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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第60話: 先代魔王の遺書

◆ヴェルザ視点




 手記の最後のページが——解読された。


 カインとの外交会談が済み、メルとリーゼ殿が書庫に籠もってから五日。古代魔族語の崩し字を一文字ずつ照合し、文脈から意味を推測し、玉座の銘文の拓本と比較し——最後のページだけは、ほぼ完全に読めた。


 最後のページだけ——筆跡が違った。


 手記全体を通して一定だった筆圧が、最後のページだけ弱くなっている。文字が小さい。震えている。インクの染みが多い。


 リーゼ殿が言った——「この人は、最後のページを書いた時——弱っていた」。




 メルが——解読文をわたくしに渡した。




「ヴェルザ殿。先にお読みになってください。——魔王様にお伝えするのは、ヴェルザ殿がよろしいかと」


「……なぜ、私が」


「300年仕えた方の最後の言葉を——部外者が読み上げるのは、筋が違いますわ」




 メルの紫の目が——真っ直ぐだった。慇懃さが消えている。




 受け取った。


 メルの字で書かれた解読文。先代魔王ナハトレーゲンの——最後の言葉。




 読んだ。








 城に花を植えたかった。


 種を買いに行く場所がわからなかったので、やめた。




 誰かと朝食を食べたかった。


 だが——朝食を作る方法を知らなかった。作ってほしいと頼む方法も知らなかった。




 足音がほしかった。


 城が静かすぎる。自分の足音だけが鳴る。他の誰かの足音が混ざれば、少しだけ夜が短くなる気がした。




 おはよう、と言ってほしかった。


 おやすみ、と言ってほしかった。


 誰かに。誰でもいい。




 夜が——長い。








 紙を——持つ手が震えた。




 花を植えたかった。


 先代は——花を植えたかったのだ。あの灰色の城に。あの暗い広間に。色が欲しかった。


 だが——種を買いに行く場所がわからない。




 先代は魔王だ。命じれば何でも手に入った。部下は何千といた。「花を持ってこい」と一言言えばよかった。


 ——言えなかったのだ。


 「花がほしい」と。




 朝食を食べたかった。


 先代はいつも一人で食事をしていた。玉座の間に置かれた膳を、一人で。


 誰が運んでいたのだろう。使用人だろう。顔を知っている者がいたのだろうか。


 「一緒に食べよう」と——言えなかったのだ。




 おはよう、と言ってほしかった。


 おやすみ、と言ってほしかった。




 ——私は。


 300年間。


 先代に——「おはようございます」と言ったことが、あっただろうか。




 報告は——「ヴェルザ、参りました」から始まっていた。


 退出は——「失礼いたします」で終わっていた。


 「おはよう」も「おやすみ」も——言わなかった。


 先代は——「勝手にしろ」と言うだけだった。


 わたくしは——勝手に帰った。




 300年。


 毎月の報告。面会の度に。


 「おはようございます」と一言——言えば良かっただけの話だ。




「…………」




 紙を——テーブルに置いた。


 目を閉じた。








 よしこ様の部屋を訪ねた。


 夕方。よしこ様は——中庭の花壇に水をやって戻ったところだった。エプロンに土がついている。




「ヴェルちゃん。どうしたん?」


「……ヴェルザでございます。——魔王様。先代の手記の、最後のページが解読されました」


「…………」




 よしこ様の深紅の目が——静かにこちらを見た。




「お伝えしたいことがあります」


「うん。聞くわ(^^)」


「座っていただけますか」


「……うん」




 よしこ様が椅子に座った。わたくしも——向かいに座った。


 テーブルの上に、中庭で摘んだ花が一輪。ピプが持ってきたものだろう。




「先代魔王の手記の——最後のページは、遺書でした」


「遺書……」


「死の直前に書かれたものと思われます。筆跡が弱くなっており——リーゼ殿の分析で確認されました」




 よしこ様が——黙った。




「先代は——こう書いておられました」




 声が——震えた。自分の声が。軍人の口調を保とうとしたが——無理だった。




「『城に花を植えたかった』」




 よしこ様が——花壇の方を見た。窓の外。中庭の花壇が見える。赤と白と青の花。




「『誰かと朝食を食べたかった』」




 よしこ様の手が——膝の上で、ぎゅっと握られた。




「『おはようと言ってほしかった。おやすみと言ってほしかった。——誰かに。誰でもいい』」




 声が止まった。


 続きが——出てこなかった。




 よしこ様が——黙っている。深紅の目が——潤んでいる。




「先代は——300年間、一人でこの城にいました。恐怖で統治し、誰も近づけなかった。ですが——本当は」




 言った。


 言わなければならなかった。




「本当は——花がほしかった。ごはんを誰かと食べたかった。おはようと言ってほしかった。——ただ、それだけだったのです」




 よしこ様が——目を閉じた。


 涙が——頬を伝った。




「…………」




 静かだった。


 先代の時代と同じくらい——静かだった。だが、この静けさは違う。二人の呼吸が聞こえる。窓の外でピプが飛んでいる羽音がかすかに聞こえる。食堂の方から、ガルドがパンを焼く匂いが届いている。


 先代が欲しかった音と匂いが——全部、この城にある。




「……ヴェルちゃん」


「……はい」




 名前を訂正する気力がなかった。




「……会いたかったなぁ」




 よしこ様が——目を開けた。涙が溢れている。深紅の目が——赤く滲んでいる。




「先代に。会いたかったなぁ。お茶淹れてあげたかった(^^)」




 笑っている。泣いているのに。涙を流しながら——笑っている。




「花もな、一緒に植えたった。中庭の花壇、一緒にやったら楽しいのに(^^)」


「…………」


「朝ごはんも作ったった。おにぎりと、お味噌汁と——。ほんで、毎朝おはようって言うた。毎晩おやすみって言うた。それだけで——ちょっとは楽やったやろに」




 よしこ様が——エプロンの裾で目を拭いた。




「300年。誰もおはようって言うてもらえへんかったんやな」




 声が震えた。




「……しんどかったやろなぁ」




 ——私は。


 言葉が出なかった。




 300年仕えて——「おはよう」を言わなかったのは、私だ。


 花を植えることを提案しなかったのは、私だ。


 朝食を一緒にどうですかと——言わなかったのは、私だ。




 先代は「勝手にしろ」と言った。


 だが——「おはよう」と言ってほしかった。


 私は——「おはよう」すら言わなかった。




「……魔王様」


「ん?」


「……申し訳……ございません」




 声が——かすれた。




「先代に。おはようと——申し上げるべきでした。300年間——一度も。私は——」




 言えなかった。続きが。


 目が——熱い。茶の湯気のせいではない。




 よしこ様が——立ち上がった。テーブルを回って——わたくしの隣に来た。




「ヴェルちゃん」




 頭に——手が置かれた。


 温かい手。土の匂いがする。花壇の土。




「先代も——ヴェルちゃんが来てくれるの、嬉しかったと思うで(^^)」


「…………」


「毎月来てくれたんやろ? 報告しに。それだけで——足音が一つ増えるやん。先代、足音がほしかったんやろ? ヴェルちゃんの足音——聞いてたと思うで」




 ——。




「気づかんかったんは、しょうがない。先代も言えへんかったんやから。お互いさまや(^^)」




 お互いさま。




「でもな。今は——言えるやろ?」




 よしこ様が——微笑んだ。涙の跡が頬に残っている。




「先代の分も。明日から——みんなにおはようって、言ったろ(^^)」




 頭の上の手が——温かかった。




「……かしこまり……ました」




 声にならなかった。半分くらい。


 泣いていた。泣いていないと言い張る気力もなかった。




 ——先代。


 申し訳ございません。


 そして——おやすみなさい。


 300年遅れの——おやすみなさい。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第60話「先代魔王の遺書」。このアークで最も書きたかった話です。


「城に花を植えたかった」——先代魔王ナハトレーゲンの遺書は、驚くほどささやかな願いでした。花。朝食。おはよう。おやすみ。世界征服でもなく、永遠の命でもなく——ただ「誰かといたかった」。恐怖の魔王が300年間書き続けた日記の最後に残した言葉が、これです。


ヴェルザの後悔が一番深い話でもあります。「おはようと言えばよかった」。300年間、月に一度来ていた。報告して、帰った。「おはよう」の一言を添えなかった。先代は「勝手にしろ」と言っていた。ヴェルザは「構うな」と受け取った。でも本当は——「来てくれ」と言えなかっただけ。二人とも不器用だった。


よしこの「お互いさまや」が、ヴェルザを救う一言です。気づかなかったのはしょうがない。言えなかったのはお互いさま。でも——今は言える。先代の分も。明日から。


中庭の花壇に、花が咲いています。先代が植えたかった花。よしこが植えた花。——先代の願いは、300年遅れて叶いました。


次回、第61話「和平の壁」。カインとシオンが、それぞれの正義を問い直します。


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