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固有スキル【生成AI】で異世界全自動化 〜魔法陣はAIで組み、国はAIが建て、気づけば俺の仕事がなくなりました〜  作者: 歩人


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第52話: 昨日のことは忘れなさい

 パンの匂いで目が覚めた。


 レンは宿舎のベッドで天井を見つめた。窓が少し開いていて、秋の朝の冷たい空気と一緒に、焼きたてのパンの匂いが入り込んでいる。


 エルナのパンだ。


 匂いだけでわかる。ゴーレムが焼くパンは品質が均一で、温度管理も完璧で、焼き色も一定だ。だが匂いが違う。エルナのパンは毎回ほんの少しだけ違う。今日は少し強めに焼いている——たぶん、生地の発酵時間がいつもより長かったのを補正しているのだろう。


 AIに聞かなくても、わかった。


 なぜかというと——


「……やめろ」


 レンは自分に言い聞かせた。


 分析するな。パンの焼き加減から推測するな。推測した先にいるのは、昨日手を繋いだ相手だ。あの丘の上で、花火が消えた後の静けさの中で、指先が触れて、離れなくて——


 心拍数が上がった。


 AIは計測しなかった。今朝は——まだ起動していない。だが計測されなくても、自分の鼓動くらいわかる。


 レンは枕に顔を埋めた。


「……何やってんだ、俺」




 朝の広場は、祭りの残骸だった。


 屋台の骨組みが半分解体された状態で並び、精霊灯の支柱がまだ立っている。ゴーレムたちが黙々と後片付けを続けていた。石畳に紙吹雪がこびりつき、踏むとかさかさ鳴る。


 レンは広場を横切った。目的地はパン屋——ではなく、執務室だ。ダリウスから「建国祭の会計報告書を本日中に確認してください」という伝言が昨夜のうちに届いていた。


 パン屋の前を通らなくても執務室には行ける。南回りの道を使えばいい。


 北回りの道を歩いていた。パン屋の前を通る道だ。


「……別にこっちの方が近いだけだ」


 誰に言い訳しているのか。自分にだ。


 パン屋が見えてきた。エルナの祖母から受け継いだ小さな石造りの店。煙突から白い煙が上がっている。裏口が開いていて、中から——


「いらっしゃい」


 エルナの声が聞こえた。


 客に対する、いつもの声。素朴で、ストレート。あの声は変わらない。祭りの前も後も、手を繋ぐ前も後も。


 レンは立ち止まった。


 入るべきか。素通りするべきか。昨日までなら何も考えずにパンを買っていた。朝飯を買いに来る常連。それだけの関係——ではなくなった。いや、なったのか。何がどう変わったのか。手を繋いだだけだ。繋いだだけなのに。


「……最適な行動パターンを——」


 AIに聞きかけて、やめた。昨日の夜、ヴィクトルに「AIに頼まず自分の声で言え」と偉そうに説教した。今朝、パンを買うかどうかをAIに聞くのは——さすがにダサい。


 深呼吸した。パンの匂いが肺に入った。


 入った。




 エルナは——カウンターの向こうにいた。


 いつもの場所。いつものエプロン。小麦色の髪をいつも通り後ろで束ねている。手にはトレイ。並べたばかりの朝焼きパンが湯気を上げている。


 いつも通りだ。


 いつも通りのはずだ。


「あ」


 エルナがレンを見た。


 0.5秒で視線を逸らした。


「……いらっしゃい」


 声が——硬かった。いつもの「いらっしゃい」より半音高くて、テンポが速い。


「おはよう」


「……おはよう」


 沈黙。


 店の中にはまだ他の客がいなかった。朝一番だ。祭りの翌日だから、街の人間はまだ寝ている。つまり——二人きりだ。


 レンはカウンターに近づいた。パンの陳列棚を見た。いつものラインナップ。丸パン、黒パン、胡桃入り、レーズン入り。見慣れたパンが見慣れた並び方で置いてある。


「何にする」


「いつもの」


「いつものって」


「丸パン二つと黒パン一つ」


「……覚えてんだ」


「俺がいつも買うやつだからな」


「そうじゃなくて——」


 エルナが言いかけて、やめた。トングを手に取って、乱暴にパンを紙袋に入れた。いつもより動きが雑だ。


「はい。銅マナ三枚」


「ありがとう」


 代金を置いた。指先が——カウンターの上で、エルナの指先のすぐ近くを通った。


 二人とも、指を引っ込めた。同時に。


 沈黙。


「あんた」


「なんだ」


「昨日のことは——」


 エルナの声が止まった。


 レンは待った。


 エルナの耳が赤くなっていた。朝の光の角度ではない。パンの熱気でもない。昨日の丘の上と同じ赤さだ。


「昨日のことは——忘れなさいよ」


 出た。


 忘れなさい宣言。


 レンは一瞬、言葉を失った。


「……何を?」


「っ……全部!」


 エルナがトングを握りしめた。金属がきしんだ。


「全部忘れて。花火も、丘も、その——手が、汗かいてたとか、そういうのも全部。忘れて。あれは祭りの空気に流されただけだから。あたしは別に何とも思ってないし。あんたの手が汗かいてたのもどうでもいいし。55点とか言ったのも冗談だし。忘れなさい」


 長い。


 忘れろと言いながら、全部覚えている詳細を列挙している。しかも「手が汗かいてた」は覚えていなければ出てこない情報だ。


 レンの中のエンジニア脳が冷静に指摘した——この人、ログ全部残ってるぞ。


「わかった」


「……え?」


「忘れる」


 エルナの目が見開かれた。緑の瞳に、朝の光が差し込んでいた。


「忘れるって——そんな、あっさり?」


「忘れろって言っただろ」


「言ったけど! でも——」


 エルナが口をつぐんだ。


 レンは紙袋を受け取りながら、内心で苦笑した。忘れろと言ったのに、忘れると言ったら怒る。この矛盾を前世のプログラミングで例えるなら——


 例えない。今日は例えない。


「嘘だ。忘れない」


「……は?」


「忘れろって言われたけど、忘れない。花火も、55点も、手が汗かいてたのも」


 エルナの顔が赤くなった。耳だけではなく、頬も、首筋も。パンの焼き窯より温度が高そうだった。


「——っ、バカ!」


 トングがカウンターに叩きつけられた。


「帰んなさいよ! もう!」


「パン買ったから帰るけど」


「帰りなさいっ!」


 レンは紙袋を掲げて店を出た。


 背後で、パンの陳列棚ががたりと揺れる音がした。エルナが何かを棚にぶつけたらしい。


 店を出て三歩。立ち止まった。


 胸の中で、何かが温かかった。パンの熱ではない。紙袋越しのパンはまだ熱いが——胸の中の温かさは、別のものだ。


 忘れない、と言った。


 AIに聞かずに、自分の言葉で。


「……45点くらいかな」


 自己採点。エルナの基準で。昨日の55点から下がった気がするが——たぶん、「バカ」と言われたのは合格ラインだ。怒鳴る時のエルナは、本当に怒っている時は黙る。怒鳴るのは——照れている時だ。




 執務室に着くと、ダリウスが死にそうな顔で待っていた。


「おはようございます、レンハルト殿。建国祭の会計報告書——全127ページです」


「……127ページ?」


「祭り規模を拡大したのはどなたでしたか。ゴーレムの追加配備、精霊灯の増設、花火の追加発注——全て直前のご指示でしたね。予算超過は——」


「あとで見ます」


「『あとで』とは具体的にいつですか。この『あとで』がいつも来ないのは、記録として残っています。過去17回の『あとで』のうち、実行されたのは3回です。達成率17.6パーセント——」


「ダリウスさん、AIより正確ですね」


「AIは胃痛を感じません。私には胃痛という精度の高いセンサーがあります」


 ダリウスが書類の束を机に置いた。音がした。ドン、と。


「それから——ヴィクトル陛下の使節団が本日午後に出立します。見送りの儀礼について、規定が——」


「まだなかったんですか」


「ありません。この国にはまだ『外国元首の見送りに関する儀礼規定』が存在しません。昨夜、草案を起草しました。ご確認を」


「ダリウスさん、昨日祭りは楽しんだんですか」


「楽しむ暇があるとお思いですか。祭り中に発生した行政案件——屋台の営業許可13件、騒音苦情7件、ゴーレム接触事故2件、精霊灯の灯油切れ23件——」


「わかりました、わかりました。報告書は午前中に目を通します」


「午前中、ですね。記録しました」


 ダリウスがペンでメモ帳に書き込んだ。レンの「午前中」を文字通り記録している。


 レンは窓際に立った。


 窓から、通りが見えた。パン屋の煙突から、まだ煙が上がっている。


 ——忘れない、と言った時のエルナの顔。赤くなって、「バカ」と叫んで、トングを叩きつけた。


 あの反応は——


「レンハルト殿。窓の外に何か行政上の問題が?」


「いや、何でもない」


「パン屋の方向を見ていらっしゃいますが」


「……見てない」


「はい。記録しません」


 ダリウスの声に——ほんのわずかだが、からかいの色が混ざった気がした。気のせいだと思いたい。




 昼前、レンが報告書と格闘していると、カイルが執務室に飛び込んできた。


「レン! 昼飯行こうぜ!」


「ノックしろ」


「した。お前が気づかないだけだ」


 カイルが机の上の書類を覗き込んだ。数字の羅列を一秒見て、「全然わからん」と笑って離れた。


「で——昨日どうだった」


「何がだ」


「何がって。エルナちゃんとだよ」


 レンの手が止まった。


「祭り楽しかったぞ。焼き鳥うまかった。終わり」


「嘘つけ。丘に二人で行っただろ」


「……お前、なんで知ってるんだ」


「見た。っていうか、メイラから聞いた。——あ、メイラが見てたって意味じゃないぞ。ハンナから聞いたって言ってた」


 情報伝達経路が複雑すぎる。丘に二人で行った情報がハンナ→メイラ→カイルという三段ルートで回っている。しかもハンナは現場にいたのか。


「ハンナは——」


「祭りの会場から丘に向かう二人を目撃したらしいぜ。で、朝から村中に——」


「やめろ」


「レン君がエルナを丘に連れていって二人きりで花火見たって——」


「やめろ」


「で、手、繋いだのか?」


 カイルの青い目がまっすぐこちらを見ていた。脳筋のくせに——いや、脳筋だからこそ、こういう時の勘が鋭い。


「……それは」


「繋いだな」


「なんでわかる」


「お前、今日の朝からずっとパン屋の方向見てるだろ。窓際に立つたびに煙突見てる。昨日まではそんなことしてなかった。つまり何かが変わった。手を繋いだ」


「お前その推理力、ダンジョン攻略に使えよ」


「難しいことはわからん。でも、お前がエルナちゃんのこと好きなのは、見りゃわかる」


 沈黙。


「……好きとか、そういう——」


「見りゃわかるって」


 カイルが笑った。裏表のない、まっすぐな笑顔。


「で、告白はまだなんだろ」


「まだも何も——」


「お前さ。射的は全弾外すくせに、こういう時は核心外さないのな」


「逆だ。射的の方がずっと簡単だ。弾道は計算できるからな」


「計算して全部外したけどな」


「うるさい」


 カイルが椅子に座った。木の椅子がぎしりと悲鳴を上げた。


「レン。お前、言えよ。エルナちゃんに」


「何を」


「何をって——好きだって」


「いきなりハードル上げるな」


「ハードル? ハードルってなんだ」


「だから——段階があるだろ。手を繋いだのが昨日で、今日いきなり告白は——」


「段階? 俺には難しいことはわからんけど、好きなやつには好きって言えばいいだろ。シンプルだ」


「お前のシンプルは俺にはハードモードなんだよ」


「はーどもーど?」


 レンは頭を抱えた。


 カイルの言っていることは正しい。シンプルに正しい。好きなら言えばいい。だが——「好き」という二文字は、まだ口から出てこない。AIに出力させることはできる。だがそれは——ヴィクトルと同じだ。借り物の言葉だ。


 自分の言葉で言うには——もう少し、時間がいる。


「今日はまだ早い」


「ふーん。じゃあいつ言うんだ」


「……そのうち」


「レン」


「なんだ」


「エルナちゃん、待ってくれてるうちに言えよ。待たせすぎると——あのツンデレ、本気で怒るぞ」


 それは——たぶん、今日一番正しい忠告だった。




 午後。


 ヴィクトルの使節団の見送りを終えた後、レンは街を歩いていた。


 祭りの後片付けはほぼ完了していた。ゴーレムたちが広場の石畳を磨き上げ、精霊灯の支柱が回収され、屋台の骨組みが倉庫に運ばれている。昨夜の喧噪が嘘のように静かな、秋の午後だ。


 メイラとすれ違った。


「あ、レンさん」


「メイラ。おはよう——じゃなかった、もう午後か」


「ふふ。レンさんも昨日は遅かったんですね」


 メイラの声はいつも通りだった。穏やかで、丁寧で。丸眼鏡の奥の目は——少しだけ腫れているように見えた。泣いた後のような。


 レンは昨夜、広場のベンチで半分齧ったリンゴ飴を握っていたメイラの姿を思い出した。聞くべきではない。


「建国祭、楽しかったか」


「ええ。……花火が綺麗でしたね」


「ああ。綺麗だったな」


 メイラが少しだけ微笑んだ。いつもより力のない笑顔だったが——折れてはいなかった。


「レンさん、エルナさんと一緒に見たんですよね? 花火」


「……どこから回ったんだ、その情報」


「ハンナさんが今朝——」


「やっぱりか」


「ふふ。レンさんの言葉は下手ですけど、ちゃんと伝わりますから。頑張ってください」


 メイラが足早に去っていった。白いローブの裾が風に揺れた。


 ——頑張ってください。


 昨日も同じことを言ってくれた。自分のことを棚に上げて。いや——棚に上げたのではなく、棚に置いたのだ。自分の気持ちを、丁寧に、折りたたんで。


 レンにはそれがわかった。わかったけれど——何も言えなかった。


 メイラに対して自分ができることは、エルナに誠実であることだけだ。




 夕方。


 レンは——パン屋の前にいた。


 また来てしまった。


 今日だけで三回目だ。朝パンを買いに来て、昼に通りかかって(これは偶然だ。偶然のはずだ)、そして夕方。


 言い訳は用意してある。「明日の朝のパンを予約しに来た」。合理的だ。前日予約は効率的だ。いつもはしていないが、今日から始めたことにすればいい。


 店の扉が開いた。


 エルナ——ではなかった。


「あっ! レン君じゃん!」


 ハンナだった。


 明るい茶髪にリボン。琥珀色の目がキラキラしている。頬のそばかすが、夕日に照らされて浮き上がっていた。


「ねぇねぇ、ちょうどいいところに! エルナに用事でしょ?」


「いや、パンの予約を——」


「予約!? 今までしたことないのに!? これはもう実質告白でしょ!」


「パンの予約が告白になる世界に住んでないんだが」


「住んでる住んでる! ねぇ、昨日の花火どうだった? エルナと丘で二人きりだったんでしょ? 手は? 手は繋いだ? ねぇ?」


「ハンナ。落ち着け」


「落ち着いてるよ! で、どこまでいったの?」


「花火を見ただけだ」


「花火を見ただけで顔が赤くなる人いないよ? レン君、今耳赤いよ?」


 レンは自分の耳に触れた。——熱かった。


「これは夕日の——」


「夕日じゃないでしょ! ねぇ、エルナ今朝からずっと変だったんだよ! パン焦がすし! あの子がパン焦がすの、あたし十年以上の付き合いで初めて見た!」


 エルナがパンを焦がした。


 あのエルナが。手作りパンに命を懸けているエルナが。


「それは——」


「それはレン君のせいでしょ! 昨日何したの! 全部話して!」


「ハンナ」


 奥からエルナの声が飛んできた。低い声。怒気を含んだ低い声。


「お客さんの邪魔しないで」


「お客さんじゃなくてレン君だよ?」


「お客さんだから!」


 エルナが店の奥から出てきた。エプロンに粉がついている。手にはパン生地。右頬に薄く小麦粉がついていた。


 レンと目が合った。


 0.3秒で逸らされた。今朝より速い。


「何の用」


「明日の朝のパンを——」


「いつも朝来てるじゃない」


「予約しようかと——」


「予約は受けてない」


「じゃあ——」


「じゃあ帰りなさいよ」


「……」


 沈黙。


 ハンナが二人を交互に見て、口を手で押さえた。琥珀色の目がこれ以上ないほどキラキラしていた。


「あたし、ちょっと用事思い出した! じゃあね!」


 ハンナが走り去った。明らかに用事などない。「ちょっと」どころか全力疾走だ。角を曲がったところで、こちらを覗き返しているのが見えた。


 二人きりになった。


 パン屋の店先。夕日が石畳をオレンジ色に染めている。秋風が吹いて、エルナの髪を揺らした。


「あんた、今日何回来たの」


「……三回」


「三回!? パンそんなに食べるの!?」


「朝買ったのは一回だけだ。あとの二回は——」


 レンは言葉を探した。AIには聞かない。自分の言葉を。


「通りかかっただけだ」


「嘘でしょ」


 エルナが断言した。パン生地を持ったまま、腰に手を当てた。


「うちの前の道、執務室に行くのに遠回りでしょ。あんたいつもは南の道通ってるくせに」


「……よく見てるな」


「見てない! たまたま知ってるだけ!」


 エルナの声が裏返った。


 レンは——笑いそうになった。堪えた。ここで笑ったら、トングが飛んでくる。


「エルナ」


「なに」


「昨日のこと、忘れろって言ったよな」


「言った」


「忘れられるか」


「忘れなさいよ!」


「忘れられないだろ」


「——っ」


 エルナのパン生地を握る手に力が入った。生地が少し歪んだ。


「あんたに、忘れてほしくないわけじゃ——ない——んだけど——」


 文法が崩壊していた。二重否定が三重否定になりかけている。


「つまり——忘れてほしくないのか」


「違う! そうじゃなくて!」


 エルナが生地をカウンターに叩きつけた。パン! と音がした。パン生地だけに。


「あたしは——昨日のことが何でもないって言いたいの! 祭りの空気に流されただけで、別にあんたの手が温かかったとか、汗かいてたけど離さなかったのがちょっと嬉しかったとか、そういうのは——」


 止まった。


 エルナの口が開いたまま止まった。


 自分が何を言ったか——自覚した顔だった。


「……今の、なし」


「聞こえた」


「聞こえてない!」


「嬉しかったって——」


「忘れなさい! 今すぐ! 全部!」


 エルナが店の奥に引っ込んだ。ばたん、と扉が閉まった。


 レンはパン屋の店先に一人残された。


 夕日がさらにオレンジを深めていた。秋の空気は冷たいのに、頬が熱かった。


 扉の向こうから——かすかに、パン生地を叩きつける音が聞こえた。どすん、どすん、と。いつもの生地をこねる音よりずっと激しい。


 怒っているのではない。


 照れている。


 エルナが本当に怒る時は——パンを焦がす。ハンナが言っていた。今朝焦がしたのは、怒りではなく——


 レンは店先に立ったまま、紙袋を持っていないことに気づいた。パンを買えていない。予約もできていない。


 用事は何一つ達成されていない。


 だが——達成されたものがある。


 エルナは、昨日のことを忘れていない。忘れろと言いながら、全部覚えている。手の温度も、汗も、55点も。覚えていて、「ちょっと嬉しかった」と。


 それだけで——十分だった。


 今日のところは。


「……60点、もらえたかな」


 誰にも聞こえない声で呟いて、レンはパン屋の前を離れた。




 宿舎に戻る道で、イグニスの炎がふわりと肩に降りてきた。


「術者。何をにやにやしている」


「にやにやしてない」


「嘘だ。お前の魔力パターンが昨日の丘の上と同じ波形を示している。精霊にはわかる。人間は面倒だな」


「お前、それプライバシーの侵害だぞ」


「知らん。精霊に人間の『ぷらいばしー』は適用されん」


 イグニスの炎がぱちりと爆ぜた。


「パン屋の娘の魔力パターンも乱れていた。店の奥で生地を叩きつけていたろう。あの音は精霊ネットワーク越しに聞こえた。近隣の土の精霊が『地震か』と問い合わせてきたぞ」


「……エルナの生地叩きが地震と間違われたのか」


「人間の求愛行動は迷惑だな」


「求愛って言うな」


「では何と言う」


「……コミュニケーション上の非効率な感情交換」


「それを求愛と呼ぶ」


 レンは反論できなかった。


 イグニスが炎を揺らしながら、飛び去っていった。去り際に——


「認めてやる。お前のあの非効率さは——数百年で一番、見ていて退屈しない」


 それがイグニスなりの祝福なのだと、レンは理解した。




 夜。


 宿舎の窓から、アルゴリズの夜景を見た。


 昨日は祭りの灯りが溢れていた。今夜は日常の灯り。精霊灯がぽつぽつと通りを照らしている。ゴーレムが夜間巡回をする足音が遠くに聞こえる。


 パン屋の裏口の灯り——今夜もついていた。


 エルナが明日の仕込みをしているのだろう。祭りの翌日も、手を繋いだ翌日も、変わらずパンを焼く。


 レンは窓枠に肘をついた。


 忘れろと言われた。忘れないと言った。嬉しかったと言われた(取り消されたが)。三回通った。パンは買えなかった。


 非効率の極みだ。


 だが——AIに聞いたら「好感度は上昇しています」とか出力されるのだろうか。いや、聞かない。聞かなくていい。


 パン屋の灯りが消えた。


 昨日と同じだ。エルナが仕込みを終えて、明日に備えて眠りにつく。明日もパンを焼く。明日も——あの店先に、レンは行くのだろう。パンを買いに。予約という名目で。通りかかったという嘘をついて。


 何も変わっていない。


 全部変わった。


「エルナ、おやすみ」


 昨日はただ「おやすみ」と言った。今日は名前をつけた。それだけの違いだが——窓を閉める手が、昨日より温かかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第52話「昨日のことは忘れなさい」。祭りの翌日、何かが決定的に変わったのに「いつも通り」を装おうとする二人の話です。


エルナの「忘れなさいよ」は、この作品で一番書きたかったツンデレ台詞のひとつです。忘れろと言いながら、「手が汗かいてた」「55点」「離さなかったのがちょっと嬉しかった」と全部覚えている。自分から詳細を列挙していく。しかも「嬉しかった」が口から出た瞬間に「今の、なし」と撤回する。撤回できていない。本人もわかっている。でも止められない。これがツンデレの極致だと思って書きました。


レンの方も相当です。南回りの道の方が近いのに北回りでパン屋の前を通り、「通りかかっただけ」と嘘をつく。一日三回パン屋に来る。パンを買えたのは朝の一回だけ。前世のCTOが、パンの予約という名目で恋人未満の店に通う。AIに聞けば最適解は出るのに聞かない。不器用で非効率で——だから人間なんだと思います。


カイルの「見りゃわかる」とハンナの「で、どこまでいったの?」は、この物語の恋愛コメディの両輪です。脳筋の直球と、おせっかい幼馴染の詰問。レンとエルナが不器用に踊る周囲で、この二人が容赦なく核心を突いてくる。特にカイルの「待たせすぎると、あのツンデレ、本気で怒るぞ」は、脳筋なのに一番正しいことを言う男の本領発揮です。

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