↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/22

【11】隔つ汐風(1)

 その日の帰り、竜は私を家に送った足で両親に結婚の話を持ちかけた。私と同様に父と母が心配したのは鈴生の家の方だ。私との結婚が許されるのかと訊けば、「こちらの許しを得る方が先かと思いましたので」と竜は話した。もし許してもらえるのなら、明日、私にお兄さんのところへ付いてきて欲しい。頭を下げるのは自分だが、一緒に来てもらえるだけで嬉しい。そんなことも言った。



*****



 古くからの町屋が立ち並ぶ大通りから外れ、細い小路へと入る。主に町屋に住む人たちが使う裏道は、表とは少々雰囲気が異なっていた。水の溜まった桶と柄杓(ひしゃく)が無造作に置かれていたり、干し網にシイタケや野菜が寝かせられていたり。日光が細く差し込む涼しい小路に、この近隣に住む人々の生活が感じられる。


 その中を慣れた足取りで抜けて行く竜の後ろ姿を眺める。お兄さん――当主への挨拶の日も変わらず、彼がまとうのはフロックコートだ。彼が中学生のときは、学校帰りならば詰襟の学生服がほとんどで、着替えていても洋装だった。そんなものだから、休日は当然のように洋服を着ていて、昔から本当に好きなのか、こだわっているように感じる。


 ちなみに私は外行きの着物姿で、今日は髪を結い上げている。昨日竜に贈られた洋服も頭をよぎったが、ここは正直に、身の丈にあった服装の方がいいと思ったのだ。


「こっち側は初めてですよね、沙耶子さん」

「ああ。住んでいないと、来る機会がないよな」

「そうですよね。ここ、晴一の家ですよ」


 やや広い路地に抜ける前、竜が左側の町屋を指し示す。晴一の実家は金物屋だ。勝手口の横の柱に小さく打たれた『比島(ひとう)』の表札に、「ああ」と声が出る。「うちは近所です」と言って通りに抜けた竜に付いて行くと、すぐに鈴生家に着いた。


 店構えに比べると力の入れた外観ではないが、落ち着いた雰囲気で趣がある。離れの横の戸口をくぐり先を行く。そこは簡易な通路になっていて、中庭に繋がっていた。中庭では白梅が満開だ。木登りができるというのは本当のようで、離れの近くに植わったその幹はなかなかに太く、二階に届く高さまで空に伸びている。だが、梅の木は大きいが、中庭に香るのはその芳香ではない。家の敷地に足を踏み入れてからずっと、鼻をかすめているのは魚の匂い。


「行きましょうか。母屋の二階に来いと、兄貴が言っていたので」


 竜の言葉に従い付いて行く。戸の開け放たれた母屋に入ると、魚の匂いは一段と濃いものになる。店側まで長々と続く通り土間。その高天井を見上げれば、飛び込んできた光景に目が釘付けになった。


 梁から大量に吊り下げられるのは、鮭の雄郡。縄に結ばれた一本一本が艶やかで重みを感じさせる。立派だ。それこそここにある全てが、盆や正月に店に吊られる高級品と同じもの。


「匂いとか平気ですか」

「ああ。――圧巻の眺めだな」


 鮭がひしめき合う天井に目を奪われたまま答えれば、「良かった」と竜の小さな声が聞こえた。


「上がって下さい。沙耶子さんに家人と従業員側で脱がせるのは申し訳ないんですけど」

「結婚を認めてもらうんだから、お客面で上がるわけにはいかないだろう」


 視線を前に戻し、竜と共に土間の端からお邪魔する。小さな上がり(かまち)からさらに一段上がると、そこは藁を叩いて打ち付けた四畳半の空間だ。今は全員離れているからか、中央の囲炉裏(いろり)は冷めている。


「ここが女たちと子供が食事をする場所です。隣のこっちが、男たちが食べる場所」


 竜がくいと視線を動かす。見ると、八畳の部屋が表の方角に向かって続きになっている。互いに土間とも接していて壁はないが、今私たちが立つ四畳半よりも一段高く、仏壇が置かれている。新しい井草の色が見栄えよい。


「一緒に食事しないんですよね。風習なんでしょうけど、昔から合わなくて。だから、全員で囲炉裏(いろり)を囲う沙耶子さん家の食事が羨ましくて、好きなんです」


 竜がうちで夕飯を食べるのは父か母に誘われた日だけだ。二人とも気付いていたのだろうか、と五人での食事風景を頭に呼び起こす。品数も足りないだろう質素な食事。それに嬉しそうに箸を伸ばす竜を思い出し、なんとも言えなくなってしまった。


「二階に行きましょうか」


 私の様子に気付いたのか少し申し訳なさそうな顔をして、竜は言う。


「竜のご両親がいる仏壇に、手を合わせられないだろうか」

「お気持ち、すごく嬉しいです。でも、そうして下さるなら帰りにしましょう」


 竜の父親は彼が中学生の頃に亡くなっているが、母親はそれより前、彼が六歳の頃に帰らぬ人になったと聞いていた。




 階段を昇りきったところで初めて家人に会った。身なりの整った五、六才の男児だ。利発そうな男の子は私の姿を認めると、「こんにちは」と丁寧にお辞儀をする。澄み切った幼い声が廊下に響く。


「こんにちは。お邪魔してます」


 こちらも姿勢を改めてから挨拶を返すと、男の子は静かに口角を上げた。お客に対する愛想の良い笑顔のようだ。


「よう、(ひろ)。母さんはどうした」

「そこにいるよ。さっきお茶淹れてた」

「そうか。ありがとな」


 竜が腰をかがめて頭をわしわし撫でると、浩と呼ばれた男の子は表情を崩す。くすぐったそうに歯を見せるこちらの笑顔の方が素に違いない。昔の弟を思い出し、どこの子供も変わらないなと頬が緩む。もちろん育ちはまるで違うし、葉太の方はもっときかない子だったが。


 そうして二人のやり取りがあってすぐ、「竜治さん、着いたんですね」と廊下の角から別の声が響いた。大人の女性の声だ。


義姉(ねえ)さん」

「あの人が待ってますよ。……浩文ひろふみ。先に行って、そろばん準備してなさい」


 廊下の角から現れた女性は、先日私が店先に来た際に遠目で見た人物だった。竜のお兄さんの隣に佇んでいた人だ。今日も落ち着いた色合いの、上品な着物を着ている。声をかけられた男の子――おそらくこの女性の息子で、竜の甥にあたる子は、「はい」と気持ちの良い返事をし、軽い一礼を交えながら私の横を抜けて行った。


 竜のお義姉さんと目が合い、礼を交わす。言葉はほとんどなく静かなものだ。そのまま採光が十分に取られた廊下を先導してもらい、一つの障子の前に着くと、彼女は室内にいるだろう人物へと呼びかけた。


(うしお)さん。竜治さんとお相手の娘さんがいらっしゃいました」

「入ってもらいなさい」


 兄弟だからか。年齢による違いはあっても、竜の声に似ていると思った。竜に続いて畳の上へ足を運ぶ。おのずと視線が合ったのは、床の間を背に悠然と座る男性。遠目では数度見たことがあるが、こうして対面するのは初めてだ。竜のお兄さん、鈴生家当主を務めるその人は、私たちをじっと見据える。その目は何かを見定めるようでいて、どこかに怒気をはらんだ、厳しいものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。