第49話: 一緒に行かないか
建国祭の日が来た。
秋の陽射しが石畳を温め、精霊灯にはいつもと違う色つきの布が巻かれている。赤、橙、金。アルゴリズの市旗の三色だ。通りにはすでに屋台が立ち並び、焼き菓子の甘い匂いと、肉の焼ける煙と、子供たちの歓声が混じり合っている。
AIが設計した完璧な祭り。——ただし、レンがあえて崩した「遊び」が仕込んであった。路地裏の隠れ屋台。裏通りにだけ点る青い精霊灯。メインストリートからわざと一本ずらした占いの館。
完璧じゃない方が、祭りは楽しい。ペトラとの通商条約で学んだことだ。
そして今、レンはパン屋の前に立っている。
約束の時刻は夕方。——まだ昼だった。
「……早く来すぎた」
三時間も早い。国を建てた男が、デートの集合場所に三時間前から立っている。前世の自分が見たら「お前のそのスペック、もっと有効活用しろ」と言うだろう。
いや、デートじゃない。祭りに一緒に行くだけだ。
「おい、術者」
肩の上でイグニスの炎がぱちりと爆ぜた。
「三時間前に来て何をしている。歩哨か」
「歩哨じゃない。ちょっと、時間を間違えた」
「嘘をつけ。MCPの通信ログに『今日のスケジュールを確認して』と三十七回——」
「黙れ」
イグニスの炎がゆらりと揺れた。笑っている気配がした。
「まあいい。火の精霊たる者、人間の恋路に口は出さん。——だがな」
「何だ」
「服くらい変えろ。いつものローブだぞ」
レンは自分の格好を見下ろした。いつもの動きやすいシャツに、いつものローブ。普段着だ。完全に普段着だ。
「……祭りなのに普段着か、俺」
「わしに聞くな」
レンは頭を掻いた。
夕方。
パン屋の扉が開いた。
「待たせたわね。——って、あんた、ずっとここにいた?」
「いや、今来た」
「嘘。ハンナから聞いた。昼から立ってたって」
「……あいつの情報網」
「で、何その格好。普段着じゃない」
「悪いか」
「別に。あんたらしいけど」
エルナはエプロンを外して出てきた。いつものワンピースだが、髪を下ろしている。作業中は後ろで束ねている小麦色のゆるいウェーブが、肩にかかっている。耳元に、小さな青い花が一輪。
レンは目を逸らした。
——何だ。髪を下ろしただけだろ。花が一つ増えただけだろ。なぜこんなに、目のやり場に困る。
「あんた、顔赤いよ」
「夕日だ」
「まだ日没まで一時間あるけど」
「精霊灯の反射だ」
「あ、そう。——行くわよ」
エルナが先に歩き出した。レンは半歩遅れてついていった。
秋の風が、パンの匂いと——ほんの微かに、花の匂いを運んできた。
メインストリートは人で溢れていた。
アルゴリズの住民だけではない。近隣の村からも人が来ている。ベルクハイム、エルツ、リンデン——合併した三集落の住民たち。ブレンネルからも冒険者が来ている。ダンジョン帰りの連中が鎧のまま屋台に並んでいる光景は、なかなかシュールだった。
「すごい人ね」
「三十六軒の屋台に、推定来場者五千人。動線の設計はAIがやったから混雑は——」
「レン」
「……何だ」
「今日はAIの話、禁止」
エルナがまっすぐにこちらを見た。緑の目が、精霊灯の光を映している。
「祭りなんだから。普通に、楽しみなさいよ」
「……わかった」
AIの話、禁止。つまり今夜は——設計図も、最適化も、効率も封印。
レンハルト・コードではなく、ただのレンとして。
これは思った以上に——難しい。
「あ、射的だ」
エルナが足を止めた。
屋台の奥に的が並んでいる。木彫りの動物や、ガラスの小瓶や、ぬいぐるみ。一番奥の高い棚に、淡い青色のリボンが飾られている。
「あんた、射的やったことある?」
「ない」
「あたしもない。やってみよ」
銅マナ一枚で五発。コルク弾を木製の銃に詰めて、的を撃ち落とす。
レンは銃を受け取った。ずしりと重い。前世でもこの世界でも、銃を握ったのは初めてだ。
——AIの話は禁止。だが、物理法則は禁止されていない。
レンの目が変わった。
コルク弾の質量。銃身の長さ。初速。重力加速度。空気抵抗。的までの距離は約三メートル。仰角——
「あんた、何ぶつぶつ言ってるの」
「弾道計算だ」
「は?」
「コルク弾の初速を毎秒十メートルと仮定して、質量がおよそ三グラム。銃口からの射出角を——」
「普通に撃ちなさいよ」
「いや、これは物理の問題だ。放物線軌道の頂点を的の位置に合わせれば——」
一発目。
コルク弾は放物線を描いて——的の遥か上を通過した。天井の布に当たって跳ね返り、隣の屋台の焼きトウモロコシに突き刺さった。
「……」
「あはっ」
エルナが口を押さえた。
「初速の推定が甘かった。修正する。空気抵抗係数を再計算——」
二発目。今度は低すぎた。的の手前の棚に当たって、木彫りの猫が横を向いた。
「だから普通に——」
「待て。二点からのデータで近似曲線を引けば——」
三発目。右に逸れた。
四発目。左に逸れた。
レンの額に汗が浮いた。四発撃って四発外した。弾道計算は完璧なはずだ。だが計算と現実が一致しない。コルク弾の形状が不均一で、銃身の精度が悪く、握力のブレが——
「あんたの弾道計算、あたしのパンの成形より下手ね」
「……反論できない」
「最後の一発、あたしに貸して」
エルナが銃を受け取った。構え方は素人そのものだ。計算もなければ、フォームの理論もない。
ただ——的を見て、感覚で撃った。
かつん。
木彫りのうさぎが棚から落ちた。
「……」
「あ、当たった」
エルナが自分でも驚いた顔をしている。
「何で当たるんだ。弾道計算もしてないのに」
「だから、普通にやれって言ったでしょ」
射的屋の店主が笑いながら木彫りのうさぎを手渡した。エルナはそれを受け取って、レンを見上げた。
「はい、これ」
「……俺にくれるのか」
「あんたが取れなかったから。——まあ、あたしが当てたんだけど」
木彫りのうさぎは手のひらサイズで、少し歪んでいた。量産品ではない。誰かの手彫りだ。
レンはそれをポケットに入れた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。三十点」
「何の点数だ」
「射的の腕前。弾道計算込みで三十点。——計算なしならもうちょっと上だったかもね」
焼きトウモロコシの屋台。
「うまいな、これ」
「でしょ。あたしが教えた焼き方よ。塩と、バターの代わりに山羊乳の煮詰めたやつを塗るの」
「お前が教えたのか」
「パン屋だもの。粉ものと焼きものは守備範囲」
二人でトウモロコシを齧りながら通りを歩いた。人混みの中を並んで歩くと、時々肩がぶつかった。ぶつかるたびに、エルナが少しだけ体を離す。離すが——離しすぎない。
リンゴ飴の屋台。
「甘い」
「あんた、甘いもの苦手だったっけ」
「苦手じゃないけど、前世では——」
「あ、AI禁止と一緒に前世の話も禁止」
「前世はAIじゃないだろ」
「似たようなもんでしょ。今ここにいるのは今のあんたなんだから」
——今ここにいるのは今のあんた。
レンはリンゴ飴を齧った。甘い。ただ甘い。それだけのことが、なぜか胸に沁みた。
占いの館。
レンがわざとメインストリートから一本ずらした場所に設置した、「遊び」の一つだ。
「あ、占いだって。入ろうよ」
「占いか……」
「何。信じない派?」
「占いはAIに——」
「禁止」
「……はい」
薄暗い帳の向こうに、初老の女性が座っていた。水晶玉ではなく、手のひらの紋様を読む掌紋占い。
「あら。国王様が来てくださるとは」
「今日は国王じゃないです。ただの——」
「ただの?」
レンは言葉に詰まった。エルナが横で面白そうにこちらを見ている。
「……ただの客です」
「ふふ。では、手を」
レンが右手を差し出した。占い師が掌を覗き込み、しばらく黙った。
「……面白い手をしていますね。理の線が深い。論理と計算の人だ。けれど——感情の線が途中で二本に分かれている」
「二本?」
「一本は真っ直ぐ、もう一本は揺れている。——あなた、大事な人に気持ちを伝えるのが苦手でしょう」
「……」
エルナが小さく吹き出した。
「当たってる」
「うるさい」
「お嬢さんもどうぞ」
エルナが手を出した。占い師がその掌を見て——目を細めた。
「あなたの手は、土の手だ。大地のように安定して、揺るがない。けれど——ここに一本、とても細い線がある」
「何の線ですか」
「信頼の線。とても深いけれど、とても細い。——あなたは、信じると決めた人を、とことん信じる。でもその入り口が狭いのね」
エルナの目が一瞬だけ揺れた。
「……まあ、当たらずとも遠からず、ってとこかな」
「最後にひとつ」
占い師が二人を交互に見た。
「お二人とも——手の温度が高いですね。緊張すると手が温かくなる方ですか?」
レンとエルナが同時に目を逸らした。
「違います」
「違うわよ」
占い師は微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。
占いの館を出ると、日が傾き始めていた。
精霊灯が一つ、また一つと灯る。赤と橙の布を通した光が、石畳を暖色に染めている。
「あ、レン君! エルナ!」
ハンナが人混みの向こうから手を振っていた。隣にカイルがいる。——なぜかリンゴ飴を三本同時に食べている。
「おう、レン! 祭りいいな! 飯がうまい!」
「カイル、お前それ何本目だ」
「七本目!」
「胃袋どうなってるんだ」
ハンナがエルナの腕を取って、小声で囁いた。
「ねぇねぇ、どう? 楽しい? 手は? 手は繋いだ?」
「繋いでないわよ! 何言ってんの!」
「えー! もう夕方だよ? 夕方までに手くらい——」
「黙りなさい!」
エルナの顔が赤くなった。レンは聞こえないふりをして、カイルの八本目のリンゴ飴を眺めていた。
「レン」
振り返ると、メイラがいた。丸眼鏡の奥の淡いグリーンの目が、穏やかにこちらを見ている。
「楽しんでますか?」
「ああ。——射的で全弾外した」
「レンさんらしいですね」
メイラが微笑んだ。視線が一瞬だけエルナの方に向かい、すぐに戻った。
「精霊灯、きれいに光ってますよ。修正した配置がちゃんと効いてます」
「メイラのおかげだ」
「いえ。——楽しんでくださいね。今日は」
メイラはそう言って、人混みの中に戻っていった。カイルが「おーい、メイラー! リンゴ飴食うかー!」と叫びながら追いかけていく。ハンナが「きゃー! カイル君がメイラさんに!」と興奮して走り去った。
気がつくと——レンとエルナだけが残されていた。
「……行ったな」
「行ったわね」
「あいつら、偶然じゃないだろ」
「ハンナの仕業でしょ。間違いなく」
沈黙。
精霊灯の光が二人を照らしている。祭りの喧騒が遠くから聞こえるが、この一角だけ——少し静かだった。
「えっと。——この後、どうする」
「……丘の上から花火が見えるって聞いたけど」
「ああ。打ち上げは日没後だ。あと——」
レンは口をつぐんだ。AIの話は禁止だ。「打ち上げ角度は風向きを考慮済み」と言いかけた。
「あと?」
「あと、きっと綺麗だと思う」
自分の言葉で。下手でもいいから。
エルナが前を向いた。精霊灯の光が、小麦色の髪と耳元の青い花を照らしている。
「じゃ、行こうか」
「ああ」
メインストリートを抜けて、丘へ向かう小道に入った。
人混みが急に増えていた。花火の打ち上げ時刻が近づき、見物客が丘に向かって移動している。石畳の道は狭く、人波に押されて前に進めない。
エルナが人波に押されて、よろめいた。
レンの手が——考えるより先に動いた。
エルナの手を掴んでいた。
「あ——」
「……はぐれるとまずい」
それだけ言った。
エルナの手は小さかった。パン生地を捏ねる手だ。指先にはいつもの薄い粉の跡がある。温かくて、少しだけ汗ばんでいた。
「……別に、はぐれないけど」
「万が一だ」
「万が一ね」
エルナは手を振り払わなかった。
人混みの中を、二人で歩いた。手を繋いで。
レンの心拍数が上がっているのを感じた。脈拍は——いや、計算するな。今日はAI禁止だ。数字も禁止だ。
ただ——エルナの手が温かい。
それだけわかっていればいい。
丘の上に着いた。
アルゴリズの街並みが一望できる場所だ。精霊灯の光が宝石を散りばめたように瞬いている。屋台の灯り、通りを行き交う人々の影、遠くに見える城壁とその向こうの秋の森。
風が冷たくなってきた。秋の夜の風だ。
二人は丘の草地に並んで座った。
手はいつの間にか離れていた。——レンが離したのか、エルナが離したのか、わからなかった。
「いい眺めね」
「ああ」
「あんたが作った国だよ、これ」
「……そうだな」
「すごいことだと思う。本当に」
エルナの声が——いつもと少し違った。辛辣さが消えて、ただ素直な響きだけが残っている。
「でも」
「でも?」
「あんたは国を作るのは上手だけど、射的は下手だし、服のセンスはないし、三時間前に来て突っ立ってるし、弾道計算で全部外すし——」
「そんなに並べるか」
「——でも、それが全部、あんたらしくて」
エルナが膝を抱えた。青い花が風に揺れている。
「あたし、ちょっと安心した」
「何にだ」
「あんたがまだ、下手くそだってこと。国を作っても、AIで全部できても——射的は外すし、誘い方は下手だし。あんたはまだ、あんたのまんまだって」
レンは黙った。
思い出したのは、ヴィクトルのことだった。完璧な言葉。完璧な文書。完璧な国。——でもリーネは「あなたの言葉が聞きたい」と泣いた。
自分は完璧ではない。射的は五発中ゼロ発だ。弾道計算は全く役に立たなかった。服は普段着のままだった。集合時間に三時間も早く着いた。
でも——それが「自分のまま」なのだとしたら。
「エルナ」
「何」
「今日——楽しかった」
AIが生成した言葉ではない。弾道計算のような精密さもない。ただの五文字。
エルナが顔を上げた。
「……急に素直じゃない。気持ち悪い」
「おい」
「冗談。——あたしも、楽しかった」
秋の夜風が丘を渡っていく。精霊灯の光が二人の影を長く伸ばしている。
遠くの広場から、花火の準備をする音が聞こえてきた。
「もうすぐ花火ね」
「ああ。——打ち上げ角度は」
「禁止」
「……綺麗だと思うよ」
「うん」
エルナの手が、草の上で——レンの手のすぐ隣にあった。
小指一本分の距離。触れるか触れないか。
レンは手を動かさなかった。エルナも動かさなかった。
でも——その距離は、今朝よりずっと近かった。
秋の星空が、二人の頭上に広がっていた。花火はまだ上がっていない。だが空はもう十分に——明るかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第49話「一緒に行かないか」。建国祭当日、レンとエルナの屋台めぐりデートです。
書いていて一番楽しかったのは、射的のシーンでした。「弾道計算」と言い出した瞬間にもうダメだな、と思いながら書いていました。コルク弾の初速を推定して放物線の頂点を合わせようとする男と、「普通に撃ちなさいよ」と一発で当てる女。この二人の関係がそのまま射的に出ています。計算で人の心は掴めない。でもレンはまだそれに気づいていない——いや、薄々気づいていて、だから今日一日AIを封印した。
占い師のシーン、「手の温度が高いですね」は書いていてにやにやしました。緊張で手が温かくなっている二人が同時に「違います」「違うわよ」。こういう息の合い方が、まだ自覚のない二人の距離感を表していると思います。
人混みで手を繋ぐシーン。レンが「考えるより先に手が動いた」というのが大事でした。AIに聞かず、弾道計算もせず、ただ反射で手を伸ばした。エルナが振り払わなかった。——それだけで、この二人の今の関係が全部わかる。
次話「花火と二つの涙」では、いよいよ花火のクライマックス。レン×エルナの決定的な瞬間と、ヴィクトル×リーネの対比、そしてメイラの一人の涙を描きます。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!




