1.佐伯幸太郎
スマートフォンのアラームが鳴り、反射的に手を伸ばす。2034/03/17 Fri 11:00。佐伯は寝ぼけた目で画面を確認するとスヌーズを切った。同時に、『おはよう 幸太郎さん! 何かお手伝いできることはありますか?』スマートフォンに標準搭載された常駐AIが話しかけてくる。佐伯は何も聞こえなかったかのようにそれを無視して寝床から出た。
花粉症で処方された錠剤を口に入れ、洗面所で顔を洗って寝癖を整えた。髭を剃った顎に手を当てて剃り残しを確かめる。今日は塾の三年生達が午後に顔を出すはずだ。四月から高校へ入学する生徒たちをお祝いすることになっている。飲み物やお菓子を準備せねばならない。佐伯はいつもより早めに身支度を済ませて家を出た。
想像していたよりも空気が柔らかく、弾力があって暖かった。アパートの裏の路地を抜けて大きな通りに出ると、佐伯は着ていたダウンジャケットのジッパーを下ろした。足元の名前の分からない雑草が花をつけていた。ポケットから取り出したハンドタオルで額に滲んだ汗を拭う。佐伯はハンドタオルを持ったまま近所のスーパーマーケットへ歩き出した。車が音もなく車道を通り過ぎていく。前だけを見て歩道の端を歩いていると、頭の中はどこからともなく湧いてきては消せない考えにすっぽり覆われていた。
デジタルデヴァイスを個人で所有することが低年齢化して、佐伯の塾生たちにスマートフォンを持っていない生徒はもちろんいないし、学校からもそれぞれにタブレットが貸与されている。それらにプリインストールされたAIの飛躍的な進出は、特に学習面で顕著だ。学校の授業はAIの使用が前提で進められ、宿題や課題も生徒個人に即したものをAIが出すようになった。生徒も当然AIを使いながらそれを解く。教室で実際に授業を行う先生は、授業用タブレットを傍らに、AIからの通知やメッセージに目を光らせている。その役割は教師というより監視者やモチベーターに変化しつつある。教科書を読むだけの授業、教科書の内容を板書するだけの授業はほとんど絶滅した。
それに伴って塾の立ち位置も大きく変わった。AIから吸い上げた膨大なデータを有効に活用できる大手や、独自のAIを開発して違ったアングルから生徒にアプローチできる大手がシェアを伸ばし、AIをうまく使えない、あるいは生徒に寄り添えない、小さな個人経営の塾は淘汰され始めている。佐伯が四年前に立ち上げた小さな塾は、何とか続けられる程度には生徒を集められているが、今後の見通しが明るいとはとても言えなかった。
佐伯はAIが日常にまで浸透したことで、生徒側にも変化が起きていると感じていた。
まず、AIを使いこなしている生徒、AIと適度な距離を取れる生徒の学力の伸びが著しい。彼らは最初に自分で問題を解こうとする。その後AIに正確に言葉を伝え、自分の求めていた答えを引き出すことができる。AIの提示した模範解答と詳細な解説を読んで、解き方や考え方をアップデートしていく。
授業で理解が曖昧だった部分があればAIに質問をぶつける。AIの解答に疑問がある場合、別の手段を使って確認する習慣も身につけている。
「先生ー、ここってこれで合ってますか?」
「ちょっと待ってねー、あーこれはAIが間違ってるね。」
AIも間違えることがある、ということを体験として知っている。結果、こちらが驚くほどの成長を見せる。そう、彼らは勝手に伸びていく。佐伯が彼らにできることがあるとすれば、静かに見守るか、くだらない会話で笑いをとるかくらいだ。
また、そのレベルには届かない中間から下層の生徒たちの見極めがとても困難になった。宿題や提出物に記された解答は問題ない(完璧ですらある)のに、いざ本人に直接聞いてみると、すらすらと答えられない、あるいは見当違いなことを答える場合があるのだ。
「ここの問題はどうやって解いたの?」
「え、AIにやり方聞いて。」
そういう生徒たちは応用問題に弱いことが多い。彼らは常にスマートフォンかタブレットを携帯している。何気ない会話の中の問いかけにも、ふと手元に視線を落としてしまう。一度AIを通して解答することが染みついてしまっているのかもしれない。彼らはAIに問題を投げて解答は得られても、その先がない。その前も後ろも、右も左もない。均一的で無表情な極めて判別のしにくい無個性な回答を提出する生徒が増えた。
そして最も厄介なのが、AIを全く使えない生徒もごく少数ながら存在することだ。ほとんどの場合、彼らは自分が何がわからないのかすらわかっていない。それを言葉にする能力も低い。だからAIに何を聞けばいいかがわからない。
こちらから直接丁寧に話しても、それが届いているのか何の手応えも得られない。一生懸命耕しても、その土には種が埋まっていない。言いようのない空しさ、虚無感に襲われる。大きな徒労だけが残る。そんな彼らと接する際に必要なのは、膨大な時間と辛抱強く続けられる根気、100回でも同じことを説明できる忍耐力、決して感情的になってはならない冷静さだ。そんなことを出来る人間がいるだろうか。親でさえ諦めてしまっていることがほとんどだ。けれどAIならそれが出来る。苦も無くそれを遂行できる。最も届いて欲しい生徒に、AIが届かないもどかしさ。目の前に垂らされた蜘蛛の糸を手にしていても、彼らにはその意味がわからないのだ。
佐伯がそんなことを考えていると無意識に大きな息が漏れた。佐伯は一度深く息を吸いなおし、淡く色づき始めた歩道をぼんやりと歩いていた。




