第40話: 大司教の影
◆グレイヴス視点
大聖堂は冷たい。
いつも、そうだ。石の壁、石の床、石の天井。光は高窓から差し込むが、暖かさはない。
光は見せるためにある。温めるためではない。
私は演壇に立ち、並ぶ枢機卿たちを見下ろしている。
十二名。聖教会の最高意思決定機関。白と金の祭服に身を包んだ老人たち。顔ぶれはここ二十年変わっていない。
変わる必要がないからだ。
「——報告する」
声が反響した。大聖堂の天井は高い。声が跳ね返り、重なり、荘厳に聞こえるよう設計されている。
私の声もまた、この石の箱に磨かれてきた。
「第二勇者パーティは、派遣から二十日が経過した。帰還の報告はない」
沈黙。
「予定では、十日で魔王城に到達し、討伐を完了し、十五日以内に帰還するはずであった」
枢機卿の一人が口を開いた。白い髭の奥から、しわがれた声。
「全滅か」
「その可能性は——否定できない」
否定できない、と言った。断定はしない。断定する根拠がないからだ。
だが——可能性としては、そちらの方が高い。先代勇者レオンと同じだ。魔王城に入った者は、帰ってこない。
「大司教。第三の手は」
「……準備はしている」
準備はしている。そう言いながら——胸の奥が軋む。
三度目だ。三度目の子どもを送り出す準備。
「シオンは最高評価の聖騎士だった。聖剣適性、戦術理解、命令遂行能力。全て最上位。——それでも帰らなかったとなれば」
「魔王の力が、想定を上回っていたということですな」
「ああ」
想定を上回る。
魔王ヴォルグラーナ。
名前だけが記録に残る存在。先代魔王の後継。詳細は不明。交渉の余地なし。人類の脅威。
——それが、聖教会の公式見解だ。
公式見解は、事実とは限らない。
私はそれを知っている。
だが——知っていることと、認めることは違う。
◆グレイヴス視点
議場を出た。
回廊を歩く。足音が石の床に反響する。
窓の外には王都の街並みが広がっている。市場の喧騒が遠く聞こえる。秋の日差しが石畳を照らしている。
私には届かない光だ。
大聖堂の回廊は常に影の中にある。設計者の意図だ。聖職者は日向に立つ必要はない。光を管理する側にいればいい。
「——大司教」
副官のフェルトが追いついてきた。細身の若い男。有能だが、感情を読ませない訓練がまだ甘い。今——目に迷いがある。
「何か」
「騎士団副長カイン殿が到着されました。議場にお通ししますか」
「……ここでいい。回廊で会う」
「はい」
フェルトが一礼して去った。
カイン。王国騎士団副長。
先の調査隊の指揮官。魔王城を訪問し、帰還した数少ない人間の一人。
彼の報告書は読んだ。
正確で、冷静で、事実に基づいた報告書だった。
——だからこそ、厄介なのだ。
報告書にはこう書かれていた。
「魔王ヴォルグラーナは調査隊を攻撃しなかった。食事を提供し、客室を用意し、翌朝に解放した」
「勇者パーティ三名は生存している。外傷なし。栄養状態良好。精神的に安定していると判断する」
「洗脳の兆候は確認できなかった」
最後の一文が——最も危険だった。
洗脳ではない。
それでは——何だ。
子どもたちが、自分の意志で魔王城にいる。
そんなことが、あるはずがない。あってはならない。
聖教会の教えでは、魔王は人類の敵だ。勇者は魔王を倒すために選ばれる。それが世界の秩序だ。
その秩序が——揺らぐ。
揺らいでは、ならない。
靴音が聞こえた。
回廊の奥から、一人の男が歩いてくる。
◆カイン視点
回廊は暗かった。
大聖堂の回廊は、何度来ても慣れない。騎士団の訓練場は日当たりがいい。王城の廊下にも窓がある。
ここには——影しかない。
石の壁に、聖人の像が並んでいる。全員が同じ顔をしている。苦痛に耐える顔。それが聖なる表情だと教わった。
——魔王城の廊下には、花壇があった。
ふと、思い出した。
あの城の門の脇に咲いていたマリーゴールド。よしこ殿が「殺風景やなぁ」と言って植えたやつだ。
ここには——花がない。
「カイン副長」
声が落ちてきた。
上から。冷たく。荘厳に。
見上げた。
大司教グレイヴス。
白髪交じりの灰色の髪。鉄色の目。長身だが——痩せている。この人はいつ見ても痩せている。
聖教会のトップ。聖職者の頂点。
58歳。
よしこ殿より——四つ下だ。
なぜ、そんなことを思い出したのか。自分でもわからない。
「報告します。騎士団副長カイン、大司教のお召しにより参上いたしました」
「楽にしろ」
楽にしろ、と言われても楽になれない。この人の前では、誰もが背筋を伸ばす。
「カイン。お前は魔王城に入った」
「はい」
「報告書は読んだ。——事実のみを記したと、そう受け取ってよいか」
「はい。事実のみを記しました」
「では、改めて問う」
グレイヴスが一歩近づいた。鉄色の目が、私を見ている。
冷たい目だ。だが——冷たいだけではない。
何かを探している。何かを確認しようとしている。
「魔王ヴォルグラーナは——脅威か」
一瞬、迷った。
脅威とは何を指すのか。
軍事的な脅威か。政治的な脅威か。それとも——聖教会の秩序にとっての脅威か。
「……事実のみを申し上げます」
「構わない」
「魔王ヴォルグラーナは、調査隊を攻撃しませんでした。武装解除の要求もありませんでした。食事を提供し、宿泊を許可し、翌朝には自由に帰還させました」
「…………」
「勇者パーティ三名——レオン、リーゼ、ガルドは生存しています。いずれも健康で、外傷はなく、精神的に安定している状態でした」
「洗脳の可能性は」
「確認できませんでした。行動に不自然な点はなく、自発的に魔王城に滞在していると判断しました」
グレイヴスの目が細くなった。
「自発的に」
「はい」
「子どもが——自発的に、魔王の城に留まっている。そう報告するのか」
「事実です」
沈黙が落ちた。
回廊に秋の風が吹き込んだ。冷たい。大聖堂の石壁は風を吸い込んで、さらに冷たくする。
「……カイン」
「はい」
「お前は何を見た」
問いが変わった。
「事実」ではなく——「何を見た」。
私は、迷った。
何を見たか。
魔王城で。あの場所で。
——食堂を見た。
大きなテーブルに、人間と魔族が並んで座っていた。温かいシチューが湯気を上げていた。パンの匂いがした。
17歳の少年が不機嫌な顔で飯を食い、16歳の少女が静かにお茶を飲み、18歳の少年がエプロンをしてパンを焼いていた。
魔王が——しゃがんで、子どもと目線を合わせていた。
それを、どう報告すればいい。
「魔王がシチューを出しました」と。
「エプロンをした魔王が、子どもに『ごはん食べた?』と聞きました」と。
報告書には書けなかった。書いても信じてもらえない。
「——食卓を、見ました」
「食卓?」
「魔王城の食堂です。人間の勇者と魔族の四天王が、同じ食卓で食事をしていました」
グレイヴスの表情が——動かない。
鉄の目が、何かを押し殺している。
「以上が、自分が見たものです」
「…………」
大司教は背を向けた。
窓に歩み寄った。高窓から差し込む光が、灰色の髪を照らしている。
長い沈黙。
◆グレイヴス視点
食卓。
カインの言葉が耳に残っている。
人間と魔族が同じ食卓で食事をしていた。
——馬鹿げている。ありえない。秩序に反する。
秩序に反する。
だから——排除しなければならない。
そのはずだ。
そうでなければ——
窓の外を見た。
王都の街並み。市場。人々が行き交っている。子どもの声が聞こえる。
子ども。
——私も、子どもだった。
孤児院の食堂を思い出す。石の壁。石の床。冷たいパンと、ぬるいスープ。
窓がなかった。光がなかった。
隣に座る子どもの名前を、もう覚えていない。
「グレイヴス、お前には才能がある」
神官がそう言った。十歳の時だ。
「勇者候補だ。聖剣に選ばれるかもしれない」
選ばれなかった。
聖剣は、別の子どもの手に光った。名前も知らない少年の手に。
その少年は魔王城に送り出された。帰ってこなかった。
選ばれなかった自分は——聖職者の道に進んだ。
勉強した。祈った。昇進した。枢機卿になった。大司教になった。
五十八年かけて、この場所にたどり着いた。
その間、何人の子どもを送り出しただろう。
何人が——帰ってこなかっただろう。
数えたことがない。数えてはいけないと思った。
数えたら——壊れる。
「大司教」
カインの声が背後から聞こえた。
「……何だ」
「自分は——事実のみを報告する立場にあります。判断は、上位者に委ねます」
「ああ。それでいい」
それでいい。
判断は私がする。それが大司教の役割だ。
秩序を守る。教会を守る。人類を守る。
——そのために。
「カイン」
「はい」
「お前の報告は受理する。魔王ヴォルグラーナは人類に対する脅威であり、討伐の方針に変更はない」
「…………」
「シオンたちが帰還しない以上、第三の手を打つ必要がある。枢機卿会議に諮る」
「了解しました」
カインの声に——揺れはなかった。
だが、沈黙が一拍、長かった。
軍人は言葉では逆らわない。
沈黙で抗う。
それを知っている。私もかつて——同じことをした。
「下がれ」
「はい」
靴音が遠ざかる。
回廊に一人、残された。
高窓の光が、石の床に四角い影を落としている。
光と影の境界線。
私はいつも——影の側にいる。
「…………」
食卓。
人間と魔族が——同じ食卓で。
……そのようなことは。
あるはずがない。あってはならない。
そう——信じなければ。
信じなければ、私の五十八年が。送り出した子どもたちが。帰ってこなかった少年たちが。
全て——。
「…………」
目を閉じた。
鉄色の目蓋の裏に、何も見えない。
温かい色は——何も。
「秩序のために」
呟いた。
「——犠牲は、必要なのだ」
誰に言っているのか。
枢機卿たちに。カインに。聖教会に。
——自分に。
大聖堂の天井が高い。
声が反響する。
自分の声が、自分に返ってくる。
冷たい。
いつも、そうだ。
この大聖堂には温かいものが——何もない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第40話「大司教の影」。初めて食事シーンのない一話です。
この作品で食事シーンがないのは異例です。39話かけて毎話必ず「温かいごはん」があったのに、今話にはない。それがグレイヴスという人間の全てを語っていると思います。孤児院の冷たいパン。ぬるいスープ。温かい記憶がない人。
グレイヴスを「悪人」として書くつもりはありません。この人は痛みを知っています。選ばれなかった子どもだった。勇者候補から外れ、聖職者になり、五十八年かけて頂点に立った。その間、何人もの子どもを魔王城に送り出し、一人も帰ってこなかった。数えてはいけないと思っている。数えたら壊れるから。
「秩序のために。犠牲は、必要なのだ」。この言葉は、聖教会の教義ではなく、自分自身を保つための呪文です。信じなければ、自分の人生が崩壊する。
カインは事実だけを語りました。「食卓を見ました」と。人間と魔族が同じテーブルで食事をしていた、と。それだけのことが、グレイヴスの五十八年を揺らしている。
次回、第41話「ごはんの時間です」。場面は魔王城に戻ります。戦闘中によしこが「ごはんの時間やろ!」と叫びます。この作品らしい話に戻りますので、ご安心ください(^^)
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