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11.山中瞳

 午前中の日射しが全身を焦がす。暴力とも呼べる暑さの中を、山中瞳は自転車を押して歩いていた。顔中から吹き出した汗は大きな雫となって落ち、アスファルトの上に瞳の痕跡を残した。背骨を伝って流れる大粒の汗は、その度に不気味な感触を残した。

 あともう少しで塾に到着するというところで、押していた自転車から変な音がして前にも後ろにも進まなくなってしまった。「最悪。」瞳はそう吐き捨てて自転車のスタンドを立て、自分は日陰を選んで壁に腰を下ろした。

 「どうしよう……」

 今日は家に誰もいない。自転車屋までは遠くて行けそうにない。瞳はスポーツバッグからタオルを取り出して顔の汗を拭いた。タオルを挟む形で頬杖をついた瞳は、動かなくなった自分の自転車を眺めた。スマホを手には取ってみたものの、この状況を打開する術が思いつかない。全く途方に暮れてしまった。


 「山中さん……?」

 瞳は聞こえるか聞こえないかの声がした方を見た。遥斗が自分の自転車を脇にして立っていた。救いの糸が差し伸べられたと思って立ち上がろうとした腰がまた落ちる。

 「遥斗君、どうしたの?」

 「山中さんが見えたから。……自転車どうしたの?」

 「わかんない。動かなくなっちゃった。」

 遥斗は自分の自転車を止めると、瞳の自転車を見始めた。ペダルを持ってみたり右や左からのぞき込んだり、物知り顔で検分している。

 「どう? わかる? 直りそう?」

 遥斗の側で様子を見ていた瞳が尋ねた。

 「……チェーンが外れてるみたいだね。中で絡んで動かなくなってるみたいだ。」

 遥斗はTシャツの袖で汗を拭った。

 「そう。じゃあいいよ。塾までもう少しだからさ。私、自転車はここに置いて歩いて行くよ。」

 瞳は諦めて立ち上がり、置いていたバッグを肩にかけた。

 「わざわざありがとうね。後でお母さんに言って自転車屋さんに持って行ってもら」

 「ちょっと待って。」

 瞳が言い終わるのを待たずに遥斗が言った。

 「塾に行くなら、山中さんは俺の自転車使って。この自転車は俺が塾まで押していくから。」

 (僕、じゃないんだ)とっさに些細なことが頭に浮かんだ。

 「え…… いいよいいよ。そんなことしなくて。」

 瞳が言うのも聞かずに遥斗は瞳の自転車の後輪を持ち上げて進み始めてしまった。

 「いいよ。悪いって。」

 瞳が追いかけながら言っても遥斗は聞かなかった。

 「大丈夫。塾までなら行けると思う。」

 瞳は遥斗の自転車まで戻ると、自転車を押して遥斗の後ろに並んで歩いた。


 セミの声が遠くに響き続ける中を、二人は無言のまま塾に到着した。遥斗が瞳の自転車を止め、瞳もそれに続いた。

 「ありがとうね。ちょっと待ってて。」

 瞳はそう言うと自動販売機でスポーツドリンクを選んでスマホをかざした。出てきたペットボトルを遥斗に差し出す。

 「はい、これ。」

 「……いや、別にいいよ。」

 遥斗は受け取ろうとしなかった。

 「いいから、はい。」

 「……」

 瞳は遥斗の自転車の前カゴにペットボトルを入れた。

 「じゃ、私は自習していくから。またね。」

 瞳はそう言うと入口の方へ歩き出した。遥斗は汗をかいたペットボトルをじっと見ていた。


 自動ドアを抜けると冷たい空気が瞳の全身を包んだ。生き返った心地がする。「こんにちはー。自習室借りまーす。」いつものように事務室の向こうに声をかけてから教室に向かうその足が止まった。……瞳は思い直して事務室の前まで戻った。空いていたドアから顔だけ出して中を伺う。佐伯先生は椅子にだらしなく座って動画を見ていた。

 「……先生。」

 瞳は小さな声を出した。

 「お、山中。自習か?」

 首だけこちらに向けた佐伯先生が応えた。

 「……やっぱりいいです。」

 瞳は首を振ってその場を離れた。いつもの教室のいつもの席に着いてから大きく息を吐き出す。バッグからタオルと制汗スプレーを取り出して汗を拭き、Tシャツの内側を満遍なくスプレーした。額にまとわりついた前髪を両手でかきわけていると、佐伯先生がひょっこり顔を出した。

 「山中。何かあったのか?」

 佐伯先生はドアの縁に手をかけて教室の中には入ってこなかった。

 「いや、別に。……自転車が壊れちゃって。」

 瞳は慎重にそう言った。

 「壊れた? ここまで歩いてきたのか?」

 「えっと、途中までは大丈夫だったんで、その、押して歩いてきました。」

 言葉を選んでそう答えた。

 「なるほどな。じゃあ帰りはどうすんだ? 送ってってやろうか?」

 「いえ平気です!」

 とっさに両手を横に振りながら断った。

 「お母さんに電話して迎えに来てもらいます。」

 瞳がそう言うと、「そっか。」と言い残して佐伯先生は行ってしまった。


 十二時半になったところで瞳は自習を切り上げて帰る準備を始めた。スマホを開いてみたが、やっぱり母親からの返信はなかった。ーー歩いて帰るか。瞳はタオルを首に巻いて教室を出た。

 「ありがとうございましたー。」

 事務室の向こうに声をかけて自動ドアを抜けようとした時、「山中!」と佐伯先生の声がした。瞳が振り返って続きを待っていると、事務室から顔を出した佐伯先生が「自転車、直ってるからな。」と顎で外の自転車を示した。

 「ありがとうございます!」

 嬉しさで飛び跳ねたい気持ちで先生を見ると、「感謝しとけよ。ーー遥斗に。」と告げた。

 「え?」

 思わず後ずさった瞳を、外の猛烈な暑さの空気が後ろから包み込んだ。瞳はどうしていいかわからないまま塾を後にした。

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