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社会不適合者が凄腕のショコラティエになっていた件  作者: エスティ
第1章 学生編
22/70

22粒目「チョコアート」

 春休みを迎え、私は再び夏芽の家に遊びに行った。


 冬美は既に夏芽の家にいるようで、チョコ作りを始めているんだとか。


「最近の璃子ちゃんは夏芽ちゃんの家によく遊びに行くよねー」


 受話器を元の位置に戻したばかりのお母さんが言った。


 私はすぐ夏芽の家に行くと返事を出したばかりだ。特に習い事はしていないし、そんな余裕はない。チョコ作りはどんな習い事よりも、私に大きな希望を与えてくれた。


 遊べるのは学生の時だけ。私は遊ぶように色んなチョコを作った。


 チョコレートで作る造形、チョコアートにも興味を持ったが、作り方が全く分からなかった。そこで私はお兄ちゃんが持っているパソコンを借り、チョコレートでアートを作る方法を調べた。案外早く見つかった情報をもとに、見よう見まねで始めた。


「うん。じゃあ行ってくる」

「夏芽ちゃんは家に呼ばなくていいの?」

「呼ぶ必要ないでしょ。何もないんだし、絶対に呼ばないでよ」

「あず君は定期的にクラスメイトを呼んでくるのに」

「コーヒーをご馳走しては、苦いと言われて帰っちゃうのがオチだけどね」


 お兄ちゃんの趣味には誰もついていけない。うちの親戚のように、ゲームを持って行き、お兄ちゃんと対戦するのが最適解だ。親戚もコーヒー好きだが、砂糖と牛乳は必須だ。


 今日は久しぶりにチョコアートを楽しめる日だ。


 これからチョコで作る作品の設計図を携え、家の外に出た時だった――。


「あっ、璃子、おはよー!」


 私の鼓膜を唐突に刺激したのは、太陽のような快活感溢れる高い声だ。


「おはよう。静乃、どうしたの?」

「今日は映画を見に行っていたの。朝だったら人が少ないからねー。璃子は?」

「夏芽の家に行くの。チョコアートを作るために」

「チョコアート! ねえ、私も行っていい!?」

「うん、いいよ。じゃあ夏芽に言っておくね」

「夏芽とはあんまり話してないけど、大丈夫かな」

「それなら大丈夫。今回は難しいから助手を連れてきたって言えば問題ないし、1人増えたところで、何か特別な影響が出るわけでもないし」


 静乃は葉月商店街で買い物をしてから帰宅する予定だった。


 何度か一緒に遊んだが、他の生徒とは異なる価値観を持ち、煌びやかな金髪が新鮮だ。


 髪色の件については、親からの抗議とお兄ちゃんという前例が生じたこともあり、最終的に金髪での登校を認められた。お兄ちゃんは人知れず1人の人生を救ったのだ。


 静乃の家は『中津川珈琲』というコーヒー会社の本店兼自宅である。


 ジェズヴェコーヒーというトルココーヒーを売りにしていて、ジェズヴェと共に売りに出している。このことからも、中津川一家の地元愛の強さが窺える。


「へぇ~、結構可愛いねー。私もチョコアートやってみようかなー」

「始めるのはいいけど、設備が必要になるよ」

「うちでもケーキとか作ってるから大丈夫だよ。それにコーヒーと組み合わせることで、コーヒーマリアージュが楽しめるから、バリスタを目指す上でもかなり参考になると思う」


 夏芽の家に着いた。バルコニーは閉ざされたまま。


 裏切り者はまだ動かない。既に突き止めたはいいが、弱みを握られていることに変わりはない。


 百合園をどうするかで揉めているが、他人のことには口出ししないのがセオリーだ。箱入り娘として有力なグループ企業の御曹司に嫁がせたい意図は分かった。私が裏切り者の立場であれば、百合園の無事を保障する代わりに、頼みを聞いてもらうよう働きかけるだろう。


 夏芽は対抗手段を血眼になって探している。


 婚姻可能年齢である16歳に達するまでに、裏切り者の弱みを掴めるかどうかが、彼女の人生を守る要点になると私は予想した。私は夏芽の夢を守りたい。どこかに嫁いでしまうことは、夢を諦めることを意味する。私は夢を諦める辛さを知った。優子さんはパティシエになったが、本当は就職レールに乗って、両親を楽させることが夢だった。貧乏暮らしから脱出する数少ないチャンスでもあった。


 私は人が夢を諦める瞬間を見てしまった。


 それは人は息絶える瞬間を見るに等しいものだ。


 もう二度と……本人の実力と関係のない理由で……夢を諦めるところなんて見たくない。


 あの光景を思い出す度、お前はこれからこうなるんだぞと、死神に言われているような気分になる。私は誰かの人生に対して、自己責任とか、甘えとか、そんなこと絶対言えないし、そんな冷たい台詞を言えるような人生を送っているつもりはない。


「あっ、璃子、静乃も連れてきたの?」

「うん。静乃もチョコアートに興味があるみたい。助手をやってもらおうと思ってるの。いいかな?」

「もちろん、人手が多い方が助かるし、じゃあ入って。今日はお父さんいないから」


 本当は()()()いない状況だけどね。


 以前から狭山社長とは冷え切った仲だ。帰ろうにも帰れないんじゃない。娘のことをハウスキーパーに任せているわけでもない。会社がかなりピンチの状況で、家族を顧みる余裕もないのだ。


 にもかかわらず、私は夏芽に甘えてしまっている。


 作業開始から数時間が過ぎた――。


 指先に全神経を集中し、花弁のように作ったチョコを慎重に重ね合わせた。


 冷やし固めたチョコをくっつけるために『冷却スプレー』を使った。


 チョコレートの表面に色をつける時は『電動スプレー』を使い、表面をピンク色でコーティングし、桃百合の形をしたチョコレートを完成させた。本物にそっくりで見分けがつかない。ケーキを作った時は、いかにも初心者が作ったような出来栄えだったが、チョコレートは一切の妥協がない。


 私の目の前には、桃百合の形をしたチョコレートが燦々と輝いている。


「凄い。なんか本物みたい」

「私も璃子と同じようにやってみたけど、全然うまくいかない」

「細かい技術で作品を作るの得意なんだねー」

「チョコレートの扱いだけなら、優子さんにも負けてないかもね」

「クリームとかスポンジケーキとかは不得意だけど、チョコレートはちゃんと固めたら、どんな形でも作れるから、凄くやりやすいの」

「璃子ってチョコ作りしてる時、生き生きしてるね」

「すっごく楽しそうな顔だし」


 ニヤニヤと笑みを浮かべる私の顔をマネしながら静乃が言った。


 私が特に惹かれた『ショーピエス』はチョコ作りの中でも特に難度が高い。


 テレビで見たようなスイーツにも見劣りしないとは思うが、派手さや意外性という点で言えば、プロには到底及ばない。私は既にある作品の模倣品しか作れない。プロが思いついたような奇想天外な作品を作ろうにも、着想が全く浮かばないが、いつかファンタジーに出てくるキャラクターや舞台をチョコレートで作りたい。それも誰かが作ったものじゃなく、自分で思い描いたものがいい。


 漠然とした夢を持った。だが私の夢は無残にもすぐに崩れ去った。


「ねえ、またここに誘ってよ」

「……もう無理なの」

「「「……」」」


 深刻な低い声に、私たちは注目しながらも黙るしかなかった。


「無理って、どういうこと?」

「お父さんは璃子たちを疑ってる。璃子たちがうちに遊びに来てくれた時期と、中島君がしくじった日が一致しているってばれたの」

「それは何で?」

「キッチンにあった皿の量が、いつもより多いのを見て感づいたらしいの。あの時は瑞浪さんが機転を利かせてくれて、洗い忘れと言って誤魔化してくれたけど、警戒の目を向けられていることに変わりはない。だからあの時のような手は使えない。それにあたし、ドロップアウトするかも」


 ――しまった。狭山社長に先手を打たれた。こうなることは分かっていたのに。


 静乃はきょとんとしながら聞いている。冬美は夏芽の件を懇切丁寧に説明する。


「じゃあ、夏芽は実の親と敵対してて、狭山社長は夏芽をグループ企業に嫁がせるために、花嫁修業を余儀なくされていて、そのために学校の勉強から、ドロップアウトさせようとしてるってこと?」

「うん。お父さんからは、もう学校には行くなって言われて、どうしても行くなら百合園を潰すって」

「花嫁修業って、何をするの?」

「将来嫁いだ時のために、家事育児の訓練を受けるの」


 不意を突くように大人びた声が階段から聞こえた。


 瑞浪さんは2階の掃除を終えたようで、1階へと戻るところだった。


 彼女自身も不本意であることは声のトーンを聞けば分かる。ハウスキーパーの瑞浪さんは狭山社長の言いなりだ。給料が高いだけでなく、住み込みで広い部屋を与えられている。休憩時間も長いし、自分の家のように使えるほどの待遇だ。代わりに自分の意見すら言えない。


 特に彼女のような氷河期世代には選択肢がない。逆らえば即クビだし、高確率で路頭に迷うことを考えれば、味方として使うことはまず不可能……となれば。


 無能な敵になってもらえばいいんじゃないかな。


「瑞浪さん」

「学校の勉強は、将来就職する時には役に立つけど、その知識は誰かに嫁いで家事育児に活かせる機会はほとんどないの。最低限の読み書き計算ができれば十分だし、家事育児については私が教えることになったの。明らかにハウスキーパーの仕事の範疇超えてるんだけどねー」

「そうですか」

「瑞浪さんも大変だよねー」

「いつもお疲れ様です」


 夏芽が思わず頭を下げた。瑞浪さんはそんな夏芽に対して哀れみさえ感じていた。


 将来を決められていることに疑問はあれど、弱みを握られているが故に口にも出せない。


 これは何も夏芽だけではない。私たちも貧困という弱みを握られ、半ば強引に就職レールに乗ることを余儀なくされている。貧困からの脱出を夢見て銀行に入った者たちは首切りの嵐だ。私の周囲でも銀行員を親に持つ子供の貧困化が進み、貧する国は確実に国民を苦しめていた。


 私もお兄ちゃんのように、自由に生きたい気持ちはある。


 社会は正解のない問題だらけだ。なのに私は正解のある問題ばかりを解かされている。


 頭の中を漠然とした危機意識が襲う。


 考える余裕もないまま、私たちは狭山家を去った。下手をすれば、もう夏芽に会えなくなるかもしれない。せっかくできた友達なのに、遊びに行けるかどうかも怪しい。彼女自身の夢も当然叶わない。


 手の力が段々と抜けていく。作品を完成させた喜びを無力感が覆い尽くしてしまった。私もチョコアートの練習ができなくなった。通学と買い物以外で外に出ることはないのだろうかと、私は途方もない絶望を感じていた。徐々に遠ざかる夏芽の家が小さくなってくる。やがて他の建物で見えなくなると、この日が夏芽に会う最後の日なのかと、心のどこかに穴が開いたようにため息を吐いた。


 数日後――。


「葉月さん、また連絡帳頼むよ」

「はい、大丈夫です」


 私のクラスの担任、三輪(みわ)先生から頼まれ、近くに住むクラスメイトに連絡帳を届けた。


 上に弱く下に強い中間管理職のような担任で、どこかお父さんに似ている偏屈な先生だ。年季が入っている仕事ぶりだが、頭皮が寂しいことになっている。


 家に帰ってから優子さんに呼ばれ、ヤナセスイーツに臨時のお手伝いとして入った。


 週に一度は藤次郎さんが休むため、代わりに来てほしいとのこと。


「はぁ~」

「どうしたの?」

「もう夏芽に会えないのかなって」

「あー、夏芽ちゃんねー。それなら大丈夫だよ。中学卒業までは通学するんだって」

「本当ですか?」

「うん。夏芽ちゃんが言うには、通学できなくなることを近くの交番まで伝えに行ったら、警察の人が対応してくれて、百合園も無事で済むんだって。でもあの年の子に花嫁修業をさせて御曹司に嫁がせるなんて、余程会社がやばいのかもねー。一応調べてみたんだけど、狭山社長は取引先を変えたみたい」

「そうですか」

「今度は『虎沢グループ』に取り入るつもりなのかなー」


 流石は優子さん、こんなにも情報が早いなんて。


 心配はいらないと思いきや、家に友達を連れて来ることを禁止させ、在宅時は瑞浪さんの指導の下、花嫁修業を行うという妥協案で決着がついた。


 狭山社長もまた、社会的被害者としての側面を持っているのかもしれない。倒産という弱みを社会から握られてしまい、娘を売る選択肢を取らざるを得ないのだ。夏芽は狭山社長を恨んではいるが、ただ会社を倒産させたくないがために、娘の人生を縛っているとは思えない。


 虎沢グループはホテル事業を主力としたグループ企業で、ここ最近伸びてきた。


 外国人観光客や出張でやってくる客のニーズにホテル事業がピタリとハマり、20世紀末頃から発展してきたわけだが、今は他の事業にも手を出し、アパレル業界にも影響を及ぼしている。


「そこの御曹司がねー、滅茶苦茶気性が荒いの。同級生に大怪我を負わせてしまって、それで転校することになったんだけど、転校先でまた色んな生徒をいじめてると専らの噂なの」

「じゃあ、もしかしたら夏芽はそんな人に嫁がされる可能性があるってことですか?」

「可能性はあるけど、虎沢グループの御曹司に嫁ぎたい人なんていくらでもいるし、まず大丈夫だと思うよー。それに御曹司じゃなくても、幹部の息子さんに嫁いだら、それなりの生活ができると思うし」

「優子さんはそれでいいんですか?」

「あたしはパス。だってあず君一筋だもん」

「あんなトラブルメーカーのどこがいいんですか?」

「凄く真っ直ぐで、どうしようもないくらいコーヒーに夢中でしょ。そこが面白いと思ったの。みんな将来良い学校に行って、良い会社に就職して、何となく働くことしか頭にないような、つまんない人ばっかりだと思ってたけど、あず君はしっかりと自分の興味に集中してて、レールなんかなくっても大丈夫って顔が言ってるの。それに相手が誰でも接し方が変わらないところも好き。裏表がない分、反感も買うけど、良くも悪くも周囲を気にしないっていうか、壁が立ちはだかっても、物怖じせずに乗り越えていくところとか、もうぜーんぶ好きっ!」


 生き生きとした口調で自分の両肩を抱き、お兄ちゃんの特徴を精緻に述べる優子さん。


 お兄ちゃんは嫌われ者とばかり思っていたけど、好きと思える人もいるんだ。何度失敗しようとも、お兄ちゃんのコーヒーに対する興味が尽きることはないし、理不尽を相手に正面からボコボコに殴り合う姿には懲りないなと思いつつ、失敗を恐れない度胸と行動力には光るものがあった。他の人がどう思うかじゃなく、自分が幸せかどうかを第一に考えているお兄ちゃんを羨ましいと思う日もあった。


 蓼食う虫も好き好き。夏芽が言っていた言葉を私は思い出した。


 優子さんがお兄ちゃんを好きになったように、私も意外な人を好きになる日がやってくるのかな。


 いやいや、一体何を考えてるんだ私は。そんなこと、まずあり得ない。


 男子なんて、みんな同じような存在にしか見えないし、年を追う毎にロボット化している気がする。小1の時は、喋る内容も好きな色も全然違ってたのに、小5を迎えようとしている今、男子は青や黒、女子は赤やピンクを好きな色に挙げている。私のプロフィールカードに好きな色は水色と書いている。これもそろそろピンク色に変えないといけないのかと思っている自分もいる。


 私が最後の1人になるまでは、水色って書き続けようかな。


「優子さん、藤次郎さんが休みの時は、いつでも私を誘ってください」

「うん、もちろん。じゃあ日曜日は璃子ちゃんにお願いしようかなー。これでいいんだよね?」

「はい。璃子のこと、よろしくお願いします」


 後ろを振り返ると、そこには浅く頭を下げた夏芽の姿がある。


 私服姿は桃百合をモチーフとしたブラウス、左耳の近くには桃百合の装飾が施された細長いピンセットをつけているのがとても可愛らしく、ここにいる誰よりも女の子らしい。


 黄色いブランドのバッグは高級感を出すためのようだ。必死にお嬢様であることをアピールしているように見えるが、私には単なる見栄っ張りのように思える。会社が傾きつつあるときでさえ、夏芽はこんな立ち振る舞いをしなければならない。貧乏になるのが余程恐ろしいと見える。


「夏芽、どうしてここに?」

「どうしてって、あたしもここの常連だから」

「私のことをよろしくって、どういうこと?」

「実はねー、璃子ちゃんにお手伝いをさせてほしいってお願いしてきたの。もう夏芽ちゃんの家に遊びに行けないからってことで、ヤナセスイーツが代わりに面倒を見ることにしたの。夏芽ちゃんに璃子の作品を見せてもらったけど、正直ここまで『チョコレート細工』がうまいとは思わなかったなー」

「見よう見まねで作っただけですけど」

「たとえそうであっても、見よう見まねでチョコアートをここまで精巧な技術で完成させるって、凄いことだよ。だから璃子が高校を卒業するまでは、ここでお手伝いをさせてほしいってお願いされたの。洋菓子店だから、主にケーキ作りから教えることになると思うけどね」


 口を開けたままの私が夏芽の顔を見ると、夏芽はお茶目なウインクを見せた。


 私の希望を汲み取ってくれたばかりか、チョコアートを基礎から学ぼうとする私のために尽力してくれたことがたまらなく嬉しい。私は手先の細かい作業が最も得意らしい。アイデアを無尽蔵に思いつくお兄ちゃんとは対照的だ。お兄ちゃんも手先の細かい作業は得意だが、優子さんが言うには、私の精巧な技術はプロ並みであるとのこと。せめて学生の内は、趣味の一環として、お菓子作りを基礎から学んでもいいのかもしれない。チョコアートもたまに教えると、優子さんは約束してくれた。


 得手不得手が極端なお兄ちゃんとは対照的に、私はバランスタイプとばかり思っていたが、力持ちであることも、スイーツ作りには必須のようで、どうやら私はバリスタよりもショコラティエの方が才能があるらしい。本格的に学びたいところだが、私には毎日の勉強があるし、週に一度しか来られない。


 お兄ちゃんは毎日おじいちゃんの家にバリスタ修行に行っている。


 それは学校の勉強を完全に捨てているお兄ちゃんだからこそできることだ。私は就職レールに乗ることを親から期待されている。その期待を裏切るわけにもいかないし、何よりまずは貧困脱出が急務だ。ショコラティエの夢はそれからでも遅くはない。


 将来の夢を将来に取っておく道を私は選んだ。ここでもまた、お兄ちゃんとの明暗が分かれた。お兄ちゃんには将来の夢なんてない。今やりたいことに全力を尽くすことだけ考えている。静乃がコーヒーマリアージュと言っていたのも大きなヒントだし、私もお兄ちゃんからコーヒーを学びたくなった。


 今だからこそ、色んな分野の勉強ができる。一通り学習して、その上で最も得意な道に進むのが無難と言える生き方だ。特に目立つこともなく、私はただひたすらにチョコレートを作りたいのだ。願わくば色んな人に食べてほしい。いつしか私は、チョコレートを作って売ることを考えるようになった。


 しかし、私は就職レールに乗らなければならない。


 普通に生きて普通に過ごすこともまた、私の夢である。その道のりは、チョコレートのように甘くはない。厳密に言えば、チョコレート自体は苦いし、スイートなフレーバーは甘味料の影響だ。ならば私の人生は、ある意味チョコレートの味なのかもしれない。


 ふと、クローズキッチンからとても良い香りがする。


 優子さんはザッハトルテを作っている最中だ。ザッハトルテはケーキの一種であり、チョコレートの一種でもある。これはまたチョコレートを究めるチャンスかもしれない。


「夏芽、ありがとう」

「気にしないで。あたしにできることと言えば、これくらいだから」


 夏芽はそっと私の体を抱き寄せ、首と首が触れ合った。またお互いに相手の視線を一致させる。スキンシップによる肌の触れ合いが夏芽の頬を赤く染め、私も釣られて赤面する。


 何だろう……この羞恥心は。


 夏芽自身はうっとりした顔のまま、自らの頬を両手で揉み、一時の安らぎすら感じている。


 本格的なケーキ作りをさせてもらえるわけではないが、お手伝いとして作業を見ることはできる。


 つまり、優子さんは技を見て盗めと言っている。昔から行われてきた手法だが、直接教えながら演習を繰り返すような余裕はないし、これがヤナセスイーツの限界とも言える。


 手伝った分のお礼も報酬として反映されるとのこと。


 子供を働かせるのは駄目だが、お手伝いとして使い、お小遣いを渡すのは優子さんの勝手だ。

読んでいただきありがとうございます。

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