98.おまけ:h02
――――は?
ハンゼンは困惑していた。
目の前の男は何を言っているのだ、と。困惑していて出遅れた。手渡しで渡していた瓶が危うく手のひらから滑り落ちてしまう所だった。
それはあまりにも突然で、あまりにも前後がない。突然の告白に、落ち着いていた心臓が早鐘打つ。
長くさらさらとした綺麗な白髪は、ハンネの頬を滑り落ちて化粧水でつながっている手の上へと零れる。普段は薄く開いている目許は白い睫毛に覆われてとても神秘的だと思っていた。それが、今ではしっかりと薄いピンク色の瞳をこちらに向けている。ただでさえ、とんでもなく綺麗な顔をしている男だ。それがまっすぐとハンゼンを捉えてまっすぐに告げてくる。
彼はいつもこうだった。言葉が悪いのは照れ隠しからなのも分かっていたが、真剣な話ほどまっすぐなのだ。大切なときだけはまっすぐに伝えるばかりでその真意などくみ取れなかった。
『製薬活動をやめなければ婚約を解消させる』
昔彼に言われた言葉を反芻する。彼はハンゼンのただれた腕を見てそう告げてきた。それは衝撃的で、まっすぐであまりにも残酷な一言だった。
今まで、彼のために費やしてきたというのにそれはあまりにも胸を裂く気持ちだったのだ。それを思い出してしまうと、服の下で古傷がうずく。
ハンネに付き合ってほしいと言われて、嬉しくないわけがない。だが、あの時にやるせなかった感情もまだ残っている。
婚約解消から王城で働いていても顔を合わせないようなルートを使ってできるだけ避けていた。それでも、遠くで特徴的な白を見かけたり真っ黒いフードを目深くかぶっているその姿を見てしまうと、どうしてもダメだった。疼いた恋心は震えてしまうばかりで、押し込めた感情が溢れてくる。そうして、やっと少しは過去にできたかなと思った瞬間に、今の雇い主の力によって引き合わされたのだ。
過去にできただなんて嘘だった。
たまらなく好きだった。
たまらなく愛しかった。
5年間、ハンネに頼んで試薬品を使用してもらうたびに顔を合わせては、溢れる感情を抑えられているとは思えなかった。
震える声を必死でまっすぐに整えて、彼と向き合っていた。それを簡単に彼は超えようとしてくる。
それがたまらなく悔しくて、それでもどうしようもなく苦しくて、疼く腕をきゅっと掴むと、ハンゼンはそっと化粧水の瓶から手を放す。
「少し、考えさせろ」
本音を言ってしまうとその腕の中に飛び込みたい気持ちがある。
知ってしまっているのだ。彼の手の大きさも、温もりも、優しさも。それでも、一瞬でも冷静にさせるのはあの時の苦い思い出だ。
すぐに答えられない自分が嫌だ。視線をそらしてしまう己が惨めだ。こんなにハンネを思っているというのに、こんなにもハンネを求めているというのにそう簡単に事は進まないのだ。
5年間だ。
5年間、大きな進歩はなかったのだ。
化粧水が出来るまでは、彼が試験体になってくれた。接触と言えばそれと雇い主についての話をするくらい。
お互いがお互い、意地を張っているので会話という会話も特になかった。ただ、毎日送られるハンゼンをイメージした花束は、5年間の彼の気持ちを表しているというのだが、あまり多くない接触でも、それだけ感情表現を表してくれていた。
分かっている。
彼がマメ男なのも知っている。
ハンゼンを今でも好いてくれているのは、その揺れる淡い瞳できちんと理解しているし、毎日マメに表す感情表現でも理解していた。ただ、それ以上の1歩を踏み込めなかった5年間があっただけだ。
すっかりと年齢を重ねて、令嬢としては既に行き遅れ。何よりも、辺境の地へと赴いては変わらず薬やら毒やら草やらを弄り回している変人。例え、公爵令嬢であってもマイナスばかりだ。なによりも、婚約解消をされた案件もあるので尚更嫁ぎ先が見つからなかった。
しかし、ハンゼンは別段悲嘆にくれてはいなかった。その理由としても、同じ領地にいるハンネのお陰とも言えよう。彼が向けるその眼差しも感情も分かりやすくハンゼンを思っていたし、ハンゼンだってハンネが好きだった。それは変わらず好きなのだ。幼い頃からずっと。
「あら、ハンゼン様お越しでしたのね」
鈴を転がすような、ここで暮らしてからはよく耳にする可愛らしい声が、ハンゼンを呼び止めた。
そこで初めてハンゼンはハンネの部屋を後にしたのに気がつく。無意識にエステマリア邸の中庭を歩いていたようだ。たまたまその邸の主がガゼボでお茶を飲んでいたしい。
お茶をソーサーへと下ろし、若い侍従見習いが彼女の椅子を引く。ゆっくりと椅子を降りて判然の元へ。
彼女は最近になって洗練された動作仕草が更に磨かれており、ただでさえ可愛らしかった見目に美しさがプラスされ、まだ10歳だというのにこの世と思えない美貌の少女。
「ああ、リアラ嬢。お茶の最中だったのかい?邪魔したね」
ハンゼンがいつもの粗暴な口振りでその少女――……リアラ・エステマリア伯爵令嬢に声をかける。そんなハンゼンの態度でも、リアラは気にも止めない雰囲気で朗らかに笑みを浮かべた。
元王子であり、現状1代限りの公爵であるリドクリフ・ソングラインと婚約が決まっているとはいえ、その立ち居振る舞いは、既に王都にいる貴族社会でも随分と有名人である。時折、娘に興味を持たない両親からも「リドクリフとリアラによく仕え、こちらにもパイプを繋げよ」と、くだらない手紙を寄越すくらいには、年端もいかないというのに、彼女は社交界ではすでに注目されていた。
更には、まことしやかに囁かれているもう噂のひとつによって、また盛りに盛りあがっているのも現状だ。
それが、リドクリフとリアラの婚約は契約婚であり、リアラが15になれば解消されるというものだ。その為、彼女を虎視眈々と狙う大人も少なくない。近年までエステマリアの悪評を面白おかしく口にしていたと言うのに、次に飛び出てくるのは、リアラの婚約先の話。たまに戻る王都でも、リアラと縁を繋ぎたくて声をかけてくるものも少なくなくなった。なんだったら、それを目的として王都へ用事で顔を出した時に、ハンゼンに近寄ろうとする者も現れたのだ。しかも、ハンゼンは公爵令嬢ということもあり、その価値が上がり始めている。
きっと腕に爛れた傷跡があると分かれば簡単に引いていくし、こんな年になるまで泳がせておいて何がしたいのか。マイナスばかりだと言っていた口で口説いてくるのは気持ちが悪いものだった。
ハンゼンの噂や態度などそういうのとは関係なしに信じてくれたこの目の前の少女に、大人たちは悪意を向けさせないようにすることで必死である。そしてその中には勿論、ハンゼンも入っている。
「いいのよ。これも兄さんの給仕練習だもの」
花のように笑う彼女の斜め後ろで、幼い従事見習いの青年の表情が崩れた。彼は、最近入ったばかりだと聞く。元々、リアラが5歳まで暮らしていた家の息子さんで、リアラの下に就きたくて必死で面接を受けて通ったと聞いた。素行も態度も愛想もよく、よく働き、理解をしようとする姿は邸全体の使用人からも好印象だ。ただ、まだ慣れてないのか、礼儀作法などは練習中で初々しさを感じる。
「そうか」
「ええ、だから私とこれからお茶しませんか?ハンゼン様。ひとりは寂しいと思っていたところなの」
そうして、幼い邸の主にハンゼンはお茶に誘われてしまった。本当は彼女が声をかけたら秒で頷くような大人を知っているのだが、それを言うのは野暮だろう。ハンゼンは、リアラの言葉に苦笑を浮かべれば素直に誘われたガゼボの席へと腰を落ち着かせた。




