第20章:残るもの
朝、目が覚めたときは、特に違和感はなかった。
窓から差し込む光は柔らかく、鳥の声も聞こえた。
私は制服のボタンを留め、髪を整え、いつも通りの手順で身支度を済ませた。
けれど、扉を開けて廊下に出た瞬間、空気のざわめきが肌に触れた。
廊下には既に何人か生徒が出ていて、あちこちで小声の会話が交わされていた。
階下からは、ホテルの従業員が急ぎ足で行き来する音が聞こえる。
階段を下りかけたところで、立ち話をするルカとエリスが目に入る。
二人は、私に気づくとすぐにこちらを見た。
「聞いた?近くで火事があったらしいよ」
「いや、爆発だったって。煙が上がってたって人もいたし」
言葉には心配や不安より、好奇心がにじんでいた。
昨夜、ハルトとロブがこっそり戻ってきたことは知っている。
何食わぬ顔で廊下に立っていたが、服は土埃で汚れ、ロブは血の気が引いたような顔をしていた。どう考えても怪しかったが、問い詰めたところで、まともに答えるとは思えなかった。
朝食の最中、ホテルの支配人が食堂に現れた。
彼は一礼し、落ち着いた口調で告げる。
「皆様、誠に恐れ入ります。
本日未明、旧市街にて原因不明の事故が確認されました。
詳細につきましては、現時点では明らかになっておりませんが、皆様の安全を最優先とするべく、研修旅行は本日をもって終了とのご判断が、エーデル伯より下されております。
只今、大急ぎで出航の手配を行っておりますので、準備が整うまでの間、どうかご安心のうえ、館内にてお待ちくださいますよう、お願い申し上げます」
食堂が一瞬静まり、次いで不満の声があちこちから上がった。
「えー、今日の見学はどうなるの?」
「まだ半分も終わってないのに!」
私は窓の外を見た。
空は昨日と同じように晴れていた。
タラップが下ろされると、生徒たちが荷物を抱えて列を作り、談笑しながら順に乗り込んでいく。
誰もが普段通りの調子で動いていて、まるで昨日の夜のことなどなかったかのようだった。
俺には、その静けさが逆に不気味だった。
例外もいたが。
「なんでこんなに急ぐ必要があるのよ? せっかく目星がつきそうだったのに。
ろくに説明もないし、わけがわからないわ」
苛立ちを隠す気はないらしく、リアナの声ははっきりと響いていた。
アルウェルが隣で歩調を合わせながら、静かに言葉を返す。
「仕方ないよ。伯爵の判断だ。無理を通しても、得るものはないよ」
言い方は穏やかだったが、言葉には芯があった。 リアナは不満げに眉をひそめながらも、それ以上は何も言わなかった。 ただ、荷物を持つ手に力が入りすぎていて、革の持ち手がきしむ音が聞こえた。
「……おそらく、あの二人がそれぞれ隠蔽と対スキルの二重結界を張っていたんだろう」
ハルトの声は低く、確信めいていた。
「朝まで魔力残滓が機能していた。だから誰も気づかなかったし、恐らく目撃者もいない」
「ま、あたしは見逃さなかったんだけどね」
横から割って入ったモカが、得意げにハルトを見やる。
「ほんとに戻らないの? 誰かさんヒスって大変なんだけど」
カイが睨みつけると、モカは肩をすくめて、口笛を吹くふりをした。
ハルトは軽く笑って、誓の環の面々に顔を向ける。
そこには、懐かしさと距離の両方が混ざっていた。
「……しばらくはこっちにいるかな。やりかけの仕事もあるし」
ガルドが手を差し出す。
ハルトは一瞬の間の後、その手を握り返した。
「気をつけてな」
初めて聞くガルドの声には、言葉以上の重みがあった。
リーネが「ほら」と、少し離れた場所で背中を向けているカイを肘でつついた。
けれど、カイは動かない。
「ごめんね」
リーネは小さく笑って、ハルトに目を向ける。
笑みは、どこか寂しげな色を含んでいるように見えた。
出港の鐘が鳴り、港がゆっくりと遠ざかっていく。
風が強くなり、船体がきしむ音が耳に残る。
甲板に出ると、ハルトは港を見下ろすようにして、何も言わずに手すりに寄りかかっていた。
俺はしばらく黙っていたが、どうしても気になって口を開いた。
「なあ。あいつらとは、どういう関係なんだ?」
ハルトは少しだけ顔を向けた。
その目は、昨日よりも深く沈んでいた。
「まあ……ちょっと事情があって」
事情。
俺は心の中で繰り返し、港の方を見た。
カイたちの姿はもう見えなかった。
それでも、あの場に残された空気だけが、まだ背中に張りついていた。
船はゆっくりと進んでいく。
航跡は昼の光にきらめきながら流れていった。
とりあえず、最初のプロット部分が終わりました。




