第28話: 弁当は作りすぎただけ
「十人前……?」
朝食のテーブルに着いた瞬間、レンの目の前にパンの山がそびえていた。
カイルが顎の下まで頬張りながら、全く悪びれない笑顔で答えた。
「ダンジョン帰りは食わないと体がもたねえ」
「お前の体は別の生き物だと思う」
嵐の牙がヴィントヘルムに帰還したのは、昨日の夕刻だった。
深層第8層まで踏み込んだ探索を一旦切り上げ、補給と装備の修繕のために一時帰還。ギルドマスターのガルドに報告を済ませ、二日の休息を取った後、再びダンジョンに向かう予定だ。
レンは宿屋の二階で目を覚ました時から、カイルの言葉がまだ頭の中をループしていた。
——俺は人形じゃねえ。
あの夜から、レンの指揮スタイルは変わった。指示を半分に減らし、カイルとメイラの判断に委ねる場面を意図的に作った。
結果——戦闘効率は確かに落ちた。
第8層の攻略に、以前の1.4倍の時間がかかった。カイルが判断を誤り、イグニスが庇って軽い火傷を負った場面もあった。
だが、カイルの目が変わった。
指示を待つ空虚な目ではなく、自分で考え、判断し、動く目になった。戦闘後の拳合わせに、力がこもるようになった。
数字には出ない変化。
レンには、まだそれが正解なのかわからない。
パンをかじりながら窓の外を見ると、宿屋の隣の空き部屋から人影が出てきた。
白いローブ。丸眼鏡。薄い金髪——メイラだった。
両手に分厚い研究ノートを抱え、テーブルの空いた席に座った。ノートを広げると、ダンジョンで記録した魔力データの整理を始めた。数字の羅列と魔法陣のスケッチが、びっしりとページを埋めている。
「おはようございます、レンさん」
メイラが顔を上げた。丸眼鏡の奥のグリーンの瞳が、ぱっと明るくなる。頬がほんのりと赤い。寒さのせいか、それとも——
「おはよう。朝から研究か」
「はい! 深層の魔力データ、帰還中にまとめきれなくて。第7層と第8層で採取したサンプルの比較分析が途中なんです。レンさんのスキルが魔力場に与える影響が想定以上で——」
早口になっている。メイラの癖だ。興奮すると丁寧語が崩れかける。——ふと、メイラが自分の口を押さえるように手を上げた。視線が一瞬だけテーブルに落ちて、耳の先が赤くなる。何かを言いすぎた、と思ったような仕草だった。
「そ、それと、再突入の前に分析を仕上げておきたくて。第9層以降の魔力変動を予測するモデルも組みたいですし」
「ああ、明後日には出発だからな。間に合いそうか」
「はい! たぶん……! あ、それと昨日の夜に気づいたんですけど、イグニスさんの精霊力と深層の魔力濃度の相関が面白くて——」
メイラがノートのページをめくり始めた。
その時——
「あんた」
横から声が飛んできた。
レンが振り返ると、エルナが立っていた。
両手に大きな布包みの籠を抱えている。湯気がかすかに立ちのぼっている。焼きたてのパンの、甘く香ばしい匂い。蜂蜜と干し肉と、小麦の温もり。
エルナの頬が、朝の冷気で赤くなっていた。緑の目が、レンを見ている。
「これ」
エルナが籠を突き出した。
「え?」
「弁当」
「弁当?」
「ダンジョンに持っていきなさいよ。あんたたち、どうせまともなもの食べてないでしょ」
「いや、まだ明後日——」
「明後日でも持つように作ってあるの。保存用の惣菜パンと、干し果物と、水。——べ、別にあんたのためじゃないから。作りすぎただけ」
エルナの目が、レンの顔をまっすぐに見ている。ただし、耳の先が赤い。朝の寒さだけでは説明がつかない赤さだった。
レンは籠を受け取った。ずっしりと重い。五日分の行軍食が詰まっている。一人の「作りすぎ」で済む量ではなかった。
「ありがとう。助かる」
「……ふん」
エルナが視線を逸らした。
その視線の先に——メイラがいた。
メイラは研究ノートの上に羽ペンを置いたまま、固まっていた。
エルナも固まった。
空気が——凍った。
冬の朝の冷気とは別種の、肌を刺すような静寂。
メイラが最初に動いた。
「あ、エルナさん。おはようございます」
笑顔だった。丁寧で、柔らかくて、嫌味のない笑顔。
「お弁当ですか? 素敵ですね。手作りなんですか?」
「……ええ。まあ」
エルナの声が、平坦になった。感情を意図的に押し殺している声だった。
「朝早くから大変ですね。レンさんたちのために?」
「違うわよ。作りすぎただけ」
「そうなんですか。でも、すごくいい匂い。レンさん、よかったですね」
メイラの笑顔は、いつも通りに見えた。丁寧で、柔らかくて、嫌味がない。——ただ、その笑顔のまま、メイラの指がノートの端をぎゅっと握りしめていた。爪が白くなるほどに。
レンはそれに気づいたが、意味はわからなかった。寒さで手が強張っているのだろう、と思った。
エルナの耳が、さらに赤くなった。
「……っ」
声にならない声を呑み込んで、エルナが踵を返した。
「あ、エルナさん——」
メイラが追いかけようとしたが、エルナの背中は速かった。パン工房の方角に、早歩きで消えていく。
レンは籠を抱えたまま、二人の背中を交互に見た。
——何があったんだ?
状況が理解できない。データが足りない。エルナが弁当を持ってきた。メイラがそこにいた。二人が顔を合わせた。エルナが去った。因果関係は成立するが、エルナが去った理由のパラメータが特定できない。
「精霊でもわかるぞ、あの感情の揺れ」
背後から声がした。
イグニスだった。炎の球体が、レンの肩の高さでゆらゆらと浮かんでいる。いつの間にいたのか。
「……何の話だ」
「パン屋の娘、顔が真っ赤だったぞ」
「寒いからだろ」
「寒さであの色にはならん。数百年生きてきた俺を舐めるなよ」
カイルが宿屋の入口から顔を出した。口の周りにパンくずが付いている。
「だよな」
「筋肉バカにも見えるレベルだ」
「おい、バカは余計だ」
「事実だろう」
「……まあ、否定はしねえけど」
二人が頷き合った。奇妙な連帯感がある。
レンは二人を見た。
「何の話をしてるんだ?」
カイルとイグニスが、同時にレンを見た。
「お前モテるな」
カイルが言った。
「パン屋の娘だけじゃねえぞ。眼鏡のほうも、お前の前だとノート落としそうになってたの気づいてねえだろ」
「? メイラが? 手が悴んでたんじゃないか」
「……お前さあ」
「何が? アクセス数の話か?」
三秒の沈黙があった。
カイルが天を仰いだ。イグニスの炎が一瞬弱まった。
「……もう知らん」
「何がだよ」
「お前と恋愛の話をするのは、壁と相談するのと同じだ」
「壁?」
「壁のほうがまだ反応あるかもな」
カイルがため息をつき、宿屋に戻っていった。イグニスがぼそりと呟いた。
「鈍い男だ。ここまでくると芸術的だな」
「だから何の話だ」
「何でもない。——パン屋の娘の弁当、冷めないうちに食え」
イグニスは焚き火のようにぱちぱちと音を立てながら、宿屋の中に消えていった。
レンは朝の冷気の中に一人残された。
手の中の籠が、まだ温かい。
ふたを開けると、惣菜パンが整然と並んでいた。一つ一つ、大きさが揃っている。干し肉チーズ、木の実と蜂蜜、プレーン——三種類が交互に入っている。底には蜜蝋の布が敷かれ、横に干し果物の小袋と水筒が添えられている。
丁寧だった。
「作りすぎた」にしては、あまりにも丁寧だった。
レンの観察力は、パンの丁寧さには気づく。しかし、なぜエルナがそこまで丁寧にしたのか——その「なぜ」の先には、やはり届かなかった。
一つ手に取り、かじった。
温かい。外側のかりっとした食感の中に、干し肉の塩気とチーズのコクが広がる。パン生地そのものが甘い。蜂蜜の風味が、後から追いかけてくる。
「……美味い」
素直な感想だった。
朝の冷たい空気の中で、手の中のパンだけが温かかった。
***
午後。
ギルドの一階で、ガルドが再突入の準備について説明していた。
「第8層までの地図は更新した。おぬしらの報告を元に、魔獣の出没ポイントを追記してある」
ガルドの太い指が、テーブルに広げた地図をなぞる。
「再突入は明後日の朝。メイラの嬢ちゃんも合流するなら、四人パーティで問題ない。——ワシの若い頃は一人でダンジョンに潜ったもんじゃが」
「ガルドの親父、その話長くなるだろ」
カイルが先手を打った。
「……坊主、最近生意気になったな」
「レンの影響だ」
「小僧の影響か。ろくなもんじゃねぇ」
ガルドが呆れたように笑った。
レンは地図に目を落としていた。第9層以降——地図の空白が広がっている。第8層まではパーティの記録があるが、その先は記録が残らない領域。三百年間、誰も解明できなかった謎。
「ガルドさん。第9層以降の情報は?」
「ほとんどねぇ。第8層までは今回おぬしらが切り拓いたが、その先は——帰還した者の記憶が曖昧になる。わかっておるのは、魔力濃度がさらに跳ね上がること、そして通常の魔法が不安定になる可能性があること、くらいじゃ」
「通常の魔法が不安定に……」
メイラが眉をひそめた。
「精霊力にも影響が出るんでしょうか」
「わからん。だが覚悟しておけ」
ガルドの琥珀色の目が、四人を順に見た。
「第9層以降は——ワシの現役時代でも踏み込めなかった領域じゃ。油断するな」
「ガルドの親父が踏み込めなかったって——それ相当やべえんじゃ」
「やべぇんだよ、馬鹿者。だから言っておる」
ガルドが声を低くした。琥珀色の目が据わっている。
「一つだけ忠告しておく。深層で夢を見たら——絶対に、その夢の中で答えるな」
四人の空気が変わった。
レンが眉を寄せた。
「夢?」
「先人の記録にわずかに残っておる。第9層以降に踏み込んだ冒険者の何人かが——ダンジョンの中で夢を見た、と報告しておる。その夢の中で何かに応答した者は……帰ってこなかった」
メイラの手が、ノートの端を無意識に握りしめた。
「因果関係は不明じゃ。迷信かもしれん。だが——ワシはその手の迷信を笑った冒険者を何人も見送った。半分は生きて帰らんかった」
窓の外から、鳥の声が聞こえた。ヴィントヘルムの日常の音。だが、今のレンには遠くに聞こえた。
「……了解した。覚えておく」
「おう。覚えとけ」
ガルドが顔を緩めた。ほんの一瞬だけ見せた老冒険者の厳しさが、いつもの豪快さの裏に消えた。
レンはギルドを出て、宿屋に戻る道を歩いた。
通りは夕方の買い物客で賑わっている。冬至が近い——日の出が遅くなっている分、夕暮れも早い。パン工房の前を通りかかった時、窓の向こうでエルナが作業台を拭いているのが見えた。
目が合った。
エルナの手が止まった。
レンは立ち止まり、手を上げた。
「弁当、美味かった」
エルナの目が一瞬大きくなった。それから、ふいっと横を向いた。
「……当たり前でしょ。あたしが作ったんだから」
「自信家だな」
「事実よ」
エルナが作業台を拭く手を再開した。ごしごし。少し力が強い。
「明後日、またダンジョンに行く。メイラも合流する」
エルナの手が、一瞬止まった。ほんの一瞬。すぐに動き出す。
「ふーん」
平坦な声。あまりにも平坦な声。
「あんた、気をつけなさいよ」
「ああ。ゴーレムの修繕も済ませたし——」
「ゴーレムじゃなくて。あんた自身の話」
エルナが顔を上げた。緑の目が、真っ直ぐにレンを見ていた。
「あんた、自分のことは後回しにするでしょ。全部自動化して、全部最適化して、自分の体は放っておく」
「……そんなことは」
「ある。知ってる」
エルナの声は静かだったが、反論を許さない力があった。
「ご飯はちゃんと食べて。寝る時は寝て。怪我したら無理しないで。——それだけ」
エルナは窓を閉めた。
レンは閉じた窓を見つめた。
ガラスの向こうで、エルナが背を向けている。その肩が、少しだけ上がっているのが見えた。
……何かを言いたくて、飲み込んでいる。そんな背中だった。
レンの胸のどこかが、また鳴った。あの、名前のない振動。
頭を掻いた。
「……アクセス数でもないし、バグでもないし」
ぶつぶつと独り言を言いながら、宿屋に向かった。
ガルドの言葉がふと蘇った。——夢の中で答えるな。深層には、まだ誰も知らない何かがいる。
レンの足が、わずかに速くなった。
明後日だ。明後日、あの暗い通路の奥に、また潜る。
通りの向こうから、カイルの声がかすかに聞こえた気がした。
「あいつ、いつ気づくんだろうな」
風に紛れて、消えた。
レンの耳には、届かなかった。
——だが、背中にはまだ、エルナのパンの温もりが残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第28話「弁当は作りすぎただけ」。
前話の重いテーマの後に、三角関係コメディで一息入れる回です。エルナが持ってきた弁当が「作りすぎただけ」にしては五日分の行軍食がぎっしり詰まっていて、一つ一つのパンの大きさが揃っている。レンの観察力はその丁寧さには気づく。でも「なぜ」には届かない。この鈍感さ、書いていて毎回もどかしいです。
エルナとメイラが鉢合わせするシーンは、空気が凍る瞬間を丁寧に描きたかった場面です。メイラの笑顔は完璧——でもノートの端を握りしめる指の爪が白い。エルナの声は平坦——平坦すぎるくらいに。レンだけが「寒さのせいだろう」と天然のボケをかます。カイルとイグニスの「知ってた」コンビが見守る構図も気に入っています。
「アクセス数の話か?」——レンの的外れな返答に三秒の沈黙が流れるシーンは、このシリーズの恋愛パートの温度感を象徴していると思います。壁と相談するのと同じだと言われても、レン本人にはさっぱり意味がわからない。
ガルドの「夢の中で答えるな」という忠告が、次回以降の深層攻略への伏線です。ここから先は、AIの予測が効かない領域に入っていきます。
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