第四十八話 二人きりの水族館
平日の水族館の周りは恐ろしく空いていた。
俺と芽依と除けば、ほとんどが大学生のカップルだろう。傍からしたら、俺らも同じ風に見えているのかもしれない。けど、制服を着ているから、大学生というより、高校生のカップルに見えるだろう。
初夏というのもあり、空は澄み渡っていて、日差しが優しく俺らを包み込んでいる。
俺がチケット売り場に行って、二人分のチケットを買おうとした。
「自分の分は自分で出すよ?」
芽依は少し戸惑って、俺に話しかけてきた。
「いつも支えてくれたから、日頃の感謝の気持ちを込めて俺に奢らせて?」
「いっき、お金足りるの?」
「貯金全部持ってきたから大丈夫だよ」
「……」
なぜか芽依は黙ってしまった。
俺はチケット代二枚分の金を出して、芽依の手を引いて、水族館の中に入った。
中に入ってみても、外と変わらないくらい空いている。昔、家族ぐるみで芽依と来たときはすごく混んでいたし、はぐれないように母ちゃんは俺に芽依の手をつないでいるように言ってた。
だが、今回は違う。俺から芽依の手を引いている。芽依の手は暖かくて柔らかい。そしてなにより小さかった。
こんに小さかったのかなと、俺は記憶をたどった。いや、昔の芽依の手は俺の手の大きさとほとんど変わらなかった。
俺の手が大きくなっただけなんだな。いつの間にか、俺と芽依は大きくなって、なにも知らない子供ではなくなっていた。
「とりあえず、回ろうか」
「うん!」
俺がリードするつもりだったけど、芽依ははしゃいで、繋いだ俺の手を引いて水族館の中を歩き回った。
入口付近は小さな水槽がたくさん並んでいた。中には微かに光るクラゲ達が舞っている。水槽ごとにクラゲの種類が違うから、見える光の色も異なってくる。
最初は青く光るものだと思ったら、次の水槽は黄色く光っていた。少し生物の神秘さに触れた感じがして、俺は陶酔しかけていた。こういう言い方をするのには理由がある。陶酔しきる前に、芽依がおかしな発言をしたからだ。
「おいしそう……」
芽依のほうを見てみたら、彼女が水槽に見入るように張り付いてた。それでも、俺の手を離さなかったのは俺がどこかに行ってしまうんじゃないかという不安からなのだろうか。理由は分からないが、なぜかそう思ってしまった。
俺はいつも通りに振舞おうとしているのに、なぜか芽依にすべて見透かされている感じがする。気のせい……かな。
「クラゲには毒があるんだよ?」
「これだからいっきは勉強不足なんだよ!」
芽依はどや顔して俺に向き直った。
「すべてのクラゲが毒を持っているわけじゃないよ?」
「へー」
「あと、クラゲには脳がないから、全身が筋肉でできているの!」
「そうなんだー」
「だから、食べやすい!」
俺の感動を返せ! 芽依の説明を聞いてうっとりした自分がバカみたいに思えてくるほど、芽依の最後の言葉が俺に現実を押し付ける。この子はド天然だ。
なんでそんなにクラゲに詳しいのに、学校の成績は芳しくないのだろう。俺はふと思ってしまった。
「食べるかどうかは置いといて、クラゲはほんとに触手が多いな」
芽依ワールドから芽依を現実に連れ戻すために、俺は話題を変えた。だけど、これは失敗だった。芽依ワールドは食べ物だけでは構成されていなかったのだ。
「触手! いっきは何考えてるのよ!」
「いや、普通に感心しているだけだよ?」
「嘘だ! 絶対えっちなこと考えてるでしょう! やだ、いっきの変態! そんなプレイはしないから!」
「君、どこでそんなことを覚えたの?」
「雑誌?」
「その雑誌を今すぐ捨てろ!」
「えーっ、やだよ」
芽依はすごく嫌そうな顔をした。芽依の親って放任主義なのかな。芽依がいかがわしいものを買ったら没収してくださいよ……俺は芽依の親の教育方針に疑問を感じた。
「とにかく、しょ、触手なんかで変なことしないから安心して」
口に出すだけでも憚られる。芽依のせいで、俺はすっかり触手をわいせつな言葉だと認識してしまった。
「ほんとに……?」
なにをそんなにビビっているの? なにかトラウマでもあるのか? まさか雑誌のヒロインを自分の同一視しながら読んでたわけじゃないよね……いや、それが理由としか考えられない。今度芽依の部屋に行ったら大掃除しよう。
「ほら、俺に触手はないだろう?」
俺は繋がれていなかった側の手を開いて、芽依に見せた。
「ほんとだ……」
子供と話しているのか、熟している女性と話しているのか分からなくなる。調子狂うな……
クラゲに興味をなくしたのか、芽依は俺の手を引っ張って、ジンベイザメの入ってる水槽のところに移動した。
「でかい!」
「なにがだ?」
もうだめだ、芽依の言葉を一々意味深に考えてしまう。
「ジンベイザメがだよ! あっ、下から見るとエイみたいだね!」
「そんな狂暴なエイなんていないよ」
「いっき、知らないの? ジンベイザメはとてもやさしいよ?」
「やさしい?」
「そうだよ。おとなしいし、実は臆病なんだよ!」
「知らなかったー」
「迫力がすごいから、狂暴だと思われがちで、ほんとはとてもいい子なの」
君はこのジンベイザメのお母さんかなにかかなと思わず内心でつっこんでしまった。
「だから、水槽の中に入ってエサをあげる飼育員も安全だよ」
「すごいな……」
これは芽依の博識に対する感嘆だった。今日は久しぶりに芽依の知らない一面を知ってしまった。
次、次という感じで、芽依は熱帯魚のコーナーに足を運んだ。
「カラフルだな……」
見とれて、声が漏れてしまった。
「この中に私のパンツの色はないから、変な想像しないでよね!」
「してないよ!」
ほんとに、俺はどんな目で芽依に見られてるのかな。確かに前は胸が大きいところが好きとか冗談めいて、いや、真剣に言ったけど、ここまで思われるとは思わなかった。
でも、パッと見て、赤、黄色、緑、白、水色などがあったから、この中にない色と言えば……嘘だと言ってくれ! まさか、芽依は黒とか紫とかのパンツを履いているの? 思わず悲鳴をあげたくなる。いや、ピンクの可能性もある。諦めてはいけない。
ただ、すべてがピンクな可能性が低いよな……そう考えると、俺は頭を悩ませた。芽依の下着も今度から俺が選ぼうかな。
そのあと、俺らは水族館の醍醐味であるイルカショーにやってきた。迫力が違うという理由で、芽依はわりと前の席に腰かけた。
手がつないでるから、俺には拒否権もなく、芽依の隣に座った。
イルカショーが始まるとたん、俺は芽依の言葉を理解した。ほんとに迫力が違う。トレーナーの合図に従って、何匹かのイルカが一斉にジャンプしたり、タイミングをずらして、尻尾だけを水面に出したりした。それを見て俺は感動してしまった。
「いっき、知ってる? イルカはほんとは魚じゃなくて哺乳類なんだよ!」
「それなら水族館じゃなくて、動物園にいるべきなのでは?」
「いっきってもしかしたら天然?」
素直に感想を述べると、一番言われたくない人に天然と言われてしまった。なんか喪失感みたいな感情を覚えてしまった。
「にしても、ほんとにすごいな」
「いっきって語彙力なさすぎ!」
天然じゃないって否定する人間はだいたい天然だから、俺は敢えて否定せずに話題を変えた。それが裏目に出たのか、今度は語彙力をバカにされた。でも悪い気はしない。隣でクスクス笑っている芽依を見て、俺まで嬉しい気持ちになってくる。
「では、最後はイルカちゃんたちから、観客様へプレゼントをあげてもらいます!」
トレーナーがそういうと、イルカたちが近辺まで泳いできて、勢いよく水をこっちに向けて弾いた。
その結果、俺と芽依はずぶぬれになってしまった。
「いっき、びしょびしょだよ……」
「前の席に座るから……うっ」
しゃべりながら芽依のほうに向くと、俺は思わず言葉が途切れてしまった。芽依は夏の制服が透けてとても色っぽく見えた。く、黒だ……俺の不安が的中してしまった。
悩みを忘れて、気分転換に来たはずなのに、俺の煩悩は却って増えていった。




