3、追放、ただし生活費を要求する
その日の夜更け、オーガスティンは自室で、無様な弟の残像を振り払えずにいた。
(……あんな声を上げれば、周囲を愉悦させるだけなのに、何故それが分からないのか……)
手に持ったグラスの酒を、オーガスティンは勢いよく煽る。焼けるようなアルコールが喉を通るが、胸の内の濁った熱は消えそうにない。
「……飲みすぎですよ、兄上」
声をかけたのは、次男のシエロだった。彼は窓辺に立ち、月明かりの届かない庭園を見下ろしている。その視線の先にあるのは、部屋主の戻っていない弟の部屋だった。
「酒でも飲まなければ、あの豚のような鳴き声が耳に張り付いて離れない」
「全くです。公爵家の品位の欠片もありませんでしたね。……ヨハンはあのまま食堂で一人、寝てしまったようです。今夜は冷えるというのに」
シエロが何気なく付け加えた言葉に、部屋の空気は凍る。
オーガスティンが鋭い視線を向けると、シエロは苦々しく口を噤んで視線を逸らした。
「……あんな愚か者に、毛布をかけてやる道理などない」
「ええ、分かっています。あいつが凍えようが、飢えようが、我々の知ったことではありませんね」
二人は、自分たちの言葉がお互いの心を刺していることに気づかないふりをした。
「明日、辺境へ送られるのですね」
「……ああ。1年……」
なにもできない弟が一人、凍える辺境で生活などできるわけがない。近い将来、弟に訪れる哀れな最期。二人はもう、何も言わなかった。
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深夜、アルマンの足取りは、いつになく重かった。
寝室へ続く曲がり角で、彼は不意に足を止め、壁に深く背を預けた。
「……カトラ」
影から現れたメイドに、アルマンは顔を向けないまま、掠れた声で問いかけた。
「あの宝石の衣の味はどんなものなんだ?」
「……底なしに不味いでしょうね。ついでに、パセリ、つけときました。坊ちゃんの嫌いな」
カトラが答えると、アルマンは自嘲気味に口角を歪めた。
彼は、自身の胸元から小さな、古びた革の袋を取り出す。
「これを、持たせてやれ」
渡された袋の中をカトラが確かめると、銀のナイフが入っている。
「……何もないよりはマシだろう」
アルマンは深く、重いため息をついた。
「旦那様。……何故今迄ほうっておいたんですか?」
「………」
カトラの問いにアルマンが、答えることは無かった。
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翌朝。
貧相な馬車へ、ヨハンは押し込まれた。
もう抵抗する気力すら残っていないらしく、昨夜の油の匂いと涙で汚れた顔のまま、膝を抱えて動かなくなった。
しかし、そのすぐ外で、対照的な光景があった。
身軽な旅装束に着替えたカトラが、無駄のない動きで荷物を積み込んでいる。
必要最低限、持ち出すことを許された荷物を、慣れた手つきで荷台に放り込み、ロープを締める。
その様子を少し離れた場所から見ていた長男オーガスティンが、静かに歩み寄る。
「……カトラ。お前まで行くのか? これはヨハンの追放だ。お前ほどの有能なメイドが、あんな僻地で無為に過ごす必要はない」
カトラは荷物のロープをギチリと締め上げ、感情の読めない瞳をオーガスティンに向けた。
「お言葉ですが、オーガスティン様、わたくし、亡くなった奥様に坊ちゃんの事、託されてますの」
「……」
「そんな簡単に死なれては、奥様に顔向けできませんし、私は坊ちゃんが、自分の無能さと、低能さを呪いながら、泥水をすすって生き延びる無様な姿を見たいのです」
「母上の事など……」
「私にとっては唯一無二のお方です」
カトラはそこで言葉を切り、ポケットから一通の書面を取り出した。
「ところで、オーガスティン様。現実的な話をしましょう。ヨハン様の生活費、および私の出向手当を含めた給与は、滞りなくお届けいただけますね?」
オーガスティンは不快そうに眉をひそめた。
「ヨハンは国家の秘宝を盗み、我が家に消えない泥を塗った人間だぞ。そのような罪人に、生活費など……」
「坊ちゃんが盗んだと確定していません。貴族法31条において『推定無罪』ご存知でしょう?」
カトラは彼の言葉を冷然と遮った。その口調は、幼い頃から共に育った同い年の男に対する、遠慮のない要求だった。
「罪が確定するまでは無罪として扱うのが法の鉄則。裁判もなく追放される彼を飢え死にさせるのは、『私刑』です。それをあえて実行すると言うのなら――」
カトラは無表情のまま続けた。
「私はフォークス家の誹謗、中傷、ついでにあなた達の下着の好みまで、貴族社会に吹聴してやりますわ」
「……っ、貴様……!」
請求書を突きつけるようなカトラの気迫に、オーガスティンの口角がわずかに引きつった。法と家の体面、そして低俗で致命的な嫌がらせ。彼が最も重んじ、かつ最も縛られている部分を、彼女は正確についてくる。
それでも、オーガスティンが拒絶の言葉を重ねようとした、その時だ。
「それともう一点。貴族法第26条だったかしら?【すべて貴族は教育を受ける権利を有する】」
カトラは追い討ちをかけるように畳み掛けた。
「週に最低でも一度、家庭教師を派遣してください。坊ちゃんはまだ学生です。なので、弟から『学ぶ機会』を奪って、再起の道まで完全に塞ぐようなこと、ならさらないで下さいね?」
「……っ」
オーガスティンは絶句した。
カトラの瞳が、「本当は彼を見捨てたくないのでしょう?」と、彼の心の奥底を見透かしているように感じたからだ。
「……わかった。月に一度、下男に金と給料を届けさせる。家庭教師も……俺の方で極秘に手配しよう。だが、それはあくまで死なせないための『最低限』だ。甘えは一切許さない。ヨハンには、己のしでかした現実の重さを骨の髄まで知らせる必要がある」
「承知いたしました。ご安心を。……あの男には、宝石の重みではなく、パン一つの重さ、しっかり叩き込んで差し上げますわ」
カトラは完璧な角度で一礼すると、一度も振り返ることなく、馬車へと飛び乗った。




