第20話 離別
「もう少し歩こうよ」
駅から降りて、いつもの公園へと二人向かっていた。予定では、駅で解散だったけどあたしが言った。
「ハナさん、ものすごく食べるんですね!」
ちょっとした延長戦に、カサネはすごく嬉しそうだ。足取りが軽い。反対に、あたしの足取りは重くなっていた。
「候補生、だからね」
「ハナさん?」
あたしの態度に違和感を覚えたのか、少し先を行っていたカサネが立ち止まる。重い足取りのまま、あたしはカサネの横を通り抜ける。
5月の夜風が、ぬるくあたしの頬をなでる。
「あたしが候補生になったのは、魔力を得たのは8年前」
足を止めないまま、過去を語る。
「カサネは知っているかな。第一種魔法災害があったの。第一種魔法災害は、カサネが遭遇した第二種魔法災害とはまるで違う。“魔女”が出る災害なの」
“魔女”。それは、カゲの上位存在だと言われている。
カゲは実体をもたない、不安定な存在だ。文字通り、影のように黒く不確かで、存在そのものが常に揺らいでいる。だから、強い魔法で攻撃するとあっけないくらい簡単に消えてしまう。
でも、魔女は違う。魔女はいわば「実体をもったカゲ」だ。カゲが寄り集まってできた、血肉をもつカゲ。
「魔女は他のカゲと同様にカゲを産む。でもそれは、人の死体を必要としない。魔女は自らの血肉でカゲを産む。魔女から生まれたカゲは、人を殺してまたカゲを産む」
ネズミ算だ。二次関数的に増えるカゲの群れは、町を、市を覆う大災害になる。
「あたしが住んでいる町に魔女が現れた」
目を閉じればすぐに思い出せる。いつも通りの日常だった。温かな家には優しいお父さんとお母さん、かわいい弟がいて、学校には面白い先生と仲のいい友達がいた。特別なことは何もないけど、大きな不幸もない。カゲによる魔法災害はテレビの向こうのどこか遠いところの話で、あたしには何も関係がないと思い込んでいた。
ありふれた、ささやかだけど幸せな日々だった。
「あの日、あたしは授業を受けていた。算数の授業だったかな。計算問題をみんなで必死に解いていた。その時、窓ガラスが割れる音がしたんだ」
あたしたちの教室は2階にあった。みんなが窓の方を向いた。いたのは猿のような姿のカゲだった。それは、窓際にいた一人の男子に触れた。あっけにとられて動けなかったその子は、何が起きたのか理解できていなかったと思う。急に体の力が抜けて、倒れてしまったのを覚えている。
「カゲが出て、先生が逃げろって叫んだ。だからみんな急いで廊下に逃げ出したの。カサネがカゲを見たのは、あの時が初めて?」
「はい」
「そっか。……廊下に出てあたしが見たのは、同じように教室に飛び出た子どもたちと、そんなあたしたちを待ち構えるカゲの群れだった」
狭い廊下に密集するカゲの群れ。あの非現実的な光景の恐怖は、きっと見たことがない人にしか分からない。
「あたしの頭にあったのは弟のことだった」
ハナはお姉ちゃんだから、ちゃんと弟を守るのよ。
母からの言いつけだった。1年生の弟の教室は一階。あたしはパニックになる友達を置いて、一人駆けだした。あちこちから悲鳴が聞こえる。待って、という友達に似た声に耳をふさいだ。
影をよけながら、階段を転げるように下りて、教室の前にたどり着く。カゲはあちこちいて、死体を苗床に自らの数を増やそうとしていた。心臓は痛いくらいにドクドク鳴っていた。
急いで弟を連れて逃げないと。そう思って扉を開けた。
そうだ。あの時、扉は閉まっていたんだ。
「教室の中には、死んだ弟がいた」
入口の扉に手を伸ばした状態で、弟は息絶えていた。虚ろな顔は出口を向いていて、あたしと弟の目があった。何も考えられなくって、あたしは固まってしまった。
固まっていたのはどれくらいの時間だったか。何かがあたしの中に触れる感覚がした。カゲがすぐ近くを通り抜けていった。
きっとこの時、あたしはカゲに触れ、魔力を得た。
「弟が死んだ。その事実をようやく受け止めて、あたしは学校から逃げ出した」
この時はまだ、カゲに触れられた事実に気付いていなかったから、死にたくなくて、弟のようになりたくなくて。ただただ走った。
どこを走ったのかは覚えていない。覚えているのは、町の中すら安全な場所はないということ。動物の形をした無数のカゲが、町を埋め尽くしていた。
「逃げて、逃げて、逃げ続けて、あたしの足が止まったのは、よく知る人の顔を見つけたから」
アスファルトの道路の上、熊の形をしたカゲがまたがり、苗床にしているそれは、あたしの母だった。母は虚ろな顔で空を見上げていた。買い物袋からは、弟の苦手を克服するために必要だねと話していたニンジンがこぼれ出ていた。
恐怖も絶望も、過ぎれば怒りに変わる。あるいは絶望から来る自殺のつもりだったのかもしれない。あたしは叫びながらカゲに殴りかかった。
でも、無力な小学生にカゲを倒せるはずがない。
「あたしが殴りかかったカゲは魔法をもっていたんだと思う。そいつは口を開けて、叫んだ」
衝撃派を伴うその声は、あたしを吹き飛ばして、あたしはそのまま意識を失った。
そこまで話したあたりで、あたしたちはいつもの公園にたどり着いていた。カサネはあたしの昔話をずっと静かに聞いてくれていた。
座ろうと言って、二人並んでベンチに腰掛ける。もう遅い時間だ。ジーッと街灯の明かりが音を立てる。
「あたしが意識を取り戻したのは、夕方くらいのことだった」
夕日が異様に赤く感じられたことを、今も覚えている。目覚めたあたしは全身痛くて、ぼろぼろだった。建物は壊れ、あちこちに大人の死体があった。
遠くから何かがぶつかり合う音が聞こえた。戦う音だと、あたしは分かった。
目の前には母の死体が変わらずあった。母が死んで、弟も死んだ。自分自身も痛くて痛くてしょうがなくて。
「途方に暮れて、泣いちゃった」
あれほどわんわん泣いたのは、きっと赤ん坊の時以来だ。母の死体にすがり、ただ泣いた。
「みんな死んでたんだ。誰も声を上げない。そんな中で大声で泣きわめくあたしがいた。だからだろうね。来たんだ」
遠かったはずの戦いの音が急速に近づいてきて、曲がり角からそれは飛び出してきた。
大きなヘドロの塊。はじめあたしにはそれがそう見えた。小学生だったあたしの背丈の3,4倍はあるだろう巨大な体は、真っ黒なヘドロでおおわれているように見えた。ブクブクに肥え太ったような体は、不格好な人の形を模しているように見えた。
象の足と見まがうようなそれを素早く動かして、何かから逃げるようにあたしの目の前に現れた。
『ッッッッッッッッッッッッッッッ!!』
それは全身を震わせる。ポコポコと泡立つ体から生み出されるのはカゲだ。獣の姿のカゲは地面に落下して、すぐ曲がり角の向こうへと消え去る。
魔女だ。そのヘドロの巨人がそうなのだと、幼いあたしは理解した。気づかないで。あたしと魔女との距離は20名ほど。そのままどこかへ行ってくれと願う。
だが魔女はあたしの泣き声に反応してやってきたのだ。目も鼻も口もない、粘土を雑に丸めて乗っけたような頭が、首を回すように動いた。魔女はあたしの方を向いたのだと、分かった。
『――』
どたどたと、不格好な動きで魔女が近づく。魔女が間近に迫る。臭いはなかった。ヘドロの腐ったような臭いも、鉄臭い血の臭いもない。実体を持った「無」があたしに手を伸ばす。泡立つ腕からは獣の形のカゲが生まれてはやり直すように消える。
死ぬんだと、あたしは思った。このまま魔女に殺されて、おしまい。弟とお母さんのところと同じところに行ける。
諦めと、ひとつまみの安心と。魔女の手のひらがあたしの頭を握りつぶそうとしたときだ。
「それで、どうなったんですか?」
「魔女の手があたしに触れることはなかった。その手は、あたしに触れる前に、切り落とされたんだ」
それは鮮烈な光景で、あたしの目に焼き付くことになった。
魔女の手が落ちるのと、声にならない絶叫が響き渡るのは同時だった。あたしの近くには同じ年ごろの女の子がいて、手に光る剣を持っていた。
彼女は苦しむ魔女を一瞥して、へたりこんだあたしに目を向けた。
異様に赤い夕陽を背にした彼女は傷だらけだった。体のあちこちをぶつけたり、切ったりして、泥や血で汚れていた。ぼろぼろなのはあたしと同じだった。
あたしは忘れない。彼女は――まだ幼いアヤノは、微笑んであたしに手を差し伸べたのだ。
「大丈夫かって。もう安心していいよって言われたんだよ」
なんてことない一言だ。でも、アヤノは死の間際にいたあたしを救ってくれた。そんなアヤノのかけてくれた言葉は、あたしの心も救ってくれたような気がしたんだ。
あとは語るべきことはない。当時まだ候補生として新米だったアヤノは、他の聖女と協力して魔女を討伐した。
あたしは魔力をもっていることが分かって、養成学校に入ることになった。
逃げているときに唯一出会えなかった父もまた、災害の最中亡くなっていた。
あたしはカサネに聖女としてはありふれた、そんなつまらない話をした。
*
話し終わって、カサネはしばらく無言だった。太陽の沈み切った空には、ぽつぽつと星が見え始めている。
「……どうして、カサネにその話をしてくれたんですか?」
「知っておいてほしかったんだよ。あたしのことを」
この話をしたのはアヤノだけだ。他の誰にも話したことがない。
「あたしがいるのは、簡単に人が死んでしまう世界で、だからみんな必死なんだよ」
戦う理由は何かと桐山さんは聞いた。理由なんてものは一人ひとり違う。でも、何か理由を見つけていないと戦えないんだ。復讐。憧れ。使命感。どんなものでもいい、カゲと向き合っても戦って生きるためには、理由が必要なんだ。
あたしの戦う理由は、あの日アヤノに救われて、憧れたから。今はそれだけじゃなくて、カサネのような子を守りたいって気持ちもあるけれど、でも。
「あたしがほとんど毎日カサネに会えていたのは、あの時大けがをして、療養していたからなんだよ」
隣で、息を吸い込む音。触れあう距離のカサネの体がこわばる。
「この間ね、桐山さん……あたしの上司にあたる人に、任務に復帰するように言われたんだよ」
「それ……は」
カサネがベンチから立ち上がる。座ったままのあたしと正面から向き合う形になる。
カサネの顔は真っ青になっていた。
「ハナ、さんは……それを」
「うん。了承した」
ぎゅっと、カサネの顔が辛そうに歪む。言葉を押し込めるように唇は固く結ばれ、決して開くまいと震えている。
戦う理由を聖女たちは求められるけど。
――戦わないでいられる理由は、聖女たちにはない。
「会えなくなるわけじゃないんだよ。そこは勘違いしないでほしい。もちろん、カサネのことを軽んじているつもりも……」
「そう、ですよね」
こみ上げてくるものをこらえきれなかったようだった。カサネの固く閉じた口から漏れ出た言葉は、聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。
「ハナさんも、いなくなる。カサネには、結局」
「カサネ」
「帰ります」
強い口調で、カサネはあたしの言葉を遮った。髪の毛に隠れてカサネの表情が見えない。
「待って、まだ話は」
「今日はすごく、すごく楽しかったです」
そう言ってカサネは駆けだしてしまった。呆然としてしまったあたしは、カサネの姿が見えなくなってからようやく探し始めた。
でも、土地勘のない夜道で、一人の女の子を見つけることは、あたしにはできなかった。




