言霊の檻
「悪徳令嬢エレナ・ローゼンバーグ! 貴様との婚約を破棄し、その身を国外追放に処す!」
王宮の大広間に、第一王子の傲慢な声が響き渡った。
(……はい、知ってた)
床に膝をついた姿勢のまま、私――エレナは心の中で深くため息をついた。ここが前世でプレイしていた乙女ゲーム『クリスタル・ファンタジア』の世界で、自分がヒロインをいじめる悪役令嬢に転生していると気づいたのは、ついさっきのことだ。遅すぎる。せめて断罪イベントの前に気づきたかった。
周囲の貴族たちからは、冷ややかな視線とヒソヒソ話が突き刺さる。
「当然の報いだ」
「聖女様を階段から突き落とすなんて……。」
身に覚えのない罪だが、今の私に弁解の余地はない。
「……謹んで、お引き受けいたします」
私は殊勝に頭を垂れた。下手に抗って処刑されるよりは、国外追放の方がマシだ。隣国で静かに隠居生活を送ろう。前世の夢だった「推し(ゲームキャラ)の壁になる」人生を、ここではないどこかで全うするのだ。
「フン、潔いことだ。……では、衛兵! この女を直ちに連れて行け!」
王子の合図で、筋骨隆々の衛兵二人が私に近づき、乱暴に腕を掴もうとした。
(ああ、終わったな……。さようなら、私のきらびやかな貴族生活。さようなら、まだ見ぬイケメンたち――)
私がすべてを諦め、目を閉じようとした、その時だった。大広間の重厚な扉が、音もなく開け放たれた。冷ややかな空気が流れ込み、ざわついていた会場が一瞬で静まり返る。逆光の中、一人の男が歩いてきた。漆黒の髪。冷徹な双眸は、すべてを見透かすように昏い。仕立ての良い軍服に身を包み、腰には身の丈ほどもある長剣を下げている。一歩、歩くたびに、周囲の魔力が彼を避けるように波打つのが分かった。
(……え?)
私の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。そこにいたのは、ゲームの攻略対象外キャラにして、この国の最強戦力。「戦場の死神」、「氷の公爵」と恐れられる、カリスト・ヴァレンシュタイン公爵。そして何より――私の最推しだった。
(本物だ……。画面越しじゃなくて、生のカリスト閣下だ……!)
その瞬間、前世の記憶とオタクの魂が完全に融合した。国外追放の恐怖も、冤罪の悔しさも、すべてが吹き飛んだ。
(待って、顔面が国宝。いいえ、世界遺産。あの冷ややかな目つき、最高。踏まれたい。あの顎のラインで指を切りたい。存在が尊い。生きる伝説。歩く完全犯罪……!)
私の脳内は、推しへの賛辞(語彙力喪失済み)で埋め尽くされた。衛兵に掴まれていた腕の痛みなんて、もう感じない。カリスト公爵は、王子や聖女には目もくれず、真っ直ぐに私の方へ歩いてきた。そして、私の前で立ち止まると、冷ややかな視線で見下ろす。
「……騒々しいな。王子の婚約破棄ごときで、公務の邪魔をしないでいただきたいものだ」
その声。低くて、鼓膜に心地よく響く、至高のバリトン。
(ああああああ!! 声帯まで神! 閣下の声で『死ね』って言われたら、喜んで天国に行ける……!)
オタクのパッションが、限界を超えた。この感動を、この溢れんばかりの愛を、言葉にしなければ死んでしまう。私は、卫兵の手を振り払い(なぜか驚くほど簡単に振り払えた)、床に両手をついて、カリスト公爵に向かって深々と頭を下げた。いわゆる、五体投地の構えである。
「閣下ァァァァァ!!! お目にかかれて光栄の極みです!!!」
大広間に、私の絶叫が響き渡った。王子も、聖女も、貴族たちも、呆然として私を見ている。カリスト公爵さえも、微かに眉をひそめた。だが、止まらない。私の言霊は、暴走する重戦車のように溢れ出した。
「閣下のそのお姿! 夜空を溶かした最高級の黒真珠のような瞳! 神が何千回もの試行錯誤の末に創り上げた奇跡の造形であるお顔立ち! その存在自体が、この薄汚れた世界を照らす唯一無二の聖光です!!」
(よし、言った! これで思い残すことはない!)
心の中でガッツポーズを決めた、その瞬間だった。
――ピキィィィン。
奇妙な音が、大広間に響いた。
「な……何だ!?」
王子の悲鳴のような声。私が顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。カリスト公爵の周囲に、物理的な光の粒子が舞い踊っている。彼の漆黒の髪は、まるで月の光を浴びたように輝きを増し、その肌は陶器のように滑らかに、そして神々しく発光していた。さらに、彼の背後には、うっすらと後光のような輪が出現している。
(……え?)
「こ、これは……聖なる加護!? 公爵閣下が、聖属性の魔法を……!?」
魔導師たちが騒ぎ出す。だが、カリスト公爵自身は、魔法を使っている様子はない。彼は、自分の体から溢れる光を、ひどく眉をひそめて眺めていた。
(嘘……。私の言葉が、本当に『現実』になってる……?)
私が呆然としていると、カリスト公爵がゆっくりと私に視線を戻した。その瞳の昏さは変わらないが、先ほどまでの冷徹さの中に、奇妙な「愉悦」の色が混じっている。彼は、光を纏ったまま、私の前に膝をついた。顔が、近い。国宝級の顔面が、すぐそこに。
「……僕の瞳が、黒真珠? 存在が、聖光?」
彼は、フッと口角を上げた。それは、誰もが見惚れるような美しい笑みだったが、同時に、獲物を見つけた肉食獣のような、酷く腹黒い笑みでもあった。
「面白いことを言う令嬢だ。僕自身も知らなかった『設定』を、君は瞬時に見抜いたらしい……」
彼は、発光する手で、私の顎を優しく、だが逃がさないように掴んだ。
「エレナ・ローゼンバーグ。君を国外追放にするのは、あまりに惜しい。……君のその『特別な目』と『言葉』、僕のために使ってみる気はないか?」
(え……。推しからの、直接スカウト……?)
私は、尊さと混乱で、脳の回路が焼き切れる寸前だった。
「……あ、はい。閣下のためなら、何でも……」
私が蚊の鳴くような声で答えると、カリスト公爵は満足げに笑った。
「決まりだ。――王子、申し訳ないが、この令嬢は僕が引き取る。僕の新たな『観察対象』……いや、『庇護下』に置くことにするよ」
彼は、私をお姫様抱っこで軽々と持ち上げると、呆然とする王子たちを置き去りにして、大広間を堂々と歩き出した。
(待って、私、今、推しにお姫様抱っこされてる!? 鼻血出る! 死ぬ! でも死ねない! 閣下の近くで、この言霊の力を検証しなきゃ……!)
これが、後に「世界を書き換える聖女」と呼ばれることになる私と、「それを面白がる腹黒公爵」の、最悪で最高の始まりだった。私の缠う光は、まだ収まる気配がなかった。




