窮地
「あっ、やっぱり、ここに居た! ジョージ、何やってんのよ!」
ジョージ? ジョージとは? 彼は一体、いくつの名前を持っているんだろうか?
「あ、秋奈……い、いや、これには、ちょっと理由があって……その、つまりマスターに挨拶してから行こうと」
「さっきは、すぐに電車に乗るって言ってなかった? あたしに会う時間も取れないって?」
青井は、いつの間にか、カウンターの中に居て、テーブルを挟んで女と対峙している。
「そ、そうだよ。だからマスターにツケを払ってからと思って。これから急いで行くところなんだ。よく来てくれたね」
「ふーん、パスポートを見せてよ」
「パスポート? あ、それは、ほらコインロッカーに」
この期に及んで、まだ言い逃れるつもりなのか? 無理だろ?
その時、ギイと音を立てて、別の女が顔を覗かせた。
「勝彦! あんた、なんでここに居るの?」
その女は、またしても別の名前で男に呼びかけている。
「カツヒコ? ちょっと、あんた、なに言ってんのよ」
秋奈が女を睨んだ。
「ジョージは、あたしの彼氏よ!」
「勝彦! これは何なの? どういうこと?」
「いや、違うんだ冬美さん。なんて言うか、これには、ちょっとした事情があって……」
後から現れた女は冬美という名前らしい。
「勝彦! この小娘はなんなの? 説明してちょうだい!」
冬美は三十前後に見える。秋奈は二十代前半だろう。僕とそれほど違わない筈だ。
冬美は秋奈に対して小娘などと揶揄して喧嘩を売っている。
「ちょっと、おばさん。なに言ってんの? ジョージより年くってそうじゃない?」
秋奈も負けてはいない。
僕が見るところ、二人とも若い大人の女性だ。小娘にも、おばさんにも見える筈がない。
売り言葉に買い言葉というやつだ。
「うっさいわね! あたしは勝彦に訊いてんのよ! 関係ない小娘は黙ってなさいよ!」
「な、なによっ……」
冬美の気勢に圧されて秋奈は怯んだ。
「ちょっとジョージってば……」
秋奈が青井を見た。
「う、うん……」
青井は窮地に立たされている。だが、それに追い討ちをかけるように事態は更に悪化し、混乱を極めることになる。
新たな女が現れたからだ。
ギイッと音を立て、駆け込んで来た女は息を弾ませている。
「こんばんわーっ! マスターッ! 正樹が居るんでしょ!」
「いらっしゃい」
マスターが短く挨拶を返した。
「あっ、やっぱり居た。正樹、あんた、そんなとこで何やってんのよ?」
「な……夏樹……」
青井は、パニックになっているのだろう。彼の顔面は蒼白で脂汗が浮いている。
恐らく頭の中は真っ白で、何を言っていいのか解らない状態に違いない。
「勝彦! これは一体、何なの? ジョージだの、マサキだのって……なんの真似?」
冬美がカウンター越しに青井に詰め寄って……
「ふざけた事やってんじゃないわよ!」
と強くなじりながら両手で激しくカウンターを叩いた時、異変は起こった。
不意に店内の照明が消えたのだ。
「あっ!」
「きゃーっ!」
「な、なにこれ!」
「うわっ」
女達は口々に悲鳴や驚きの声を上げた。
「おやっ? 停電ですかな? 調べましょう」
暗闇の中でガサゴソとマスターの動き回る音を聞いた。
「皆さんは、そのまま動かないように」
そのまま、一分ほど息を詰めて待ったが、明かりは点かない。
「マスター? まだなの?」
たまりかねて、誰かが小声で問いかけたが返事がない。
「マスター! どうしたのよっ?」
突如として暗闇に置かれた不安に駆られてのことだろう。女達が続けざまに声を上げた。
「えっ!」
「きゃーっ! な、何か居るわっ!」
「あひゃっ、何なのよ。うわっ、あたしの足を舐めてる。きゃーっ、こわいーっ」
何か動物が紛れ込んだらしい。
やがて、パタンッと微かな音がして、間もなく明かりが灯った。
「すみません、お待たせしました。何かのはずみでブレーカーが落ちたんですな」
マスターは、そう言いながらエアコンやオーディオのスイッチを入れ直している。
「お詫びに、コーヒーを淹れましょう」
「あら、やだ……子犬じゃないの」
冬美が可愛らしい声音を発した。
「わあっ、かわいーっ! あたし犬は大好きなの」
そう言って夏樹が白い子犬を抱き上げている。




