2-19 ドレスアップ
当日は、朝から実に大変であった。
日が昇るとともに叩き起こされ、たっぷりの香油を垂らしたお湯で身を清めると、肌触り重視の襟周りの緩いシュミーズをかぶせられ、さっと拭った髪を邪魔にならないようにまとめる。
オーバーニータイツはいつもと同じだけど、落ちてこないようにと結ぶガーターリボンが、無駄におしゃれなレース付きで、地味に結びにくかった。
この上に、いつもなら、ペチコートと簡易版のコルセットに縫製済みの楽なワンピースドレスで終了だが、今日はそうはいかない。
侍女が三人がかりで周りを取り囲んだかと思うと、一番背の高いアレットが、わっさわさのレースがふんだんに縫い付けられたドーナツ状の布を、リリの頭の上からかぶせた。
皆の衆。ドレスって昔から変わらずワンピース型だと思っている人、多いんじゃないだろうか。かくいうリリは、ずっとそういうものだと思っていた。
凜々子時代、音高の文化祭で創作オペラをやるクラスメイトの備品探しを手伝った際、ヴィクトリア風のドレスが沢山出てきて、女子みんなで盛り上がって着せ替えごっこをしたことがあった。
これは背中がパックリ開いていて、上から足を入れて袖を通して背中の編み上げを編み上げればいいだけのものであったり、あるいはデザイン的に、脇の方にホックがあるやつとか、とりあえずどれも簡単なワンピースタイプで、着るのにもそんなに苦労はしなかった。スカートのふくらみも、プラスチック製のパニエで十分だ。
だから知らなかった。昔のドレスがツーピースタイプで、ゴムもなくホックもなく、伸縮性の悪い布をひたすら紐を結びまくって着付けねばならないという、その大変さを。
まず身に付けたのはアンダーペチコート。良く考えればこの世界は土足文化だし、上に上にとふんだんにフリルを盛りつけてボリュームを出してゆくドレスは、スカートを“下からはく”という概念が無いのだ。なぜかスカートも上からかぶって着る。
スカートは袴みたいに脇が少し開いていて、後ろ身頃の紐を前で結び、前身頃の紐を後ろで結ぶ。
その上からコルセット。どうせ人目になんて触れないところなのに、無駄に刺繍やレースがあしらわれた豪華なものを、今度は力自慢のユリーが後ろに回ってぎゅうぎゅうと締め付ける。
幸いにしてワイヤーが入っているようなきついタイプじゃないので痛くはないが、和服の帯を締められる感覚に近い圧迫感に、華奢なリリは引っ張られるがままにふらふら動いてしまって、「じっとしていてくださいませ!」と、何度も怒られた。
しっかりと上半身のラインが出来上がると、次はモコモコの綿入れが腰後ろに括りつけられる。腰の後ろとお尻をカバーするそれは、パッと見座布団みたいで絵面が微妙なのだが、これがいわゆるスカートの後ろにボリュームを出すためのパニエになる。
正直これがあると椅子の背もたれにだらっともたれかかれなくなるので嫌なのだが、無いとそれはそれでドレスアップした際のボリュームが貧相になるので致し方ない。
そしてこの上に、またも二度目のアンダーペチコートが出てくる。今度はたっぷりとフリルが縫い付けられたばっさばさのものだ。
パニエの上に、更に足元までふんわりしたボリュームを保ち、かつラインを美しくするための補正ペチコートである。
これでようやく下準備が終わりで、続けて、びっしりとレースが縫い付けられた前当てをコルセットのボタンに留めて固定すると、内側に大量のチュールを縫い付けてボリュームを出した、同じレースを縫い付けたスカートをばさっと着せられ紐を括る。
更にこの上に、前が見開きになっているガウンを羽織って、前当てと前身頃、スカートのサイドとをリボンを結んでとめてゆき固定。首元のはみ出したシュミーズはコルセットの中に突っ込まれ、肩のラインを綺麗にすると、ガウンの二の腕の袖口のリボンをきゅっと結んで、ひらひらとした袖のレースを整える。
もうすでに何枚着込んだのか分からないくらい着込んだが、まるで鎧でも着込んでいるようながんじがらめの感覚とは裏腹に、広く開いた肩や、締め付けの緩い胸元の柔らかなデコルテが、とても軽やかに見える。
ここまで三十分。すでにリリの体力はくたくただった。
「くるしい……」
「動いている内に少し緩んで楽になりますよ。ほら、それより此方へ。髪を整えます」
まだ続くのか、とげんなりしながら、ユリーに手を引かれてドレッサーの前に腰かける。
「ドレス、少しお直しをお願いしてただけなのに、ちっとも見覚えが無いものになってない?」
「基本は元あったものの再利用でございますよ。スカートは、本日は足元が隠れる丈でなければなりませんでしたから、裾にレースを足して誤魔化してあります」
カレッジの舞踏会はダンスの採点も兼ねているので、足さばきがちゃんと分かるように、くるぶし丈のドレスだ。それ以外にも、お茶会や夕方に終わる社交ならばこの丈になるが、夜の催しだと、ヒールをはいて、かつきちんと立って裾がギリギリ床に触れないくらいの丈になる。
なので足りなかった分、早急にレースを縫い付けて誤魔化したそうだが、まるで元からそういうデザインだったかのように見事に調和していた。
「ガウンの装飾は元は黄と紺でしたが、本日は旦那様がエスコートなさるとのことでしたので、旦那様の正装の色目にあわせて、すべて取り外して、こちらのブドウ色のベロアのリボンに縫い直させていただきました」
少し青味を帯びたつやつやとしたシルク地に、上品な赤紫のフリルとリボン。リボンはかわいらしすぎないようアレンジされた華やかな結び目に、シャンパンゴールドの刺繍がびっしりと縫い付けられた立派なもので、同じ色のフリルで覆われた長い袖口や、胸元のレースやらがとても上品だ。
深みのある濃いベロア地が、柔らかい雰囲気だったカレッジの舞踏会用の衣裳を、ぐっと大人っぽく社交向きに変えていた。
「すごい。たったの二日やそこらで……」
「年越しのパーティードレスの予備にと発注していたリボンだったんですが、思わぬところで役に立ちました」
そうクツクツと笑いながら丁寧に髪にブラシをかけるユリーに、あぁ、そういえば、とぼやいた。
この国では毎年年の瀬、王都の貴族達はお城の傍の大教会に集まって、年越しのミサに出席する。
大人たちはそのまま城の舞踏会場に雪崩れて行って、夜明けまで飲んで騒ぎ、日が昇ると共に国王に拝謁する儀式となり、子供達や母親たちは日が昇る前に家に帰り、家族で年明けを祝う。
この日は所謂舞踏会なんかの華やかな場というより、神に一年の終りと始まりの挨拶をし、国王に拝謁する儀礼的な集まりだから、貴族達は必ずそれぞれの家の役職などに従って、正装をする。
王族は青紫の綬をかけた最も格の高い装いを。文官は赤、武官は青、役職を持たない封領貴族は緑、封位貴族は黄。リリの家は毎年、艶っとした白っぽい地に赤紫系の色合いの刺繍や装飾を施した装いになる。どうやらこの赤紫系の色が、教会家門の色なようだ。
あとは位が高いほど、色が濃くなり、低いほど薄くなるという感じか。
今更だけど、この重たいベロア地の濃い赤紫をふんだんにあしらった装いは、教会家門でも最たる家柄を示す色だったのかと理解した。
ただ今日はあくまで式典への参加であって、年末年始の儀式ではないから、フリルやリボンは赤紫だけれど、所々のレースは淡いシャンパンカラーで統一してあって、少し柔らかい色味になっている。
スカートの裾には赤紫の刺繍。ガウンのオーバースカートは後ろで絞って大きなコサージュとリボンを飾っていて、とても華やかだ。
「派手じゃない?」
「音楽祭は昼の催しですから、長めのベールを用意しております。問題ないでしょう。夜はそのまま舞踏会場に移動しての歓迎式典になります。こちらは夜の催しですから、今日のドレスの色では少し物足りないくらいでございますよ」
「そうですか……」
「お嬢様。今日のアリストフォーゼ辺境伯家は、アンブロシア王室と並んでドレッセン王家の招待を受けた“主賓”でございます。ゆめゆめ、そのことをお忘れなく」
「はぁい」
そういえばそうだった、と大人しく肩をすくめている内にも、ユリーはテキパキと髪を編み込み、綺麗に結ってくれた。
後ろ髪をすべて結い上げないのは、未婚の証だ。
リリの髪は、ほんのりと赤みのあるピンクアッシュブロンドだから、髪をおろしているとそれだけで鮮やかなベールをかぶっているみたいに見える。
今日はそんな髪をハーフアップにして、薄手のベールの縫い付けられたヘッドドレスで結んで、ずっしりと重たいお飾りを飾った。
こうして仕上がったところで、ベールを後ろに掻き分け、少しばかりお化粧をして、最後に所々の着付けにゆるみが無いかを確認して、ちりばめたダイヤモンドと大きなシャンパンガーネットをあしらったリボンと同じ地で仕立てられたチョーカーに、同じデザインの耳飾りにブレスレット。それから小ぶりなピンクゴールドの指輪を一つ、中指にあしらったら完成だ。
手を引かれて姿見の鏡の前に連れて行かれ、そこに移った自分の姿には、思わず、ホォォゥ、と長い感嘆の吐息を溢してしまった。
これって本当に自分なのか? と疑問に思って、くるくる、ひらひら、と回ってみたら、それに合わせて繊細な背中のフリルがくるん、くるんと踊った。
一体どうなってるんだろうか。不思議だ。
「着くずれはありませんか?」
「大丈夫そうよ」
「とてもお美しゅうございますよ、リリお嬢様」
「いやぁ、すごい技を見せていただきました」
そう素直に関心していると、何故か皆にクスクスと困った顔で笑われたけれど、だって感心したんだから仕方がない。
まぁこれだけ豪華に飾られたら、誰だって美人になるよ。
「長い袖はキリエンヌの装束では必須ですが、もし演奏をなさるのに、袖が邪魔になるようでしたら、内側のレースは簡単にリボンで取り外せるようになっておりますから」
ここを、こうして捲っていただいて、と二の腕から肘上までを覆う袖の隙間に指を入れて裏返して見せたユリーに、ふむふむと頷く。
袖は途中で切り替えがあって、肘の辺りからはフリルがわさわさっと手首までを覆って、長く下に垂れるようになっている。
ドレッセンは精々肘までの筒袖やパフスリーブにグローブなどを用いるのが一般的で、袖を長くする例はあまり見られないのだが、今日はわざわざキリエンヌ風に仕立ててあるらしい。これも、父の装いに合わせたためだろうか。
後付けされた袖なので、縫い付けてあるわけでなく、内側でいくつかリボンを結んで繋ぎ止めてあるだけで、取り外しも簡単になっている。ふむ。これは便利だ。
便利だと思うけど。
「待って、ユリー。別に私、演奏する予定はないんだけど?」
思わず気になったその箇所に突っ込んだところで、部屋で作業を続けていた侍女達が揃いにも揃って、えっ!? と顔をあげたものだから、リリの方がぎょっとした。
「何でそんな反応なの?」
「え……あの、しかしお嬢様。式次第はちゃんと御覧になりましたよね?」
「まぁ、一応」
そう言われて、ベッドサイドのテーブルに置きっぱなしにしていた紙面を手に取る。
内容はこの日の進行表で、音楽祭の開始時刻から曲目、休憩時間、昼餐会といった予定と、そのまま舞踏会場への移動時間や移動順。その後の歓迎式典の手順などを事細かに時間を記して羅列した、タイムスケジュールだ。
王国側から配布されたものの写しで、リリも昨日の内に父から受け取って、頭に入れておくようにと言われた。
とはいえ大まかな流れはすでに生徒会室で、生徒会長さんの仕事の手伝いをしている間に目を通していたので、改めて確認するほどでもなく、ざっと目を通しただけだ。
それでもリリが演奏するようになる場面なんてなかったと思うんだが、と、もう一度見返して。
「ほら、何処にもそんなこと……」
「音楽祭のアンコールは主賓が揃って演奏なさるのでは? 昨夜奥様が、オルネスト殿下のパートナーに変更になったおかげで、演奏をする必要が無くなってほっとした、なんて仰っておりましたよ?」
なんですって。つまりそれって。え、それって?
「あ」
良く見たら音楽祭の最後の曲目。アンコールと記されただけの箇所の下に、小さく『主賓を招いての共演、楽譜の添付有り』と書いてある。
「……えっと。お父様が、演奏するんじゃないの?」
「旦那様は楽器の心得はございませんよ」
クスクスと笑われて、ふとそれを思い出したリリも、そうだった、と沈黙する。
沈黙して。
「あれ」
つまり。それって要するに?
「ッッ。ちょっ。キリエさん!」
そう慌てて振り返ったところで、そういえば今朝はまだそのお猫様を見かけていないのを思い出した。
その叫び声が聞こえたのか、隣の部屋から顔を見せた別の侍女が、「キリエ様ならこちらでございますよ」と声をかけてくれたので、慌てて隣の部屋に駆け込む。
するとカウチのクッションの上に、すっかりブラシで綺麗に毛並を整えられ、小さなスカーフにリリとお揃いの宝石のブローチを付けてご満悦な顔をしたキリエを見つけ、慌ててそちらに駆け寄った。
「ちょっと、ちょっとキリエさん!」
「リリ、今日はいい感じにゃ。ちゃんとお姫様に見えるにゃ」
「そんなことはどうでもいいのよ、キリエさん!」
「にゃっ?! 褒められたら、普通は相手を褒め返すのが礼儀にゃ!」
あ、うん。そっちが目的ね。って、乙女かよ!
「キリエさんもとっても素敵です。いつも以上に毛並がつやつやで、首元のスカーフがきまってますね」
「だにゃ! ふふんっ、素材にこだわったにゃ」
そうクルンと回って見せるキリエの言葉に、ちらりとキリエの仕度をしてくれていたらしい侍女を見ると、手に幾つかの小さなハンカチサイズの布を持っていた。
どうやらキリエはあの中から気に入るスカーフを選んだみたいだ。
なんてお猫様だ……。
「それでキリエさんっ。私、もしかして今日、演奏するんですか?!」
「何を今更なこと言ってるにゃ?」
「なんですって!」
初耳ですけど!
「まってまってっ。何でそうなったの? いつその情報出てきた?!」
「リリがちゃんと聞いてなかっただけにゃ。仕事中に王子も言ってたにゃ。アンコールは両国の和平継続の象徴として、アンブロシアとドレッセンからそれぞれ代表者を出して演奏するにゃ。ヴァイオリン三つという構成の曲を選んだのは、リリにゃ」
「つまり、アンブロシアとドレッセンと……アリストフォーゼから、一人ずつ?」
「原作だとピアノ一、ヴァイオリン二で、リリは簡単な伴奏だけやってればよかったにゃ。でも構成を変えたのはリリにゃ」
「なんてこった!」
そんなつもりは微塵も無かったんだよ!
「だ、代表を一人出すだけなら、お父様でも……」
「リリ。それはものすごーく、酷にゃ」
「……ハイ」
うん、知ってるよ。うちのパパさん、何でもできるような顔して、楽器だけはまるっきし駄目なこと。音楽は好きだし耳もいいと思うけど、弾く側は全然駄目なんだってこと。
知ってるよ。
「どうしよう……一度も練習してないのに」
「リリ、楽譜の確認のために生徒会室で何度か王子とあわせたことあるにゃ」
「いやいや。あれ、ただの音合わせだしっ……それにこれはそういう問題じゃなくてっ」
楽曲提供者としての意地といいましょうか。元プロ志望ヴァイオリニストの意地といいましょうか。絶対に負けたくないんだよ。ソコは。
「ユリー、まだ時間ある? 少しくらい練習できる?」
「ええ、少しだけなら。楽譜をお持ちしますか?」
「うーん、いや、いい。私のパートは?」
「え? あの。セカンドに印が付いていたようですが。楽譜、宜しいんですか?」
「うん。暗譜してるから」
そう言って、大切にしまっておいたヴァイオリンケースを引っ張り出し、音取りを始めるリリに、ユリーが益々首を傾げる。
「暗譜って……お嬢様。何の曲を演奏されるのか、ご存知なんですか?」
「……あー……うん。あぁ」
まぁねと笑ってごまかしながら、一つ二つ深呼吸をして気持ちを切り替えると、ゆっくりとヴァイオリンに弦をのせた。
ふわっふわの袖が邪魔になるかと思ったけれど、思ったより弾ける。
それよりも演奏中にハラリと顔の前落ちてきたベールの方が邪魔で、実際にこの状態で演奏に参加することになるとしたら、これは問題だ。
どうしよう、と弦を浮かせたところで、突如部屋の扉の方から、パチパチパチ、と拍手が返ってきたから、ふと顔を上げる。
ベールがかかると視界が不明瞭になってしまうから、指先でちょっとベールを捲った。
「あら、お母様。いつの間に」
どうやら拍手の主は、すっかりとドレスアップした母だったようだ。
その装いは、いつものゆったりふんわりしたドレッセン風のドレスではなく、インド、いや、パキスタン風だろうか。エスニック感漂う見事なアンブロシア風のドレスで、その珍しい姿には、思わずうっとりと見惚れそうになってしまった。
すっきりと肌に沿った単色ドレスはドレッセンに比べるとかなりシンプルだけれど、これでもかというほどに細かく施された金の刺繍が鮮やかで、スパンコールや水晶が縫い付けられた裾はボリュームを感じさせる。
それに片方の肩から腕に引っかけた深い紅色の裏地を付けたレースショールと、腰回りにゆるりと巻いた帯。きらりと額に輝いた金の額当てと、やんわりと結い上げた髪をとめるいくつものお飾りは、とんでもなく豪奢だ。
加えて、いつもはおっとりと柔らかに見えるように施してある化粧が、今日は濃い目のアイラインと濃い目の口紅で、元々彫りのはっきりとした面差しが、とてもキリリと彩られ、とても似合う。
うちのお母様、どうやらホンワカ系じゃなくて凜とした系だったらしい。
「はぁ。お母様、ステキ」
「まぁ。ふふっ。年甲斐も無く、クローゼットに眠っていた故郷のドレスを引っ張り出してみたのだけれど。そう言ってもらえて良かったわ。何しろもう五年も前のものだから、どうかと思ったのだけれど」
そう少し恥ずかしそうに言いながら歩み寄ってきた母は、「リリもとても素敵よ」とうっとり言いながら、すこしばかり、ずれた首飾りをなおし、ベールを正して、と世話を焼いてくれた。
「曲の練習をしていたのね。あら、楽譜は?」
「もう覚えたので、大丈夫です……」
「流石はリリちゃんね」
母はそうすぐに納得してくれたけれど、一度も楽譜を見たことが無いはずのリリに、ユリーは未だに変な顔で首を傾げていた。
うん、ごめんね、ユリー。だよね。でもこの曲の楽譜、リリが書いたんだよ……。当たり前だけど、暗譜してるんだよ。最初からね。
「あぁ、でもベールをおろしていると、弾くのに邪魔で」
「そうねぇ……」
しばらくじぃっとリリを見やった母が、「あぁ、そうだわ」と、おもむろに自分の帯を止めていた幾つものブローチを見ると、その中の一つを外して、リリの耳元に宛ててみせた。
「うん。いいわね。えーっと、誰か。ブローチの留め具を隠せるような、ドレスにも合うリボンか何かを見繕ってちょうだい」
その言葉にすぐにユリーが隣の部屋に戻ってゆく間、母が手ずから、ベールのサイドを少し寄せて、布だけでコサージュみたいにふくらみを付けると、ヘッドドレスの脇と布とを縫いとめるようにブローチを止めた。
大きなものではないけれど、大きめのコイン位のものに少し立体的に花が刻み込まれているようなもので、鏡で見てみると、どうやらメットェリアの花をモチーフにしたお飾りだったようだ。
所々に小さなシャンパンガーネットが埋まっていて、他のお飾りとも相性がいい。
「これなら首を傾けてもあんまり垂れてこないんじゃないかしら」
言われたように、少し左に首を傾げてみたところで、右側で縫いとめられたベールはあまり垂れてこなかった。
「あ。いい感じです」
「奥様。この辺りのリボンは如何でしょうか。レースと重ねるか。あるいはこの辺りでしたら、刺繍がとても素敵で、一つだけでもとても映えます」
「あら、ほんと。素敵な色のリボンね。まるでリリちゃんのためだけにあつらえたリボンのようだわ。ベールのレースとも同じ色で、相性もいいわね」
ん? そんなリボン、あったっけ?
覗き見ようとしたけれど、生憎とすぐに母に「動かないで」と言われ、大人しく前を向いた。
その間にも、しゅるしゅるとブローチと留め具を隠すようにリボンがあしらわれてゆく。
ベールをしているとどんな風になったのかはよく分からなかったけれど、ユリー達がこぞって、「華やかになりましたね」「とっても素敵です」と言ってくれたので、良いとしよう。
とりあえず、ヴァイオリンを弾くのに邪魔じゃなくなったし。
「姉上。養母上。仕度はお済ですか? お迎えが来ていますよ」
そこにコンコンと扉を叩いて顔を見せたのはゼノで、一人留守番になるため、楽な格好をしたゼノは、すぐにもリリに手を差し伸べてくれた。
この状況なら、むしろ母にこそエスコートの手を差し伸べるべきではと思ったのだが、「養母上は大丈夫でしょうが、姉上は転ばないか心配ですので」と言われた。
まったくもってその通りであるので、大人しく手を借り、表の母屋の玄関ホールまで母のお見送りに行った。
ホールには既にアンブロシア側のお迎えという名の物々しい集団がいて、父が応対していた。
今日は父も、きちっとした黒の聖職者服に、やたら装飾的な金の刺繍の施された真っ白なガウンと、豪奢な赤紫のストラをかけていた。
リリと同じ、くすんだアッシュピンクのブロンドが綺麗に撫でつけられて、リリがベールの上から纏っているのと同じような金の髪飾が結われている。
聖職者というか、どこかの王様か何かの間違いじゃないかというくらいかっこいい。
流石神様。いずれはゼノも纏うであろう服だもの。デザイン、凝ってますね。
そうリリがぼうっとしている間にも、気が付いたらしい父が階段を登って来て、きちんと母に手を貸しながら、下へとエスコートした。
リリもゼノに手を借りつつ、おそるおそる階段を下りてゆく。
登る時は良いとして、降りる時は、後ろのふんだんなレースともりもりなフリルが追いかけてきて、すごく怖い。
冷や冷やと体が硬くなってしまう。
「姉上、出かける前からそれでは持ちませんよ?」
「裾が。裾がもう本当に……悪魔のようです」
「あぁ、その恐怖は私も少しわかります」
そう呟いたゼノに、いやいや、男にドレスの怖さは分からないでしょう、と言いかけたのだが、すぐにも前を行く父の装いを見て納得した。
ドレッセンの男性の正装は、いかにもな感じの貴族系ファンタジーな装いで、豪奢なマントや片流しの上着やらがひらっひらしているものの、歩行の邪魔になるほどのものは早々ない。
だが聖職者服は、なるほど、あれは危ない。裾は引きずっていないが、裾丈は長いし、あれこれ付随した装飾品がいろんなところに引っかかりそうで怖い。
おかげさまで、なんとか無事に階段を降り切ると、ほっと安堵の吐息が零れた。
だが途端にお出迎えのアンブロシアの騎士達が、突如恭しく膝をついてリリに頭を下げたものだから、ビックリしてまたしても肩が跳ね上がってしまった。
ドレッセンの騎士とは違うその装いはむしろ軍服に近いもので、そのはっきりした面差しと相俟って、なかなかに威圧的に感じる。
何だこれ。
「お迎えに上がりました、姫様」
一番先頭で、皆より少しゆったりとした着付けと立派な刺繍に縁どられた大判の布を肩に引っかけた男性が恭しくそう口にしたところで、ついおののいてしまっていたリリは、その聞き覚えのある声に、おや、と首を傾げた。
「ルシオさん?」
それは確か先だって夏の頃、アンブロシアを訪ねたリリの送り迎えの護衛を担ってくれていた人ではなかっただろうか。
そう半信半疑で呼びかけてみた所、少し顔をあげた青年が、僅かに口をほころばせるのを見てほっとした。どうやらあっていたらしい。
「こちらにいらしていたんですね。お義兄様とご一緒に?」
「はい。陛下のご下命により。この度は殿下より姫様をお迎えに上がる大役を仰せつけられ……」
「あ。いえいえ。違います。私ではなくて」
再び恭しく口上を述べようとしたルシオを咄嗟に留めたリリは、そそくさと両親のもとへと駆け寄って、母の後ろにちょこんと隠れる。
「お義兄様のパートナーをお勤めになって下さるのはコチラ」
「……は」
「あら、ルシオ。間の抜けたお顔だこと。私だと不満といったお顔ね」
そううっとりしそうな憂えた面差しで呟いた母の様子は流石は場馴れしていらっしゃるといった様子で、すぐに顔を青ざめさせたルシオは、「とんでもございません」と深く叩頭しなおした。
「あの。は。しかし……あの。クラリサ様が?」
「問題があるかしら? 国際ルール的に、義理の母と義理の妹なら、義理の母の方が優先でしたわよね」
「あの、しかし……」
チラ、とルシオが見やった先で、厳かなキリエンヌの装いに身を包むゼーレムが、すかさずリリに手招きをした。
リリもすぐに母の後ろから父の方へと歩み寄り、ぎゅっとその腕に抱き着いてみる。
こうしてみれば、リリの装いが父に合わせたものであることは一目瞭然で、一人浮いた装いとなる母クラリサが、そんな二人の前を庇うかのようにニコニコと歩み出た。
どうやらアリストフォーゼ家は、オルネストからのリリへのパートナーの申し込みに対し、“誰が”の部分をぼやかして返答していたようだ。当然あちらはリリを寄越してくれるものだと思っていたのだろう。予想外の出来事に、聊か動きがぎくしゃくしてしまっている。
だが元よりクラリサは、アンブロシアでもきっての大貴族であるフェイルゼン侯爵家の娘であり、フェルノーク公爵家の外戚。王妃陛下の妹君だ。この場でルシオがクラリサを無碍にして苦言を溢せるはずも無く、ただ困惑を深めるしかない。
「クラリサ様……」
ふぅ、と、一つ吐息を吐くルシオに、母も間に立たねばならない彼らを憐れんだのか、クスクスと笑いながら、そっと肩を押して顔を上げさせた。
「そう悩ましいお顔をなさることはないわ。オルネスト様には私が言い聞かせますし、そのためのネタの一つや二つ、ちゃんと用意してありますからね」
お母様、すごい。
「かしこまりました。我々も、殿下からは、くれぐれも丁重にお迎えに上がるようにとしか命じられておりません。その相手が誰であるのかは、そういえば、指示されておりませんでした」
「まぁ、都合が……ちょうど良かったわね。では行くと致しましょう。旦那様、リリ。また後ほどね」
「あぁ、気を付けて」
「お母様、また後ほど」
そう少しだけ不安そうに駆け寄ってみたところで、大丈夫、とでもいうように、ポンポンと優しく頭を撫でられた。
なんだか母に頭を撫でられたのなんて、生まれてはじめてな気がして。
いや、そんなことはないと思うのだけれど……なんだかはじめてな気がして。
「お母様って、実はすごく頼もしいんですね」
ついそう呟いたら、珍しく口元を緩めた父が、「すこぶる鈍いだけだ。君とよく似ている」なんて言ったものだから、「不本意です」と、頬を膨らませておいた。
ベールのせいであちらには表情が見えないのだと気が付いたのは、それからしばらく経ってからの事である。




