第15章:午前
警備隊本部は、魔族の侵入に備えた最前線の拠点――のはずだ。
だが、実態は想像以上に貧相だった。
石壁はくすんでいて、棚の書類は黄ばみ、角が丸くなっている。
案内担当の話も、いかにも“研修用”の決まり文句ばかりが並んでいた。
「森の巡回は一日三回。魔力反応があった場合は、報告と封鎖措置を……」
ロブは壁際に立ちながら、話の内容を半分だけ聞いていた。
奥にはアルウェル王子とリアナ、護衛は僧侶と剣闘士の一人ずつ。
王子は真面目に聞いている様だったが、リアナは視線をあちこちに巡らせている。
四人から少し離れたこちら側で、不満げなつぶやきが聞こえた。
「こんな古臭いの見ても、時間の無駄じゃない? 狭いし蒸すし、さっさと出たいんだけど」
「じゃあ出てろよ。化粧臭くて、むせるから」
モカの杖先がカイの脇腹――防具のない柔らかい部分――を容赦なく突いた。
カイは一瞬だけ肩を跳ねさせると、無言のまま手を伸ばし、モカの耳をつまんで引っ張る。
モカは目を見開き、すぐに足をずらしてカイのつま先を踏む。
カイは眉ひとつ動かさず、もう一方の指先でモカの頬をつねる。
両者が声ひとつ漏らさず、にらみ合う中、近くの隊員が助けを求めるようにこちらを見ているが、残念ながら視線を合わせるつもりはない。
確かに、この詰所にあるものは、数百年前から何も変わっていないように見える。
まるで戦争なんてなかったかのように。
いや、実際のところ――
大半の人間にとっては、神話やおとぎ話と大差ないのだろう。
自分だってそうだ。
あの森の向こうに“怪物の国”があるなんて、まるで実感がわかない。
リアナはリアナで、妙なことを聞いていた。
「ここ数年のローテーションの記録は残ってる? 夜間の巡回で、何か気になることは?」
担当者が戸惑いながら答えると、彼女は頷きながら別の資料に目を移していた。
まあ、面倒がないに越したことはない。
肩のスケイルマントを脱ぎ、腕にかけ直す。
仕立ては丁寧で、通気性もいい。売れば、かなりの値になるだろう。
警護にあたり、用意された装備一式は、ハルトの私物だそうだ。
下流冒険者が王族と並んで恥をさらさないように――とギルドが頼んだかどうかは知らないが、こんなものを気前よく人に貸し出せるような身分には、はやくなりたいと思う。
リアナの背中をちらりと見た。
ギルドが何を探しているのかは知らないし、大して興味もない。
俺は、割りよく仕事をこなすだけだ。
昼時の黒檀亭は、表の喧騒とは違う静けさに包まれていた。
私はノックとともに個室の扉を開け、銀盆を持って部屋に入る。
一皿目は、鹿のタルタルを薄焼きのパイ生地に乗せ、山葡萄のソースを添えたもの。赤身の層と果実のソースが均整を保ち、皿の上に計算された調和と静かな緊張感を生んでいる。
盆を置くと、中央の男が目を見開いた。
襟元に手を添え、思わず身を乗り出す。
「……これ、鹿ですか? すごいな」
声は明るく、驚きと好奇心が混ざっていた。
私は軽く頭を下げ、次の皿を運ぶ。
二皿目は、甲殻類のコンソメをジュレに閉じ込め、金粉をあしらった冷製前菜。
皿の縁には柑橘の皮が薄く削られている。
盆を置いた瞬間、長い髪を緩やかに下ろした女がスプーンを手に取った。
髪の流れは滑らかで、動きに合わせて自然に揺れる。
口元に運び、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……うん。おいしい」
それだけ言って、もう一口。
三皿目は、炭焼きの仔羊に花椒と蜂蜜のグレーズをかけたもの。
添えられた根菜のピュレには、微細な燻香が仕込まれている。
最後の一人、灰茶の髪を低く束ねた女はスプーンを手に取り、一口、また一口と食べ進めるが、表情は変わらず、反応も薄い。
それに気づいたのか、長い髪を下ろした女が首を傾けた。
「どうしたの? さっきから大人しいけど」
灰茶の女が顔を上げると、斜めに流した前髪の隙間から目元が覗いた。
「……別に。いつも通りよ」
声は小さく、どこか遠い。
盆を下げた私は一歩下がり、視線を巡らせる。
テーブルには三人。だが、壁際には五人の護衛。
剣を帯びた者、僧衣を纏った者、そして一人――外套を羽織った男。
そこから微かに漂った、乾いた鱗の匂い。
「午後は貴族の館、クラリスが言ってたところよね」
「ほんとにそれでまとめるの? 実行委員のレポートがあんまり主題からそれるのは……」
「別に無理強いしないわよ。ミレイユが付き合ってくれるし、ね」
灰茶の髪の女が、スプーンを皿に戻しながら答えた。
「……ああ、そうね」
声は淡々としていて、どこか距離がある。
男は小さくため息をついた。
「わかったよ」
私はデザートの皿を置いたあと、一礼し、部屋を退出する。
廊下を抜け、事務室へ向かった。
帳簿棚から予約名簿を取り出し、先ほど客の欄に指を止める。
人数は三名。予約名義は『誓の環』
扉を閉め、鍵をかける。
用意していた術印を指先でなぞると、部屋の空気がわずかに震え出した。




