15.佐伯幸太郎
佐伯は事務室の一角に折り畳みテーブルを広げ、その両脇に自分の椅子と原田の椅子を配置した。テーブルの上をクロスでさっと吹いた後、数種類のお茶請けを適当に置く。佐伯は来客のある時はいつも、このいたって簡易的でみすぼらしい応接セットで迎えた。そして「手狭なところで大変恐縮ですが、」と言う挨拶と、冷えたミニペットボトルのお茶を出すことを忘れなかった。
九月も後半に差し掛かり塾外からの来客が増えた。多くは私立高校の先生達で、みな春先の世間話の延長のような訪問とは全く違った質の空気をまとっていた。半年前の、小さな塾の若造を相手に余裕綽々、といった雰囲気はまるでなくなっていた。一日に二組やってくることもあって、お菓子の買い置きや、ペットボトルのストックには普段以上に気を使わなければならなかった。冷蔵庫の中でペットボトルが冷えていることを確認すると、佐伯はPCの画面を閉じて今日の来客を待った。
末永遥斗の母親は白いブラウスにネイビーのカーディガンを羽織り、白いスカートとベージュのパンプスという格好で現れた。佐伯は深めにお辞儀をして事務室に迎え入れ、椅子へ座るように促した。遥斗の母親はカーディガンを脱いで簡単に畳み、膝の上に置いて椅子に浅く腰かけた。佐伯は冷蔵庫からお茶を取り出すと「手狭なところで大変恐縮ですが、こちらをどうぞ。」とテーブルの上に差し出した。遥斗の母親は「いえいえ、お気遣いなく。」と言って受け取ろうとしなかった。佐伯は「失礼します。」と断りを入れてから自分も椅子に座り、背筋を伸ばして正対した。
「本日はわざわざ御足労いただきありがとうございます。」
佐伯は改めて遥斗の母親の顔を見た。口紅が濃くてやたらその赤い色が目立った。来た瞬間から鼻をついた匂いの正体は、どうやら目の前の彼女で間違いなさそうだった。遥斗の母親は貼り付けたような微笑みで、軽く会釈をしてから顔を上げた。
「本日はmすこ」母親は自分の頬を叩いて改めて言い直した。
「本日は、息子の遥斗のことで伺いました。」
「まぁまぁ、そんな気構えずにいったん落ち着きましょう。ささ、こちらを。」
佐伯はテーブルのお茶を数cm動かした。
遥斗の母親はお茶を手に取って蓋を開け、一口飲んでから息を吐き椅子にかけなおした。
「そうですね。やだわたしったら、ちょっと力みすぎちゃったみたい。」
遥斗の母親は少し表情が柔らかくなった。
「それで、遥斗君のことというのは……」
「はい、先生。正直におっしゃってください。――遥斗の成績についてどう思ってらっしゃるのか。」
膝に真っ直ぐ手をついて少し前のめりになって佐伯の返事を催促している。
「遥斗君は、……これからだと思います。」
佐伯は少し顔を反らせて正直に答えた。
「先生。わたし遥斗にはね、何度も志望校は決まったのかって聞いてきたんですけど、あの子はいつも、あーとかうーとか言って全然答えてくれないんです。それでわたし、こないだ届いた模試の結果を見たんです。そしたら志望校が東高校で、合格判定がDってびっくりしちゃって。」
痛いところを突かれた。確かに今の遥斗の成績では合格ラインまで40点、とてもあと少しで合格とは言えないレベルだった。
「それで帰ってきた本人に直接聞いたらうんともすんとも言わないで、挙句の果てには『いいだろ別に!』ってドアを思いっきり閉めちゃって。もうわたし悲しくて悲しくて涙があふれて。」
遥斗の母親はそこまで言うと目尻を拭った。あるいは本当に涙が出ていたのかもしれない。
「末永さん、不安なのはよくわかります。ゆっくり呼吸をしましょう。」
佐伯がそう言うと、母親は鼻を大きくさせてうなずいた。佐伯は手元のファイルを開いて、母親が読めるように反対向きに置いた。
「これが、遥斗君の四月からの成績です。」
佐伯はプリントアウトした成績を指し示した。四月の模試、五月の中間テスト、六月の模試。目も当てられないようなひどい成績が並んでいた。母親は見たくもないという顔をしていた。佐伯はファイルをめくる。七月の期末テスト、七月の模試、九月の模試。
「お母さま、この三つのテストで何か気づきませんか?」
佐伯は母親とプリントを交互に見て尋ねた。
「……何も変わってないようですが。」
「よく見てください。七月の期末テストから、点数が上がってるんです。」
佐伯はページを前後させてもう一度よく見せた。
「……順位は何も変わってないですけど。偏差値もほとんど変わってないですし。」
母親は眉をひそめて渋い表情のままだ。
「末永さん。三年生というのは周りの生徒たちも本格的に勉強を始めて伸び始める時期なんです。だから、遥斗君の点数が上がっても順位は相対的に上がらない。でも、点数は取れるようになってきてるんです。」
佐伯の言っていることは詭弁に近かった。遥斗が伸びても周りがそれ以上伸びれば、遥斗はいつまで経っても埋もれたままだ。しかしそれでも佐伯には確信があった。――遥斗はこれから伸びる。
「末永さん。これだけは言わせてください。遥斗君は確実に力をつけています。結果が出始めるのはもう少し時間がかかるかもしれませんが、必ずよくなります。」
佐伯は誠心誠意そう伝えた。
「……おっしゃることはよくわかりました。
聞き方を変えましょう。単刀直入にお願いします。遥斗は東高校に受かるんですか?」
母親は佐伯の口から具体的な言葉を引き出そうとしている。
「……もし一週間後に入試があるなら、正直に申し上げて可能性は限りなく薄いと思います。しかし、本番まではあと五か月もあります。五か月後なら、合格も十分あり得ると思っています。」
佐伯も遥斗がどうして東高校を選んだのかはわからない。それでも、初めて示した遥斗の意思や主体性のようなものは大切にしたいと思っていた。
「わたしも遥斗に言ったんです。東高校じゃなくても、南高校や西工高でもいいんじゃない? って。そしたら南にも西にも行きたくないって言うんです、あの子。」
母親の言うことは至極まともな意見だった。東高が難しいなら、その二校を選ぶというのは現実的な選択肢ではある。佐伯も去年までの教え子にそういう選択を薦めたこともあった。
「末永さん。まだ時間はありますから。ここは本人の意思を尊重してですね、見守ると言いますか、外から何かを言ってやる気を折らないようにと言いますか……」
佐伯は母親を刺激しないように慎重に言葉を選んだ。見えない地中で根を張り、地上に見え始めようとしている芽を摘んではならない。
「そうはおっしゃっても、うちには私立に通わせるほどの余裕はありませんし……
こちらの塾に通わせて、半年ですか? 点数が取れたって順位が上がらない、ではねぇ……」
母親はそう言って続きを濁した。
「今の遥斗君はバネが縮んだ状態なだけです。準備は着々と進んでいます。」
佐伯はしぶとく食い下がった。母親は右手で自分の髪の毛をくるくると弄んでいる。
「……実は、主人とも話して――まぁあの人は遥斗には何にも言ってくれないんですけど――別の塾に変えようかとも考えていまして。」
佐伯の想定していた中でも最悪の言葉が耳を襲った。足元に積み上げてきたはずの土台が、ダルマ落としのように一瞬でなくなってしまった感覚に飲み込まれる。そんな佐伯をよそに、遥斗の母親は鞄から何かのパンフレットを取り出して机に並べた。駅前にあるK塾、個別指導のM塾、どちらも業界最大手の塾だった。
「主人も、変えるなら早い方がいいだろうって言ってるんで、それも含めて今日はお伺いしました。」
「……遥斗君は、遥斗君本人は何と言ってるんですか?」
佐伯は細く閉まった喉をかろうじて広げてそう聞いた。
「遥斗にはこれから話します。また後日連絡いたします。」
遥斗の母親は立ち上がってカーディガンを羽織った。佐伯も椅子に手をかけて身体を起こし、その後について出口まで見送った。事務室の折り畳みテーブルの上には飲みかけのお茶とパンフレットがそのまま残されていた。




