第35話: 祝勝会と修羅場
翌日の夜。
冒険者ギルド一階の酒場は、普段の三倍の人口密度だった。
「かんぱーい!」
カイルのジョッキが天井に届きそうな高さまで掲げられた。中身のエールが弧を描いて飛び散り、隣のテーブルの冒険者に降りかかった。
「おい、こっちに飛ばすな!」
「細けぇこと言うな! 俺たちダンジョン攻略したんだぞ!」
酒場の空気が、笑い声とジョッキの鳴る音で満たされている。壁のランプが揺れ、木のテーブルにエールの染みが広がっていく。
ヴィントヘルム冒険者ギルド支部、初の祝勝会。
レンはカウンター席に座り、目の前のエールに手をつけずにいた。祝い事の空気は嫌いではないが、この騒がしさには処理能力が追いつかない。
「小僧!」
ガルドの声が、酒場の喧騒を貫いた。
巨躯の老人が、片手にジョッキ、もう片手に羊皮紙を持って近づいてきた。元Sランクのメダルが胸元で揺れている。酒が入ったせいか、声がいつもの1.5倍はでかい。
「ギルド本部から正式な通達が届いた。読み上げるぞ!」
ガルドが酒場の中央に立った。全員の視線が集まる。
「『パーティ・嵐の牙は、ダンジョン「深淵の迷宮」全層攻略の功績により、ギルドマスターの推薦に基づき、冒険者ランクをFからBに昇格する。なお、本件は四段階の特例昇格であり、ギルド史上——』」
ガルドが羊皮紙から顔を上げた。
「——五十年ぶりじゃと」
酒場が一瞬静まり返った。
次の瞬間、爆発的な歓声が上がった。
「FからBだと!?」
「四段階飛ばし!?」
「マジかよ!」
カイルが椅子の上に立ち上がった。
「Bランク! Bランクだぞ!!」
「カイル、椅子が壊れる」
「壊れてもいい! Bランクだ!!」
椅子が悲鳴を上げた。レンの忠告は無視された。
「ちなみにワシの若い頃は、FからSまで三ヶ月で駆け上がった。いや、二ヶ月だったか——」
「それ、絶対盛ってる」
レンのツッコミにガルドが咳払いした。
「——まあ細かい数字はどうでもいい。大事なのは結果じゃ。お前ら、よくやった」
ガルドの琥珀色の目が、レンを見た。厳つい顔の奥に、かすかな笑みがあった。
「Bランク冒険者として——高難度依頼や国家依頼の受注が可能になる。小僧、これからが本番じゃぞ」
「了解」
「がっはっは! 堅い返事するなぁ! もっと喜べ! 飲め飲め!」
ガルドがレンのジョッキにエールを注ぎ足した。もともと手をつけていないのに、量だけが増えていく。
***
祝勝会が盛り上がるにつれ、ガルドの武勇伝も加速した。
「——でな、ワシが若い頃に挑んだドラゴンは、体長が二十メートルあった。いや、二十五メートルだったかもしれん」
「先月は十五メートルって言ってなかったか」
レンが突っ込んだ。
「ドラゴンは成長するもんだ!」
「話の中で成長するドラゴンは初めて聞いた」
「がっはっは! 小僧は細かいことが好きじゃのう!」
ガルドが豪快に笑い、ジョッキを空にした。三杯目だ。顔は赤いが、目はまだ鋭い。この老人の肝臓はゴーレム製かもしれない。
カイルがレンの隣に座った。ジョッキを両手に持っている。右手と左手で交互に飲んでいる。意味がわからない。
「なあレン」
「何だ」
「Bランクって、どんな依頼があるんだ?」
「国家依頼や高難度討伐。あと、場合によっては他国からの緊急依頼もある」
「おお、すげえ! 他の国にも行けるのか?」
「行けるけど、まず書類を——」
「書類はどうでもいい! 冒険だ!」
「書類を軽視するとガルドさんに怒られるぞ」
「ガルドの親父だって書類嫌いだろ」
「ワシの悪口を言ったか?」 離れた席からガルドの声が飛んできた。地獄耳だ。
「言ってない!」
カイルが慌てて否定した。レンは呆れて首を振った。
***
祝勝会が始まって一時間ほど経った頃。
レンがカウンターで騒がしさから少し離れていると、横にそっと湯気の立つカップが置かれた。
「レンさん、お疲れ様でした」
メイラだった。
白いローブの袖口にインク染みがついている。ダンジョンから帰ってもう論文の構想を始めているのか。この研究者の仕事中毒ぶりも、なかなかのものだった。
「お茶です。レンさん、あまりお酒は飲まないでしょう?」
「助かる。ありがとう」
レンはカップを受け取った。薬草茶の香りがした。疲れた体に沁みる、穏やかな香り。
「ダンジョンでの経験、帰ったらまとめたいと思っています。『静寂の間』の魔力遮断特性は、既存の文献にない現象です。レンさんのスキルのログがあれば——」
「ああ、まとめてある。後で共有する」
「本当ですか!?」
メイラの目が輝いた。身を乗り出して——距離が近くなった。眼鏡の奥の淡いグリーンの瞳が、ランプの光を反射している。
メイラが気づいたように、はっと身を引いた。頬が薄く染まっている。
「す、すみません。つい……学術的な興奮で……」
「気にするな。データの共有は大事だ」
「……はい。データ、ですね」
メイラが小さく笑った。少し寂しそうな——いや、そう見えただけかもしれない。
メイラはカウンターに肘をつき、薬草茶のカップを両手で包んだ。
「レンさん」
「ん?」
「今回のダンジョン攻略、わたし——パーティの役に立てましたか?」
「何を言ってるんだ。メイラの分析がなかったら、深層のボスの弱点は見つけられなかった」
「……そうですか」
メイラの口元が、ふわりと緩んだ。穏やかで、柔らかい笑顔だった。ランプの光が眼鏡に反射して、一瞬、目の表情が見えなくなる。
「よかった。わたし、このパーティにいてよかったです」
レンは頷いた。何と返すのが正解かわからなかったが、メイラの笑顔は——なんというか、見ていて悪い気はしなかった。
その時。
酒場の扉が、勢いよく開いた。
***
「——お疲れ」
エルナだった。
エプロンは外しているが、袖口に小麦粉が残っている。工房を閉めてから来たのだろう。手に、布で包んだ籠を提げている。
緑色の瞳が、まっすぐレンを見た。
「……怪我、してないでしょうね」
「問題ない」
「本当に?」
エルナがずかずかと歩いてきた。レンの顔を覗き込む。目の下のクマ、頬の小さな擦り傷、袖口の焦げ跡——一つ一つ確認するように視線を動かした。
「……ならいいけど」
エルナが籠を差し出した。
「差し入れ。祝勝会やってるって聞いたから。新作のチーズパン」
「ありがとう」
レンが受け取ろうとした時——エルナの視線が動いた。
レンの隣にいるメイラを見た。
メイラもエルナを見た。
空気が——変わった。
酒場の喧騒は変わっていないはずなのに、レンの周囲だけ気温が二度ほど下がったように感じた。いや、イグニスが近くにいるから気温は下がっていないはずだ。物理ではなく、精神的な冷気。これは——何のバグだ。
「あら、メイラさん。お疲れ様」
エルナの声は、いつも通りだった。だが、笑顔の角度がわずかに鋭い。
「エ、エルナさん! お疲れ様です。チーズパン、美味しそうですね」
メイラの声は、いつもの1.3倍ほど高かった。
「よかったら食べてね。——レンの分だけど」
「え、あ、はい。ありがとうございます……」
レンはエルナとメイラの間に立ったまま、状況の分析を試みた。二人とも笑顔だ。会話は礼儀正しい。しかし、何かがおかしい。空気の密度が異常値を示している。
離れた席で、カイルがジョッキを傾けながら小声で呟いた。
「修羅場だ……」
その横で、イグニスが炎の球体のまま囁いた。
「面白いから黙って見ていよう」
「だな」
二人が——いや、一人と一柱が——酒場の片隅で実況態勢に入った。
「エルナさん、座りませんか? せっかくの祝勝会ですし」
メイラが隣の席を示した。それはレンとメイラの間の席だった。
「ありがとう。でもあたし、長居するつもりないから」
エルナはそう言いながら、しっかり座った。レンの正面に。
「レン」
「何だ」
「あんた、三日間ずっとダンジョンにいたのよね」
「ああ」
「ご飯、ちゃんと食べた?」
「携帯食料を——」
「携帯食料。あんたの言う携帯食料って、味のない固形物でしょ」
「栄養バランスは最適化されて——」
「味の話をしてるの」
エルナが籠を開けた。チーズパンの香ばしい匂いが広がった。焼きたてではないが、まだほんのり温かい。布で包んで保温していたのだろう。
「食べなさい」
「……いただきます」
レンが一口かじった。チーズの塩気と、パン生地の甘みが口に広がった。うまい。携帯食料とは、処理する情報量が違う。
「……うまい」
「そ」
エルナが視線を逸らした。口元がわずかに緩んでいるのを、隠すように髪を耳にかけた。
メイラが自分のカップを見つめた。
「……わたしも、今度何か差し入れを持ってこようかな」
「え? メイラさんも料理するんですか?」
「い、いえ、その……研究が忙しくて普段はあまり……」
「研究が忙しいなら無理しなくていいんじゃない? あたしが作ったもの、レンに渡せばいいから」
エルナの声は穏やかだった。だが、どこかに杭を打ち込むような響きがあった。
メイラの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……そうですね。エルナさんのパン、レンさんもいつも美味しいって言ってますし」
「へえ、いつも言ってるんだ。——あんた、メイラさんにはそういうこと言うのね」
エルナがレンを見た。
「何の話だ?」
「あんたの感想がいつも『うまい』の一言だって話」
「語彙の問題か?」
——違う気がした。語彙じゃない。エルナが言いたいのは、もっと別のことだ。だが、それが何かがわからない。
「語彙じゃなくて、態度の問題」
レンは首を傾げた。何を怒っているのかが、まったくわからない。メイラの前で「うまい」と言うことと、エルナの前で「うまい」と言うことに、何の違いがあるのか。
遠くの席で、カイルが酒を吹き出した。
「あいつ、マジでわかってねえ……」
「期待通りだな」
イグニスが愉快そうに炎を揺らした。
「お前ら、何を見てるんだ?」
レンが振り返った。
「何も見てない!」
カイルが慌ててジョッキで顔を隠した。
「ワシの若い頃は——」
ガルドが別の席から乱入してきた。
「——女三人に囲まれたことがある。いや、五人だったかもしれん」
「じいさん、それは今関係ない」
「関係あるとも! 色恋沙汰は冒険者の華じゃ! がっはっは!」
ガルドの豪快な笑い声が、酒場の空気を一気に緩めた。エルナとメイラの間に漂っていた緊張が——完全には消えないまでも——薄らいだ。
エルナが溜息をついた。
「……まあいいわ。パン、残しなさいよ」
「食い切るつもりだったのか俺は」
「あんたならやりかねない」
エルナが立ち上がった。
「帰る。明日も朝から仕込みだし」
「送ろうか?」
レンが言った。
エルナが一瞬、固まった。メイラも固まった。カイルが再び酒を吹き出した。イグニスの炎が心なしか大きくなった。
「……別に、一人で帰れるし」
エルナの声が、わずかに上ずっていた。
「そうか」
「そうよ」
「わかった」
「……」
エルナは何か言いたげに口を開いて——結局、何も言わず背を向けた。
酒場の扉が閉まった。
カイルがレンの肩を掴んだ。
「お前——今の、追いかけるところだろ」
「何が?」
「何がって——いや、もういい。もういい」
カイルが両手で頭を抱えた。
「この鈍感、AI使っても治んねえのかよ……」
「何の話だ?」
「何でもない! 飲むぞ!」
カイルがジョッキを掲げた。三杯目か四杯目か、もう数えていない。
メイラはカウンターで静かにお茶を飲んでいた。小さな声で、何か呟いた。
「……わたしも、パン、焼けるようになりたいな」
その声は酒場の喧騒に紛れて、レンには聞こえなかった。
***
深夜。
酒場の人口は半分以下に減っていた。カイルはテーブルに突っ伏して眠りこけている。ガルドは三人の冒険者を相手に武勇伝の第七章に突入していた。ドラゴンの体長は、いつの間にか三十メートルになっていた。
メイラは先に宿に戻った。「明日、論文の構想を始めたいので」と言い残して。去り際にレンを振り返り、「おやすみなさい、レンさん」と微笑んだ。その笑顔が——やはり少し寂しそうに見えたのは、ランプの光のせいだろうか。
レンはカウンターに肘をつき、ぬるくなったエールを眺めていた。
イグニスが肩口に浮いた。
「楽しかったか」
「騒がしかった」
「答えになっておらんぞ」
「……まあ、悪くなかった」
「素直じゃない男だ」
「お前に言われたくない」
レンはエールを一口だけ飲んだ。ぬるくて、少し苦い。
エルナが置いていったチーズパンの籠が、まだカウンターにあった。布で包まれた中に、二個残っている。
明日、礼を言いに行こう。
レンはそう思った。何と言えばいいかはわからないが——「うまかった」以外の言葉を、探してみよう。
語彙の問題ではなく、態度の問題だと、エルナは言った。
その意味は——まだ、よくわからない。
でも、わからないことに向き合うのは、最近少しだけ上手くなった気がした。
ダンジョンの暗闇で学んだことが、一つある。
わからないことは——わかろうとすることから始まる。
AIに聞けば答えは出る。でも、それは自分の答えではない。
自分の言葉で、自分の態度で、答えを探す。
不器用でも。非効率でも。
レンはチーズパンを一つ取り出して、かじった。冷めてもなお、エルナのパンには——何かがあった。データには出ない、何か。
その正体を掴むには、もう少し時間がかかりそうだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第35話「祝勝会と修羅場」。シリアスな深層編の後に、全力のコメディ回をお届けしました。
Bランク四段階飛ばしの特例昇格、ガルドの膨張し続けるドラゴン伝説(先月15メートルだったのに今回30メートルに到達)、そしてエルナとメイラの静かなる火花。書いていて一番楽しかった回かもしれません。
カイルとイグニスの実況コンビが大好きです。「修羅場だ……」「面白いから黙って見ていよう」——この二人、戦闘では命を預け合うパートナーなのに、恋愛観察では完全に野次馬です。そしてレンの「何の話だ?」に二人そろって「何でもない!」と慌てる。最高。
エルナの「語彙じゃなくて、態度の問題」という台詞は、レンにとっての最大の未解決バグです。「送ろうか?」と言ったのに、追いかけるべきタイミングで追いかけない。カイルの「この鈍感、AI使っても治んねえのかよ」は読者の皆さんの代弁かもしれませんね。
メイラの「わたしも、パン、焼けるようになりたいな」が喧騒に紛れて届かないのは、意図的な演出です。届かない声こそが、この三角関係の切なさだと思っています。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の執筆エンジンが回ります!




