始紫伝18
「どうかしましたか、命さん?」
新しい制服を手に戻ってきた星理亜が、廊下に立つ命に声をかける。その表情には心配の色がにじんでいた。
開発局に戻ってから、どうにも命の様子がおかしい。いつもなら元気いっぱいで、むしろ星理亜が振り回されることが多いのに、今日はやけに静かだ。
「な、なんでもないですよ!」
命はあわてて笑顔を作り、素っ気なく答えた。しかし、その顔にはどこかぎこちなさが残っている。
「そう?なんか元気がないっていうか、どことなく変っていうか。」
星理亜はじっと命を見つめ、首をかしげる。
「ほらほら、私、元気ですよ!」
命は突然その場で跳ねたり、星理亜の周りをぐるぐる回り始めた。声も少し大きめで、無理に明るく振る舞っているのが見え見えだった。
「んー、あなたがそう言うならそうなのかな。でも、ちょっと怪しい気が……。」
星理亜は納得しきれない様子でため息をつく。
「大丈夫ですよ!」
命は星理亜の前に立ち止まり、無理やり元気なポーズを決めた。その姿に、星理亜はますます疑いを深める。
「このあと、あの人のところに行くのですよね?」
命が話題を変えるように質問を投げかけた。
「あー、そうだったー!思いっきり忘れてた!」
星理亜が驚きの声を上げ、額をぽんと叩いた。
「忘れてたって……星理亜さんにとって友達じゃないんですか?」
命は半ば呆れたように問いかける。
「んー、友達っていえば友達だけど……性格がアレだから、あんまり——」
その言葉を遮るように、廊下の奥から甲高い声が響いた。
「はーーーーーーーーーーーーっけん!!!」
「はぐぁっ!」
星理亜は横から飛びついてきた何かに押し倒されそうになる。
「お、お友達……ですよね?」
命が困惑しながら星理亜を見つめる。
「これ、そう見える?」
星理亜はぎこちなく答えながら、自分に抱きついている人物を見下ろした。
そこにいたのはリィナだった。
「えー、なーにー?」
リィナは無邪気な笑顔を浮かべ、さらに星理亜に体を押しつける。
「ほらほら、セッちゃんと私は大の仲良しだからねー。」
そう言いながら、リィナの手が不自然な動きをする。
「ちょ、ちょっと待って!どこ触って——」
星理亜が声を上げたとき、リィナの手は星理亜の胸をがっちりと掴んでいた。
「わー、セッちゃんの柔らかさは変わらなねーー!」
リィナは無邪気な笑みを浮かべたまま感触を堪能している。
「この変態!!!」
星理亜は勢いよく身体を反転させ、抱きついているリィナをそのまま投げ飛ばした。
「わーお!」
リィナは空中で軽やかに回転し、見事に足から着地する。そして、先ほどまで星理亜の胸を鷲掴みしていた自分の手をじっと見つめると、何度か握ったり開いたりし始めた。
「セッちゃん……」
突然、リィナの表情が真剣なものに変わる。
「な、なに?」
星理亜は胸を庇いながら警戒するようにリィナを睨みつけた。
「大きくなった!」
「えっ……?」
「おっきくなった!!」
「はああああああっ?!」
「おおきくなったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
リィナは両手を挙げながら、まるで何かの祝賀会が始まったかのように大声で叫んだ。
「ズルい!ズルい!ズルい!」
リィナはその場でバタバタと足を踏み鳴らし、抗議するように拳を振り上げる。
「3凸はズルいよ!私なんて、まだ1凸だよ!」
リィナは星理亜を指差しながら、どこか悔しそうな顔で叫ぶ。そしてそのまま両手を広げて、自分の胸元をポンポンと叩いた。
「どうやって、凸育させたの!?セッちゃん、ズルい方法でも使ったんでしょ!?」
「はぁぁぁ!?ズルい方法って何!?そんなのあるなら私が教えてほしいくらいだよ!!」
星理亜は顔を真っ赤にしながら抗議するが、リィナは全く聞く耳を持たない。
「絶対に何か秘密があるよ!隠してたんだよね?牛乳?マッサージ?それとも……特殊な修行!?」
リィナは星理亜の胸を凝視しながら、一歩ずつじりじりと迫ってくる。
「修行なんてするわけないでしょ!普通に生きてただけだよ!やめて近寄らないで!!」
星理亜は慌てて後ずさりしながら胸をガードするが、リィナの勢いは止まらない。
「えええええっ!自然に3凸!?そんなのズルいよ!私なんて、まだ1凸なのに……」
リィナはその場でしゃがみ込み、肩を落として深いため息をつく。
「だから、その『凸』とかやめて!!わけわからない用語で、勝手に私の身体でランク付けしないで!」
星理亜は頭を抱えながら声を荒げたが、リィナの表情は完全に諦めモード。
「セッちゃん、教えてよ……私も3凸になりたい……」
リィナの目がキラキラと輝きながら星理亜を見上げる。
「もう知らない!勝手にやってて!」
星理亜はそう叫ぶと、リィナから全力で背を向けてその場を立ち去ろうとする。しかし、リィナはすぐに立ち上がり、再び追いかけ始めた。
「ねぇ、セッちゃん!どうやったら凸れるか、最後にヒントだけでもぉぉぉぉ!!」
「だから知らないってばぁぁぁぁ!!!」
星理亜の声が遠くまで響き渡り、二人の騒がしい追いかけっこはまだまだ続きそうだった。
「んー。なかよし?」
命は空中でふわりと浮きながら、首を傾げて二人の様子を眺める。その表情には純粋な疑問が浮かんでいた。
「……なかよし、なのかな?」
命はぽつりと自分に言い聞かせるように呟きながら、二人の掛け合いを観察し続ける。
※
「うー……イダイ…」
頭を抑えながら歩くリィナの後ろ姿には、どこか哀愁が漂っていた。
「自業自得」
冷ややかな声で言い放つ星理亜は、そんなリィナの様子を一瞥し、肩をすくめる。
「ちょーっと、おふざけをしたからってアレはないよー。もうちょっと優しくしてくれてもいいじゃん!」
リィナが不満そうに振り返ると、星理亜はあっさりと言い返した。
「アレだけで済ませたんだから、むしろ優しいと思いなさい」
その言葉にリィナは口を尖らせながらも、しぶしぶ前を向く。
「……うー……でも、イダイ……」
さすがに痛みが引かないのか、リィナが再び頭を擦り始めた瞬間、星理亜はキューブを操作し、両剣を具現化した。銀色に輝く剣の柄を軽く握ると、星理亜は無表情のままリィナの後頭部に一撃を加える。
「いたっ!?またやられたー!」
リィナが悲鳴を上げて飛び跳ねる。
「で、用事は済ませたけど、これからどうするの?」
星理亜は両剣をキューブに戻しながら、冷静に問いかけた。
「そんなの決まってるじゃん!」
リィナは痛みを忘れたかのように勢いよく振り返り、にっこりと笑うと指を星理亜と命に向けた。
「ちょっと、心魂具(その子)の写真を撮らせて!」
「しゃ……しゃしん?」
星理亜と命が顔を見合わせ、困惑の色を浮かべる。
「そ。写真!」
「なんで?」星理亜が怪訝そうに尋ねると、リィナは得意げに胸を張りながら答えた。
「んもー、決まってるじゃん!これがうちらの中で最上級の噂にして、超絶極秘扱い案件の心魂具の中にこんな可愛い精霊がいたっていう証拠になるんだよ。今後の開発素材とか情報として残しておきたいのが、武器開発局局員のタガってもんでしょ!」
リィナの早口に呆れつつも、星理亜は視線を命に向ける。
「んー、まあ、別に私はいいけど……命さん的にはどうなの?」
命はふわりと微笑みながら、控えめに頷いた。
「そうですね。私も気になりませんが――」
その言葉を最後まで聞く間もなく、リィナはスマホを取り出して勢いよく構えた。
「シャッタァァァァァァァァッ!チャンス!!」
しかし、その瞬間、命の姿がふわりと消え去った。
リィナはカメラの画面を指でスクロールしながら、再度確認するように息をついた。
「ほら、何回やっても命さんは映らないでしょ?」
星理亜はカメラ画面を凝視し、その後すぐに命を見た。命は静かに浮かびながら、不思議そうに首をかしげている。彼女の姿は明らかにそこにあるのに、カメラには何も映らない。その奇妙な状況が、星理亜の心に不安と好奇心を同時に呼び起こしていた。
「本当に、どうして映らないの?」
星理亜はカメラを握り直しながら再び問いかける。その声には焦りが混じっていた。
「そうだよねー、不思議だよねー。」
リィナはニヤリと笑いながら、命をちらりと見た。
「でも、私にはわかったよ。これってそういうことだよね?」
命は一瞬困ったように視線を逸らし、短く頷く。その仕草はどこか申し訳なさそうだった。
「ちょっと、なにそれ?どういうことなの?」
星理亜はリィナと命を交互に見つめ、説明を求める。
リィナはしばらく星理亜の表情を眺めていたが、やがて軽く肩をすくめた。
「セッちゃん、部長さんから何も聞いてないってことだよね?」
「えっ?レイブン?」
星理亜の眉がさらに深く寄る。
「そんな話、一度も聞いてないけど?」
「だー、あの人、やっぱり肝心なことをちゃんと伝えてないんだねー」
リィナは呆れたようにため息をつき、命に視線を送る。
「ね、命さん?」
命は静かにうなずき、少しだけ口元を引き締め、静かに言った。
「私も、実は先ほど知ったばかりです。ですから、きっと意図的に隠していたのか、それとも単に伝え忘れていたのかは分からないですね」
「え、先ほどってどういうこと?」
リィナが驚いたように問いかける。
命は少し戸惑った表情を浮かべながら言葉を選ぶように話し始めた。
「星理亜さんが制服を受け取りに行っている間、部長と短い会話ですので、詳しい説明はありませんでした」
「なんだそれ!」
リィナは少し苛立った様子で、手を腰に当てる。
「もう、あの人、重要とどーでもいいことの違いが全くわかってない!!」
そのやりとりを聞きながら、星理亜は混乱を深めていた。
「ねえ、結局どういうことなの?置いていかないでよ!」
リィナはふっと考え込みながら言った。
「んー、でも、これって教えていいのかな?なんか、ちょっと不安なんだけど」
「それは私も分かりません」
命は首をかしげて答える。
「ただ、私たちの間で共有することには問題がないと思いますが……」
「……それでいいの?」
リィナは命の表情を見つめる。
命はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
リィナは少し安心したように笑顔を見せ、続けて言った。
「そうか、ならいいんだけどね」
星理亜は、まだ混乱しながらも、目の前で繰り広げられる会話の意味を理解しようと努めていた。ふと、命が映らない理由がますます気になってきた。そこで、少し遠慮がちに問いかけた。
リィナは少し真剣な顔つきになり、星理亜に視線を向けた。その表情は、ただの軽い話では終わらないことを予感させる。
「セッちゃん、心魂具について、なんも教わってないでしょ?」