表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
71/84

第71話: グレイヴスの夜

◆グレイヴス視点




 私室の扉を閉めた。


 鍵をかけた。外から三重の鍵がかかる大司教の私室には——中からかける鍵は、一つしかない。


 小さな金属の音が、静かな部屋に響いた。








 日が暮れていた。


 窓の向こうに、王都ルミエールの街並みが見える。教会の塔は街で最も高い。大司教の私室はその最上階にある。街を見下ろすための部屋。


 ——見下ろすことに、意味があるのかどうか。考えたことはない。




 部屋は質素だ。


 ベッド。机。椅子。以上。


 壁には書棚があるが、中身は聖典と記録のみ。装飾品はない。絨毯もない。石の床に木の家具。暖炉はあるが、薪がない。今夜は冷える。




 ——いつからか、薪を頼むのを忘れるようになった。




 机に向かった。


 椅子に座った。木の椅子。背もたれが固い。座り心地が悪い。この椅子に30年座っている。座り心地の良い椅子を知らないから、悪いとも思っていなかった。


 ——最近、思うようになった。なぜだかわからない。








 壁に——記録がある。


 勇者選定の記録。聖歴381年から始まる、46年分の記録。


 羊皮紙が茶色く変色している。最初の一枚だけが特に古い。私が書いたものではない。先々代の大司教が書いたものだ。




 「第1期勇者 エルト 男 15歳 聖歴381年派遣」


 「第2期勇者 リカ 女 14歳 聖歴384年派遣」


 「第3期勇者 ヴァル 男 16歳 聖歴387年派遣」




 名前が並んでいる。番号と、名前と、性別と、年齢と、派遣年。


 帰還の欄がある。全て——空欄だ。


 空欄のまま46年。47名。空欄でなくなったことは、一度もない。




 私が大司教になったのは28歳の時だ。聖歴397年。30年前。


 それ以降の記録は、私の字だ。




 「第6期勇者 セリア 女 13歳 聖歴397年派遣」




 最年少だった。13歳。小さかった。出発の朝、神殿の階段で転んだ。膝を擦りむいた。私は——見ていた。手を差し伸べなかった。勇者にふさわしくない弱さを見せるな、と思った。


 セリアは泣かなかった。立ち上がって、振り返らずに歩いていった。


 帰ってこなかった。




 以来、30年で28名を送り出した。私の字で。私の手で。


 全員——帰ってこなかった。




 帰還の欄は空欄のままだ。


 帰還計画の書類も空欄のままだ。


 ——最初から、書く予定がなかった。








 立ち上がった。


 記録から目をそらすためではない。食事の時間だからだ。


 部屋の隅に盆がある。侍従が日没前に置いていく。大司教は食堂で食事を取らない。一人で食べる。それが決まりだ。誰が決めたか——知らない。先々代からの慣例だと聞いた。




 パンが一つ。水が一杯。


 教会のパンは硬い。意図的に硬く焼いている。質素であることが徳だと、教義に書いてある。


 水はぬるい。教会の井戸水。




 椅子に座ったまま、パンをちぎった。


 口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。




 ——味がしない。




 いつからだろう。味がしなくなったのは。


 5年前か。10年前か。——もっと前か。思い出せない。パンの味を「美味い」と感じた記憶が——ない。孤児院にいた頃はどうだった。あの頃は空腹だった。空腹なら何でも美味い。だが、味を覚えているかと聞かれたら——覚えていない。


 温かいものを食べた記憶が——ない。


 孤児院のスープはぬるかった。教会の食事は冷たい。大司教になってからは一人で食べている。一人の食事に温度は必要ない。


 ——あの女が言っていた。




 「あんた、朝ごはん食べた?」




 あの時、答えなかった。食べたか食べていないかは問題ではない。問題は——あの女がなぜ、それを聞いたのかだ。


 「見たらわかる。食べてへん。顔の色でわかるわ」


 ——顔の色。


 58年間、顔の色を見た者は、いなかった。




 パンをもう一切れ食べた。


 味がしなかった。


 水を飲んだ。


 冷たいだけだった。








 食事を終えた。


 盆をそのまま置いた。朝、侍従が回収する。会話はない。置いて、回収する。それだけだ。




 机に戻った。


 引き出しの前に、手が止まった。


 引き出しを——開けた。




 封筒が一つ。


 白い封筒。表に、ひらがなで書いてある。




 「ぐれいゔすさんへ」




 カインが持ってきたものだ。あの騎士は——いや。あの男は、もう「騎士」なのかどうか。魔王の城で食事をしたと報告した男。密書とともに——これを渡してきた。


 「グレイヴス殿。魔王から——いえ、よしこ殿から預かりました」


 よしこ殿。魔王を名前で呼ぶ騎士。


 ——規律の崩壊だ。




 封筒を開けた。何度目だ。数えていない。


 中の手紙を取り出した。




 「グレイヴスさんへ


 はじめまして(^^) まおうのよしこです。


 ごはんたべにおいで。


 あんたもおなかすいてるやろ。


 あったかいシチューつくるから。


 まってるで(^^)」




 ——ひらがなだ。


 大司教宛ての書簡が——ひらがなだ。格式がない。敬語がない。外交儀礼の欠片もない。「まおうのよしこです」。正式名称は魔王ヴォルグラーナだ。ヴォルグラーナ。古代魔族語の真名だ。それを——「よしこ」と。




 読んだ。もう一度。


 「ごはんたべにおいで」


 もう一度。


 「あんたもおなかすいてるやろ」


 もう一度。


 「まってるで」




 手が震えた。


 手紙が揺れた。




「……馬鹿げている」




 声に出した。私室に自分の声が響いた。低い声。枯れた声。




「魔王に招待されるなど。大司教が——魔王の食卓に招かれるなど」




 手紙を畳んだ。封筒に戻した。引き出しに入れた。


 ——捨てなかった。




 鍵をかけた。


 引き出しの小さな鍵。真鍮の鍵。




 捨てればいい。


 焼けばいい。魔王からの書簡など、焼却するのが当然だ。教義上も、政治的にも。


 ——捨てられない。


 なぜ捨てられないのか。


 わからない。わかりたくもない。








 夜が更けた。


 暖炉に火がない。部屋が冷えている。毛布を一枚引き寄せた。ベッドには入らない。まだ座っている。机の前に。


 壁の記録が——見えている。薄暗い中で、羊皮紙の白さだけがぼんやりと浮かぶ。47枚の記録。47名の名前。47の空欄。




「私は間違っていない」




 声に出した。部屋に誰もいない。神に対して——いや、自分に対して言った。




「秩序が世界を守る。聖教会が秩序を維持し、魔王を打倒することが——人類の使命だ」




 暗い部屋に、自分の声だけが響く。


 正しい言葉だ。何千回と言ってきた。神殿で。議場で。勇者の出発式で。同じ言葉。同じ意味。変わらない。変わるはずがない。




「子どもたちを送り出すことは——」




 ……。




「子どもたちを送り出すことは——必要な……」




 言葉が——続かなかった。


 喉が詰まった。


 必要な犠牲。そう言うはずだった。30年間——言い続けてきた言葉だ。




「……必要、な——」




 声が枯れた。唇が渇いている。水を飲めばいい。——動けない。




 セリアの顔が浮かんだ。13歳。神殿の階段で転んだ女の子。膝を擦りむいた。立ち上がった。振り返らなかった。


 エルト。リカ。ヴァル。名前だけが記録に残っている。帰還の欄は空欄のまま。




 レオン。あの少年は——魔王の城にいる。


 シオン。私が育てた。完璧な勇者に育てた。任務を遂行する道具として——




「……道具、ではない」




 口が勝手に言った。


 ——今、何を言った。


 道具ではない。誰が言った。私が言った。なぜ言った。


 シオンは第48期勇者だ。聖教会の訓練課程を経て、選定の儀で聖剣に選ばれた、正式な勇者だ。道具ではない。勇者だ。


 ——勇者だから、送り出す。


 ——送り出して、帰ってこない。


 ——帰還の欄が、また空欄になる。




 毛布を——握った。


 指が白くなるほど強く。








 いつの間にか、うとうとしていた。


 椅子に座ったまま。机に突っ伏して。首が痛い。


 窓の外が——白んでいた。


 夜明け。王都の屋根に薄い光が差している。




 体が冷えている。暖炉に火がない。春の手前の朝はまだ冷える。


 立ち上がった。膝が痛んだ。58歳の膝。石の床に座り続けたせいだ。




 顔を洗った。冷たい水。手が冷たい。


 鏡は見なかった。自分の顔を見る習慣がない。大司教服を着て、髪を撫でつけて、神の前に出る。それだけだ。




 ——机の前に戻った。


 引き出しの前で、手が止まった。




「…………」




 鍵を出した。真鍮の小さな鍵。


 引き出しを開けた。




 白い封筒。




 「ぐれいゔすさんへ」




 手に取った。封筒を開けた。手紙を取り出した。


 昨夜と同じ手紙。同じひらがな。同じ内容。変わるはずがない。文字が夜の間に書き変わることなど、ありえない。




 読んだ。




 「ごはんたべにおいで」


 「あんたもおなかすいてるやろ」


 「まってるで(^^)」




 (^^)


 この記号の意味がわからない。カインに聞いたら「笑顔を表す記号です」と言っていた。文字で笑顔を。馬鹿げている。荘厳さの欠片もない。


 ——だが。


 この手紙には——。




 手紙を畳んだ。封筒に戻した。引き出しにしまった。鍵をかけた。




 扉を開けた。大司教の一日が始まる。


 廊下を歩いた。侍従が頭を下げた。司祭が頭を下げた。誰も私の目を見ない。誰も私に「おはよう」とは言わない。


 ——言う必要がない。大司教に挨拶は不要だ。頭を下げればいい。




 歩いた。




 教義の通りに。秩序の通りに。正しく。正しく。


 ——引き出しの中に、ひらがなの手紙がある。


 捨てていない。


 今日も——捨てなかった。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第71話「グレイヴスの夜」。初のグレイヴスPOV。これまでよしこやレオンの目を通してしか見えなかった「大司教」の、内側の話です。


質素な部屋。パンと水。味がしない食事。壁に並ぶ47名の勇者の記録。帰還欄は全て空欄——グレイヴスの世界は、色も温度もない場所でした。


彼は悪人ではありません。孤児院出身で、自分も勇者候補だった。選ばれなかった側の人間が、選ぶ側に回って、30年間子どもたちを送り出し続けた。「これが正しい」と信じなければ、自分の58年が崩壊するから。だから「秩序」という言葉で、全てを覆ってきた。


でも、よしこの手紙は「ごはんたべにおいで」です。外交儀礼もなく、格式もなく、ひらがなで「まってるで」。グレイヴスの58年間の鎧を、この5文字が静かに溶かしている。捨てればいいのに——捨てられない。鍵をかけて引き出しにしまって、翌朝また開けてしまう。


「子どもたちを送り出すことは——」の後に続く言葉が出てこなかったシーン。30年間言い続けてきた「必要な犠牲」が、もう口から出ない。鎧のひびは——もう、隠しきれません。


次回、第72話「聖剣の声」。レオンの聖剣が目覚めます。


☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ