第六章 終焉
大学の長い夏休みも残すところあと一週間になった頃、俺は再び水崎を訪れていた。
約一ヶ月ぶりに降り立った水崎は、陽射しも吹く風も柔らかく、もうどこか秋の雰囲気が漂っていた。
そう、俺は一ヶ月前に、瑞希と一緒にここへ来た。もうあれから一ヶ月も経つというのに、ここで過ごした数日間の出来事は、脳裏に焼きついて離れない。つい昨日か一昨日の出来事のように鮮明なものとして感じることができる。
俺は瑞希と初めて水崎にやってきた時と、同じ道を歩き始めた。この道を真っ直ぐ行くと、次第に「しまだ」の看板が見えてきて、その手前に水崎湖へと抜ける別れ道がある。まるで通いなれた道のように歩いていった。
プップッ
後方からクラクションが聞こえた。振り返るとパトカーが俺の後ろにくっついていた。別にやましいことは何もないが、パトカーに呼び止められると構えてしまうのが人という生き物である。少し警戒して車内を覗き込むと見知った顔があった。坂刑事である。
「よっ。電車の到着時刻を調べたら、鉢合うんじゃないかと思ってたよ」
そして坂刑事は、助手席のドアを開けて、「乗って」と合図をした。俺がパトカーに乗り込むと、車は発進した。
この坂刑事との再会は偶然ではない。今から一週間程前、俺が坂刑事に呼ばれたのだ。
事件の結末を知るために。
そしてパトカーは、俺と瑞希がお世話になった「しまだ」を通り過ぎ、またしばらく走った後、ある場所で停まった。
そこは「うらら」であった。パトカーから降りて、「うらら」の建物を見た時、俺は驚いた。俺が初めて来た時の「うらら」は少し古びてはいたが、綺麗に手入れをされており、人の「温かさ」を感じることができた。しかしあれから一ヶ月。「うらら」には全く温かさは感じられず、まるで何年も前から放置されている幽霊屋敷のようになっていた。
坂刑事は俺を先導し、規制線のテープをくぐって「うらら」の中へと入っていった。
「そうか、瑞希さん退院したのか」
あの事件の後、瑞希は両親の手続きにより地元の病院へ転院した。その後経過は良好で先日無事退院した。大学の後期授業に間に合うことができた。しかし事件に対するショックはまだまだ大きく、今回の水崎行きも瑞希は来ることができなかった。
この事件の終焉を、瑞希と一緒に迎えたかったが、こればっかりはどうしようもない。
俺は坂刑事の後をついていった。玄関から、飯橋が殺された居間を抜けて、あるドアの向こうへ続く廊下へと入った。そこはペンションである「うらら」の中で、唯一内装が整備されていない、「客間」ではない空間。世話人の居室である。
俺たちはその中の「ある部屋」へと足を踏み入れた。
そこは一ヶ月前、俺たちが一連の殺人事件の犯人たちと対峙した部屋であった。
部屋はフローリング敷で、ソファやテレビ、本棚が置かれている、世話人が日頃の疲れを癒す私室である。その部屋の一番奥、窓の所に目をやると、そこの床にはドス黒いシミが残っていた。
そのドス黒いシミを見ると、とても居た堪れない気持ちになった。
あの哀しい親子を思い出すからである……。
あの後、蓮君は病院へと運ばれ、懸命な治療により奇跡的に一命は取り止めた。しかし傷はかなり深いものであり、現在も入院中である。
俺はここへ来た最大の目的である、退院後の蓮君の処遇や加奈美さんのその後について坂刑事に訊ねてみた。すると坂刑事は複雑な表情で話し始めた。
まず蓮君の犯した罪であるが、蓮君が十歳の児童であること、そしてかなり特異な成育歴であることから、責任能力なしということになるそうである。しかししばらくは施設の方で過ごすことになりそうだということである。
そして加奈美さんの方であるが、蓮君の無事が確認された後、警察へ連行。殺人と殺人未遂の容疑で逮捕されることとなった。坂刑事の話によると、取調べには素直に応じているとのことである。
しかし、壮絶な仕打ちを受けた過去による情状酌量はあるにせよ、四人もの人間を殺害しているため、重い刑は覚悟しなければならないとのことである。
ちなみに桂城一族であるが、事件後マスコミによって一族の非道な所業が報道され、社会的地位は完全に地に堕ちてしまった。俺たちを恫喝しに来た博壱は、議員になるため活動していたそうだが、この目論見も完全に消えてなくなった。
「ぼくは、おかあさんが、だいすき。だから、おかあさんをころせない」
「ぼくは、おかあさんのいうことがきけない、わるいこ」
「ぼくは、おかあさんをこまらせるひと、いうことをきけないひとを、ころしてきた」
「だからぼくは、ぼくをころす」
あの時、俺は初めて蓮君の声を聞いた。今まで人を殺めてきたとは思えないくらい、澄んだ声をしていた。母の命令を絶対として育てられてきた十歳の少年。周りからみれば異常な親子関係であったであろう。しかし蓮君にとっては、それが全てであり、その中で母との繋がりを感じていたのだ。
そんな蓮君が、初めて母の命令に背いた。愛する母を守るため初めて背いた結果は、母にとって何よりも残酷な結果となってしまった。
今加奈美さんは何を考えているのだろうか。復讐への達成感か、それとも……。
愛する息子。自分を大好きだと言ってくれた息子への想いか。
「いつかまた、会えますよね」
このままずっと離れ離れなんて、そんなの哀しすぎる。できることなら、あの二人をもう一度スタートラインに立たせてあげたい。
「ああ、会えるだろう。どれだけ時間が経っても、お互いの命と希望がある限り、必ず会える」
坂刑事は笑顔でそう応えてくれた。加奈美さんは取調べで、連日涙を流し、反省の弁を口にしているようである。それは何より蓮君に対してである。加奈美さんは重い刑を覚悟しなければならない。しかし情状酌量により、死刑は何とか免れそうとのことであった。例え何十年も懲役をすることになっても、お互いが望むならば、必ずまた会える。そして再び親子として再出発できる。
あの親子に、本当の幸せがくることを、俺は願った。
「そろそろ行こうか」
坂刑事が俺にそう促した。気付けばこの部屋に入ってからもうすぐ一時間だ。
俺は踵を返し、扉の方へ向き直った。目の前には坂刑事がいた。
「加奈美さんは、本当に鬼だったんですかね?」
俺の妙な問いかけに、坂刑事は苦笑いをした。「何を言ってんだ?」という感じだ。
「俺は違うと思う。加奈美さんは鬼じゃない。ごく普通の人間なんだ」
加奈美さんは「鬼の一族」と言われた桂城家出身。でも、加奈美さんは違う。あの人は鬼なんかじゃない。
「被ってしまったんだよ。鬼の面を」
坂刑事が静かにそう応えた。
「それはとても愚かな過ちだったのかもしれない。しかし、田原加奈美はそうしなければ自らを保つことができなかった。全く哀しいよ」
坂刑事はそう言い残し、扉を開けて部屋を後にした。
そして俺も後に続いた。
加奈美さんはどこにでもいるごく普通の人で、ごくありふれた幸せを望んだ。
そんな人が鬼の仮面を被り、今回の連続殺人事件を実行した。加奈美さんはその仮面が放つ魔力に屈し、被ってしまった。決して自ら望んで被ったわけではない。
そんな鬼の仮面は、誰もが持っているのだろうか?
俺はそんな事を考えていた。
最後にもう一度、加奈美さんと蓮君の再出発が、いつか訪れることを心から願い、俺は部屋を出て、そして扉を閉めた。
完