【12】隔つ汐風(2)
松原にゆったりと浮かぶ一隻の舟。その上に佇み遠くを見やるのは一人の漁師だ。こういうのを幽玄と呼ぶに違いない、と思わされる墨絵の掛け軸の下には、大黒様と恵比寿様が置かれている。柔和な笑みを湛える木彫りの二柱。その床の前で静かに座している竜のお兄さんは、険しい顔のまま湯呑みを傾ける。
竜が義姉さんと呼んでいた女性が私たちの前にお茶を出してからしばらくして、竜が意を決したように口を開いた。帝都で仕事がしたいこと、私と結婚したいこと。一つ一つ、言葉を選ぶようにして伝えていく。私を紹介してくれたときは自分も名乗ることはした。私も緊張はあったが、同等、いやそれ以上に竜の表情は硬く、元々かは知らないが全て敬語だ。
竜が言いたいことを全て話し終えると、お兄さんは斜め上へと視線を外した。どこか遠くを見やるような様子で薄く唇を開き、極めてゆっくりと息を吐く。少しの間を空けて、お兄さんは私を見た。
「鈴生家当代の鈴生 潮と申します。石月さんには、家族ぐるみで竜治がお世話になっているようで。ありがとうございます」
互いの話し方から、竜が前もって私のことを話していたとは思えない。両親や葉太も含めて付き合いがあることは、別口で知っていたようだ。「こちらこそ、竜治さんにはよくして頂いておりますので」と言えば、お兄さんは軽く目を伏せた。
厳しい顔つきからは想像できないほど口調や振る舞いは穏やかなもので、商人らしい。だが、それでもまとう雰囲気には怒りの色が感じられた。彼は弟の竜へと視線を移す。
「お前は親父に懐いていたな」
「親父の遺志を継ぎたいだけじゃなく。俺自身の夢なんです。どうしても、諦めたくない」
竜が真っ直ぐ見返して言えば、お兄さんはあからさまに眉根を寄せた。今度はハッキリと、呆れたように溜息を吐く。
「俺に反発してか。仕事もせずふらついて……それでも目をつむってやっていれば、ここに警察を入れるときた。そんなどうしようもないお前が少しでも家の役に立つようにと、俺が持ってきた縁談は断るというのだな」
初めて耳に入った話に、思わず目を見開いた。竜に縁談がきていたとは聞いていない。警察が来てからになると一昨日か昨日ということになるが、おそらく一昨日だろう。竜は縁談の話があったから、昨日私を向こう町に連れて行ったのだ。私と一緒になって、縁談を断るために。帝都に行くために。
「はい。俺は沙耶子さんと一緒になりたいんです。どうか何も言わず許して頂けませんか」
竜が背筋を伸ばし直して、頭を下げる。当日に出掛けに誘うなど、少し急いたようで竜らしくないと思っていた。だが、それはどうやら、お兄さんの持ち込んだ縁談が理由だったらしい。
お兄さん側も、警察が来た当日に縁談を持ってくるのは妙に急いていると感じる。本当は前々から考えていて、機をうかがっていたのではないかと勘繰ってしまう。お兄さんの目が一瞬だけ私を捉えた。チラリと私の顔色を確認すると、彼は語り出す。
「先方はお前の婿入り以外何も望んでおらん。文字通り何も。先立たれた前の婿との息子もいるのだ。家の体裁を整えるため、そして一介の働き手として以外には、そういうことは望まないと言って下さった」
「……俺のこと話したんですか」
「相手になって頂ける方には必要な話だ。違うか?」
声量を落とした竜とは逆に。一字一句、いやにハッキリとお兄さんは話す。耳の奥に届かせようとしているのか、その話し方は、内容は。竜ではなく、まるで私に聞かせたいような――
「石月さん。竜治の縁談の話、聞かれていましたか」
ふいに振られ、机から目線を上げる。ざわつく気持ちが顔に出ているに違いない。取り繕えない状態のまま、渇き始めた口を小さく開く。
「……いいえ」
「でしょうね。縁談の内容を話せば、否が応でも己が身の性質を教えねばならなくなる」
この場において、お兄さんだけがひどく落ち着いていた。竜は何も話さない。沈静した空気が息苦しく、呼吸の代わりに数回瞬きをした。話の続きを知りたいが、知るのが怖い。
「竜治。もう平気なのか。この娘さんには触れるのか」
お兄さんが訊いた。長いと感じる時間が空いたが、返事はない。
おそるおそる竜を見ると、彼はうつむいたまま、辛辣な表情で口を引き結んでいる。異様に顔色が悪い。見ているこちらが辛くなり、ぐっと目をつむる。ただでさえ重苦しい空間が、真っ暗になった。
「石月さん。このような形でお伝えするのは大変申し訳ないのですが――竜治は女性に触れないのです。昔に発作を起こして以来、心身ともに拒否しているようで」
視界を閉め切った意識にお兄さんの声がのせられる。こちらを気遣うような口調だ。私に痛々しさを与えないところに、現状への理解と優しさを感じる。よくできた方だと思う。
薄く目を開けてお兄さんを見ると、彼は憂うように私を眺めていた。惨めではなかった。




