予定より五時間遅れていた。
「……あの二人に、逃げ道はない。包囲陣も崩れるはずがない。遅れる理由など……ない」
しかし、報告はついに届いた。
それは、敵部隊の壊滅。特務部隊の損耗。リエラとレオンの“生存”。
「馬鹿な……?」
紙の上の文字を何度もなぞる。錯覚ではない。
レオン・アークライトは、防衛術式で奇襲を封じ、リエラ・グランヴェールは逆に“戦果”を上げていた。
しかも、彼らの行動記録は、軍上層の“中立派”へ同時に提出されている。
「そんな……私の通信網は、全てを掌握していたはずだ。リエラの動きは、私が読んでいた。読んでいた、はずだ」
額ににじむ汗を、彼は無意識に拭った。
――いや、これは偶然だ。まだ崩れたわけではない。
リエラの情報網が一時的に機能しただけ。証拠は、まだ出ていない。
しかし次の瞬間、扉がノックされる。
「師団長、情報局より――第七観測班より提出された“戦死偽装の記録文書”について、確認の要請が来ております」
「……何?」
「先ほどの命令書に、師団長直筆とされる文体との照合要請が……」
ドン、と机が揺れた。ヴァルターは思わず叩きつけた自分の手を見つめる。
「証拠を、残しやがったのか……? あの女が!」
彼の中で、リエラ・グランヴェールという存在が、ただの“手駒”から“刺客”へと形を変えていく。
五年前。
王都・第三区の裏路地にある、古びた塔の一室。
そこが《第七観測班》の仮本部だった。
「……君が、例の“黒の災厄”か」
部屋に入るなり、副主任はそう言った。
白衣の下に軍の紋章。肩章は銀一線。
彼の名は【ゼル=トナーグ】。数字しか信じない男。
「そう呼ばれるのは慣れてるわ。ご用件は?」
「いや、こっちの台詞だ。君から“軍法違反スレスレの魔術監視記録”が届いている。……師団長殿の魔力転送記録、消す気か?」
「ええ。その記録、無かったことにしてもらいたいの」
ゼルは鼻で笑った。
「見返りは?」
リエラは、机に一冊のファイルを置いた。
「《北東軍備会計の不正支出》、それと“副主任”の個人的経歴の抜粋。あなたがかつて貴族子息の個人講師をしていた記録も含まれているわ。――彼、今どこにいるか知ってる?」
沈黙。
ゼルの目が、初めて揺れた。
「……脅迫か?」
「選択肢の提示よ。“互いに目をつぶれば、将来がある”という」
彼女は静かに微笑んだ。
「私は、あなたに“貸しを作らせておきたい”の。今すぐではなく――いつか、何かが始まる時のために」
駐屯地の夜は、静寂と獣の唸り声が支配していた。
冷たい風が吹き抜け、レオンとリエラは焚き火のそばで身を寄せ合う。
荒涼とした地表に目を向けながら、リエラは懐から小さな封筒を取り出した。
「……ね、言ったでしょう。捨てられるような悪女じゃないって」
その中には、ゼルが書いた“戦死偽装命令の控え”と照合証明書が入っている。
「これを提出すれば、ヴァルター・グリムは“部下の命令偽装”の疑いで査問にかけられる。あとは、状況を整えるだけ」
レオンは隣で、静かにうなずいた。
「……あの人、俺たちのことをどこまで見くびってたんだろうな」
リエラは小さく笑う。
「いいえ、むしろ逆。“勝てると思いたい自分”を、見抜けなかっただけよ。人は、“信じたい結論”しか選べない生き物。――だから、私はそこに罠を張るの」
軍議当日。
作戦会議室――帝都本部・第六棟の最上階。
日の当たらない窓、壁に貼られた古地図、鉄製の長机。
そこは軍務司令部の“査問予備室”。
そしてその中央に、ひとつの木箱が置かれていた。
「これが……“決定的証拠”?」
レオンが箱の中を覗き込み、眉をひそめる。
その中に収められていたのは、一通の命令書と、もう一通の照合書。
それらは“ヴァルター直筆の命令”とされる戦死誘導命令の証拠だった。
「この文体、癖のある傾斜筆。裏面にだけ魔導署名。……細工にしては、雑すぎるな」
リエラは椅子に腰掛け、脚を組む。
「“彼の慢心”よ。最後まで、私たちを“勝手に動く小駒”だと信じてたのね。――でも、実際に盤を動かしてたのは、こっちだった」
彼女は指先で、懐から小さな銀製の徽章を取り出した。
「《上級軍務査問官・臨時陪席章》よ。第三観測班の推薦で、私に発言権が与えられた」
レオンが目を見開く。
「……つまり、今日の軍議。お前も“陪席者”ってわけか」
「ええ。そして、あなたが“証人”」
レオンはしばし黙り――やがて、小さく息を吐いた。
「なあ、リエラ。俺、ずっと思ってた。お前の言う通り、“使われる側”でいいって。けど、今は違う」
「……?」
「今なら分かる。これ以上理不尽に捨てられる仲間を増やすわけにはいかない。俺が動かなきゃ、誰も救えなかったって瞬間が、もう来てるんだって」
レオンは証拠書類を手に取り、立ち上がる。
「お前の舞台で、俺はもう観客じゃない。一緒に戦う。主役が複数いたって、物語は成り立つだろ?」
リエラは一瞬だけ目を細め、そして笑った。
「……気づいたのね。私がなぜ、あなたに全部教えてきたのか。なぜ共犯にしたのか」
「“相棒を選んだ”ってことでいいか?」
「ま、そこまで情緒的な話じゃないけれど――悪女って、意外と寂しがり屋なのよ」
二人は、証拠と共に扉を開けた。
その先には、軍上層が揃う会議室。
ヴァルター・グリムが待つ、最後の舞台があった。
帝都中央軍本部・第二議場。
重厚な石造の円形会議室。
軍務評議会、諜報局、監査院、そして魔術師団代表――十余名の視線が、一人の老将に注がれていた。
「ヴァルター・グリム師団長、戦死命令書の改竄、部下の強制転任、非公式作戦命令による部隊損耗――これらに関して、ご説明願えますか」
査問官の声は静かだったが、空気には張り詰めた緊張が漂っていた。
ヴァルターは椅子に深く腰掛け、鼻で笑う。
「――下らんな。若造どもが“現場の調整”を政争に利用しているに過ぎん。証拠とやらが、ただの紙切れでなければな」
そこで、リエラが立ち上がった。
長机に、整然と積まれた封書。魔力署名、日付、印影――全て揃っていた。
「こちらが、《第七観測班》に提出された魔導文書の写し。師団長の署名と、魔力反応一致報告書が添付されております」
「捏造だ! 第七観測班など、貴様と癒着していると――」
「副主任ゼル・トナーグからの上申書も添付済みです。彼は過去に師団長の命令で情報封鎖を命じられたと記しています。――彼が偽証すれば、自身の過去も暴かれるのに、です」
議場に沈黙が落ちた。
次に立ち上がったのは、レオンだった。
姿勢はまっすぐ。声も淀みがない。
「……俺は、師団長から“囮任務”を命じられ、仲間の命を“戦死扱い”にされることを、現場で知りました」
彼は証言書を手に取り、机上に置く。
「魔術師団にとって、将は絶対です。でも、それは“守る者”としての話だ。“駒を切り捨てて勝利を語る”将に、ついていける理由はありません」
ヴァルターが目を細め、睨みつける。
「……参謀に吹き込まれた戯言か。小僧が、“勝ち戦”を語るには十年早い」
「俺はその十年分、急いで成長してきましたよ」
レオンは、リエラを一瞥し、口元をわずかに上げる。
「教わったんです。“勝ち戦”ってのは、もう最初から布石が打ち終わってる戦だって」
リエラが最後に、静かに一言だけ付け足す。
「師団長、あなたが見ていたのは“戦場”ではなく“自己満足”でした。私たちは、あなたの掌の上ではなく――既にその外にいます」
帝都の夕暮れは、いつもより少しだけ静かだった。
軍本部の大理石の廊下を抜けて、レオンとリエラは並んで歩く。
「辞退したのか? 魔術師団長の座を」
レオンがぽつりと尋ねる。
リエラは微かに笑んだ。
「ええ。あの役目は、“参謀”である私には重すぎる。指揮官はあなたのほうがふさわしいわ」
「でもお前は――」
「私には私の戦い方がある。あなたにはあなたの道がある。共に戦い、共に勝ち、共に歩むパートナーとして」
二人の影が長く伸びる。
その背中には、互いを信頼し、認め合う確かな絆があった。
「それに……悪女って、案外孤独だから」
リエラがふと笑う。
「でも、あなたがいれば、悪女も悪くないかもしれないわね」
レオンは小さく笑い返し、前を見据えた。
「じゃあ、これからは“共犯者”だな」
リエラは軽くうなずき、手を差し出す。
レオンは迷わずその手を取り、固く握った。そして、握ったままで問いかけた。
「俺は、できるなら……戦い以外の場でも、リエラのパートナーでありたい。そう言ったら、迷惑か?」
リエラは一瞬、言葉を失った。そしてこれ以上はない、というくらいに眼を見開くと、悪戯っぽく笑った。
「戦術盤で、私に勝てたら、考えるわ」
「マジか……じゃあ勝つまで挑むしかないか」
「ふふ、それも悪くないわね……この後、隊舎に戻ったら、どう?盤を挟んで一戦やらない?」
「いいね、望むところだ」
夕日に染まる空の下。
手を繋いだままの二人の影が伸びる。
二人の歩みは、これからも続く。