第60話: 先代魔王の遺書
◆ヴェルザ視点
手記の最後のページが——解読された。
カインとの外交会談が済み、メルとリーゼ殿が書庫に籠もってから五日。古代魔族語の崩し字を一文字ずつ照合し、文脈から意味を推測し、玉座の銘文の拓本と比較し——最後のページだけは、ほぼ完全に読めた。
最後のページだけ——筆跡が違った。
手記全体を通して一定だった筆圧が、最後のページだけ弱くなっている。文字が小さい。震えている。インクの染みが多い。
リーゼ殿が言った——「この人は、最後のページを書いた時——弱っていた」。
メルが——解読文をわたくしに渡した。
「ヴェルザ殿。先にお読みになってください。——魔王様にお伝えするのは、ヴェルザ殿がよろしいかと」
「……なぜ、私が」
「300年仕えた方の最後の言葉を——部外者が読み上げるのは、筋が違いますわ」
メルの紫の目が——真っ直ぐだった。慇懃さが消えている。
受け取った。
メルの字で書かれた解読文。先代魔王ナハトレーゲンの——最後の言葉。
読んだ。
城に花を植えたかった。
種を買いに行く場所がわからなかったので、やめた。
誰かと朝食を食べたかった。
だが——朝食を作る方法を知らなかった。作ってほしいと頼む方法も知らなかった。
足音がほしかった。
城が静かすぎる。自分の足音だけが鳴る。他の誰かの足音が混ざれば、少しだけ夜が短くなる気がした。
おはよう、と言ってほしかった。
おやすみ、と言ってほしかった。
誰かに。誰でもいい。
夜が——長い。
紙を——持つ手が震えた。
花を植えたかった。
先代は——花を植えたかったのだ。あの灰色の城に。あの暗い広間に。色が欲しかった。
だが——種を買いに行く場所がわからない。
先代は魔王だ。命じれば何でも手に入った。部下は何千といた。「花を持ってこい」と一言言えばよかった。
——言えなかったのだ。
「花がほしい」と。
朝食を食べたかった。
先代はいつも一人で食事をしていた。玉座の間に置かれた膳を、一人で。
誰が運んでいたのだろう。使用人だろう。顔を知っている者がいたのだろうか。
「一緒に食べよう」と——言えなかったのだ。
おはよう、と言ってほしかった。
おやすみ、と言ってほしかった。
——私は。
300年間。
先代に——「おはようございます」と言ったことが、あっただろうか。
報告は——「ヴェルザ、参りました」から始まっていた。
退出は——「失礼いたします」で終わっていた。
「おはよう」も「おやすみ」も——言わなかった。
先代は——「勝手にしろ」と言うだけだった。
わたくしは——勝手に帰った。
300年。
毎月の報告。面会の度に。
「おはようございます」と一言——言えば良かっただけの話だ。
「…………」
紙を——テーブルに置いた。
目を閉じた。
よしこ様の部屋を訪ねた。
夕方。よしこ様は——中庭の花壇に水をやって戻ったところだった。エプロンに土がついている。
「ヴェルちゃん。どうしたん?」
「……ヴェルザでございます。——魔王様。先代の手記の、最後のページが解読されました」
「…………」
よしこ様の深紅の目が——静かにこちらを見た。
「お伝えしたいことがあります」
「うん。聞くわ(^^)」
「座っていただけますか」
「……うん」
よしこ様が椅子に座った。わたくしも——向かいに座った。
テーブルの上に、中庭で摘んだ花が一輪。ピプが持ってきたものだろう。
「先代魔王の手記の——最後のページは、遺書でした」
「遺書……」
「死の直前に書かれたものと思われます。筆跡が弱くなっており——リーゼ殿の分析で確認されました」
よしこ様が——黙った。
「先代は——こう書いておられました」
声が——震えた。自分の声が。軍人の口調を保とうとしたが——無理だった。
「『城に花を植えたかった』」
よしこ様が——花壇の方を見た。窓の外。中庭の花壇が見える。赤と白と青の花。
「『誰かと朝食を食べたかった』」
よしこ様の手が——膝の上で、ぎゅっと握られた。
「『おはようと言ってほしかった。おやすみと言ってほしかった。——誰かに。誰でもいい』」
声が止まった。
続きが——出てこなかった。
よしこ様が——黙っている。深紅の目が——潤んでいる。
「先代は——300年間、一人でこの城にいました。恐怖で統治し、誰も近づけなかった。ですが——本当は」
言った。
言わなければならなかった。
「本当は——花がほしかった。ごはんを誰かと食べたかった。おはようと言ってほしかった。——ただ、それだけだったのです」
よしこ様が——目を閉じた。
涙が——頬を伝った。
「…………」
静かだった。
先代の時代と同じくらい——静かだった。だが、この静けさは違う。二人の呼吸が聞こえる。窓の外でピプが飛んでいる羽音がかすかに聞こえる。食堂の方から、ガルドがパンを焼く匂いが届いている。
先代が欲しかった音と匂いが——全部、この城にある。
「……ヴェルちゃん」
「……はい」
名前を訂正する気力がなかった。
「……会いたかったなぁ」
よしこ様が——目を開けた。涙が溢れている。深紅の目が——赤く滲んでいる。
「先代に。会いたかったなぁ。お茶淹れてあげたかった(^^)」
笑っている。泣いているのに。涙を流しながら——笑っている。
「花もな、一緒に植えたった。中庭の花壇、一緒にやったら楽しいのに(^^)」
「…………」
「朝ごはんも作ったった。おにぎりと、お味噌汁と——。ほんで、毎朝おはようって言うた。毎晩おやすみって言うた。それだけで——ちょっとは楽やったやろに」
よしこ様が——エプロンの裾で目を拭いた。
「300年。誰もおはようって言うてもらえへんかったんやな」
声が震えた。
「……しんどかったやろなぁ」
——私は。
言葉が出なかった。
300年仕えて——「おはよう」を言わなかったのは、私だ。
花を植えることを提案しなかったのは、私だ。
朝食を一緒にどうですかと——言わなかったのは、私だ。
先代は「勝手にしろ」と言った。
だが——「おはよう」と言ってほしかった。
私は——「おはよう」すら言わなかった。
「……魔王様」
「ん?」
「……申し訳……ございません」
声が——かすれた。
「先代に。おはようと——申し上げるべきでした。300年間——一度も。私は——」
言えなかった。続きが。
目が——熱い。茶の湯気のせいではない。
よしこ様が——立ち上がった。テーブルを回って——わたくしの隣に来た。
「ヴェルちゃん」
頭に——手が置かれた。
温かい手。土の匂いがする。花壇の土。
「先代も——ヴェルちゃんが来てくれるの、嬉しかったと思うで(^^)」
「…………」
「毎月来てくれたんやろ? 報告しに。それだけで——足音が一つ増えるやん。先代、足音がほしかったんやろ? ヴェルちゃんの足音——聞いてたと思うで」
——。
「気づかんかったんは、しょうがない。先代も言えへんかったんやから。お互いさまや(^^)」
お互いさま。
「でもな。今は——言えるやろ?」
よしこ様が——微笑んだ。涙の跡が頬に残っている。
「先代の分も。明日から——みんなにおはようって、言ったろ(^^)」
頭の上の手が——温かかった。
「……かしこまり……ました」
声にならなかった。半分くらい。
泣いていた。泣いていないと言い張る気力もなかった。
——先代。
申し訳ございません。
そして——おやすみなさい。
300年遅れの——おやすみなさい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第60話「先代魔王の遺書」。このアークで最も書きたかった話です。
「城に花を植えたかった」——先代魔王ナハトレーゲンの遺書は、驚くほどささやかな願いでした。花。朝食。おはよう。おやすみ。世界征服でもなく、永遠の命でもなく——ただ「誰かといたかった」。恐怖の魔王が300年間書き続けた日記の最後に残した言葉が、これです。
ヴェルザの後悔が一番深い話でもあります。「おはようと言えばよかった」。300年間、月に一度来ていた。報告して、帰った。「おはよう」の一言を添えなかった。先代は「勝手にしろ」と言っていた。ヴェルザは「構うな」と受け取った。でも本当は——「来てくれ」と言えなかっただけ。二人とも不器用だった。
よしこの「お互いさまや」が、ヴェルザを救う一言です。気づかなかったのはしょうがない。言えなかったのはお互いさま。でも——今は言える。先代の分も。明日から。
中庭の花壇に、花が咲いています。先代が植えたかった花。よしこが植えた花。——先代の願いは、300年遅れて叶いました。
次回、第61話「和平の壁」。カインとシオンが、それぞれの正義を問い直します。
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