2-17 リリの家族
義兄のアリストフォーゼ領への滞在は、三日間だった。
あの日の夜は吹雪になり、次の日は朝から城の皆が総出で雪かきをして、さらに翌日。また少し雪がちらついてはいたものの、このままだと今夜はまた荒れます、という家令の言葉に押し出されるようにして、旅路についた。
リリは帰路の相談をしていて初めて知ったのだが、アリストフォーゼ領の領都は聖地という扱いで、古くからその土地に住まう一部の民が住まう他は、聖職者と許可を得た参拝者以外入れないことになっているらしい。
オルネストはこの城に、従者一人と護衛二人の、王家の血縁にしては身軽すぎる人数でやって来たけれど、それはどうやら、一つ手前の町に、他の追従の者達を置いてきたからだそうだ。
ということで、領主一家権限で、領都の門までその人達を呼び寄せ、門で合流すると、先にアンブロシアへ帰るアナイスを見送ってから、リリとゼノと、二人の侍女と三人の護衛という身軽なアリストフォーゼ家の馬車を前に、ついで沢山の従者と護衛に囲まれたオルネストの馬車を後ろに、領地を出た。
ゼノいわく、アリストフォーゼ領に隣接するネルフォン領には、深い深い山脈の合間に王都への秘密の時短ルートがあるとの事で、こちらを使うと十日の道のりが半分になるそうだ。ただ今回はアンブロシアの随行人がいるので、遠回りをしましょう、と言われた。
ちょっとまって、私その便利ルート知らないんだけど、と言ったら、ゼノが複雑な顔で、薄暗くて鬱蒼としていて色々危険なので、とか言っていた。逆に気になる。
とはいえゼノが卒業式を終えてから早々とアリストフォーゼ領にやって来た裏には、そんな抜け道があったからなのだということは理解した。
正規ルートという名の遠回りをした馬車は、キリエンヌ地方を抜けるまでは雪に多少足を取られたものの、その後は順調で、ただ国賓級のお客様が一緒なせいで、折々の宿を提供してもらった各領地の貴族達には、随分と過度に気を使われながら進んだ。
間もなく王国の直轄領に入った辺りで、先に王都に入っていたらしいアンブロシア側のお出迎えがずらりとやってきて、ちょっと仰々しいくらいに物々しくなった大公令息一行とは別れ、あちらはドレッセン王家が用意した迎賓館へ。リリとゼノは、久方ぶりの我が家へと帰宅した。
旅程は九日。幸い行きほどに時間はかからなかったが、すでに最初の式典が三日後へと迫った、歳月二十四日の事だった。
◇◇◇
「王都あったかーい……」
久方ぶりの自宅の自室のベッドに飛び込んだところで、旅の疲れも感じさせずにテキパキと荷解きを始めた侍女のユリーが、「そうですか?」なんて言って笑った。
今日は珍しく王都でも雪がちらついていて、あったかいというには語弊があるのは確かだ。でもキリエンヌに比べたら、全然天候が違う。
「ユリー、荷解きは後でいいよ。長旅で疲れたでしょう?」
「いつもの仕事をしていた方が疲れが取れるんです。やらせてくださいませ」
そんなことを言うユリーは、侍女の鑑……というか、ちょっと変だと思う。
リリには馬車揺れと退屈な時間がとっても堪えて、今日はもう少しだって動きたくないんだけど。
「お嬢様はどうぞゆっくりお休みください。今宵は旦那様もこちらにお戻りだそうですから、夕飯までには回復していただかなければ」
荷物の服飾品をどっさり抱えて隣のクローゼットルームへ入ってゆくユリーの後姿を見ながら、おや、と、リリは僅かに身を起こした。
「お父様がこっちにいるの、珍しいね」
「しばらくはお仕事の方ではなく、当家のご当主としてのお役目が続くようですよ」
ゼノいわく、アリストフォーゼ家の王都でのタウンハウスは、お城の麓の貴族街から少し離れた、聖職者街という俗称で呼ばれている辺りにあるらしい。
リリはこれまであまり意識したことが無かったのだが、確かに他の貴族街に比べると少し奥まった場所で、色とりどりのあちらに比べ、庭は鮮やかでも建物自体は真っ白な、清楚な作りのものが多い。
貴族街とは隣接しているものの、あちらがお城の手前とするなら、こちらはお城の脇といった感じだろうか。
そんな聖職者街区域の一番奥には、ひときわ目立つ真っ白な大教会がそびえたっている。
その名の通り、ドレッセンの城の一部に包括される国教大教会であり、父の職場だ。
無論リリはそんなことちっとも知らず、お城の一部だと認識していたのだが、つまるところそういう事であり、日頃アリストフォーゼ家内に住んでいない父がいつもどこで暮らしているのかというと、あそこなわけだ。
実際、この家はちょっと変わっていると思う。
普通貴族の邸宅の作りは何処も同じで、広々としたアプローチに、正面の母屋と、一家が住まう北の棟。あとはアプローチ沿いに西や東の離れがあり、独立した子供や、妾などがいる場合はその妻子が住んでいたりするらしい。
だがアリストフォーゼ家の場合は、アプローチがあって母屋がある所は同じだが、北の棟に住んでいるのはリリとゼノだけで、母は東の離れに住んでいる。西には離れは存在せず、代わりに小さ目の聖堂みたいな建物が有るのだが、父は本邸にいる場合も、本来暮らすべき北の棟でも、妻のいる東の棟でもない、この聖堂の中の部屋に寝泊まりしているらしい。
一応北の棟の方にも主人の部屋があるらしいのだが、少なくともリリはこの北の棟で父と遭遇したことは一度も無い。もっと言うなら、母と家の中で遭遇することもほとんどない。
昔からそうだったから、それで変だと思ったことは無かった。
しかしゼノはこちらの家に来てすぐ、少し戸惑ったのだという。
本来、養子であるゼノは離れに住むくらいがちょうどいいからと、北の棟に部屋を貰うことを辞退しようとしたらしい。だがあろうことか、東の離れは妻が住んでいるから、と言われたのだと。
本来なら、独立した子供の一家や妾妻なんかが住まう場所だ。それなのにどうして、と。
「帰りの馬車でゼノが言ってたけど、うちって、変なんだって?」
「お嬢様……何の話ですか?」
突然のリリの言葉に、服飾品類を片付けたユリーが、とても困惑した顔で部屋に戻ってきた。
次は長らく空けていたこの部屋の掃除や備品の調達が行き届いているかのチェックをするようだ。
「住んでいるところの話。お父様やお母様が北に住んでいないのはおかしい、って、ゼノは最初驚いたんですって」
「あぁ……」
少しばかりユリーの声が低く沈んだ気がしたが、気のせいだったのか、ぱっと振り返ったユリーはいつもの朗らかな面差しをしていた。
「お嬢様方が寂しくないよう、旦那様にはもっとこちらの本邸で過ごしていただきたいものですが、どうにもいつも教会にばかりいらっしゃって。ふふっ。西の聖堂のお部屋は、旦那様が小さな頃、お部屋を飛び出してそちらにばかり居付いているのをみたご先代様が、仕方がない子だと、お部屋を作って差し上げたんだそうですよ」
「あぁ、教会に入り浸っているのは、本人の趣味なのね」
よく分かったよ。うちのパパ様、単純に教会が好きなんだね、うん。
「教会の独特の香木の香りや、古い書物の香り。建物の雰囲気なんかがお好きのようですね。旦那様は幼少期、王都よりもアリストフォーゼ領のお城で過ごされた時間の方が長かったそうなので、ドレッセン風の本邸より、キリエンヌ風の教会の方が落ち着かれるのかもしれません」
まぁ何かとパステルカラーで華やかな雰囲気のドレッセン風が、あの父に似合いそうもないことは理解できる。逆に、ちょっと重々しくて厳かなアリストフォーゼ風は、良く似合うのではなかろうか。
「ではお母様は?」
「……」
ドレッサーの髪飾りを並び替えるふりをしながら背中を向けたユリーの沈黙に、リリは僅かに口をもごつかせた。
一体何だろう。この重たい沈黙は。
「えっと。ユリー?」
「……お嬢様は……」
「はい?」
「……」
うーん。重たい沈黙は苦手なのですが。
「ユリーが言いにくいような理由なら、別に聞かないけれど。取りあえずその沈黙が、うちのお母様が望んで離れに住んでいることに対して思うことがあっての沈黙なのか。それとも、仕方なく離れに住まねばならないことに対しての沈黙なのか。どっちかは聞いていい?」
聞き方を変えたところで、リリが珍しく家の事情について問うたのに驚いたのか、ぱっと振り返ったユリーは、今しばらく困ったように空気を食んだかと思うと、やがて諦めたように、「後者ということになります」と呟いた。
「お嬢様がそのようなことをお気になさるのは珍しいので……驚きました」
「うーん。私、今まで多分、あまり周りに関心がなかったのよね」
こちらのリリとしての両親に、両親という印象が持てずにいた。
今でも両親と言われてふと頭によぎるのは、リリではない。凜々子の両親だ。
でもそれは多分、凜々子の記憶があるせいというより、今世でのリリの家族が、変だからなのだろう。それを今更ながらに実感したのだ。
忙しい父は殆ど家にはおらず、教会に寝泊まりして本邸にも帰らない。
母と顔を合わせるのは夕飯の時だけで、母親らしいことをされたことも特にない。
愛情が無いわけではないことは知っているけれど、家族という形を作ってこなかったのは間違いない。
それは、アリストフォーゼ家だから、なのか。
それともリリが、“愛し子”とやらだからなのか。
それが、知りたいのだ。
「お嬢様には、いつかキチンとお話せねばと思っておりました」
とはいえ、ちょっと軽い気持ちで、うちが変なのなんで? と聞いただけのつもりが、何やら度を越えてユリーが真剣な顔で、恭しく立つものだから、ぎょっとして飛び起きた。
何だろう。この重大発表があります、みたいな雰囲気。
もしかして、リリは橋の下で拾ってきた子です、とか言い出すのでは、なんて様子だ。
「私、お母様の子供じゃないとか?!」
「えっ。い、いえ! そんなことは有りません!」
なんだ、よかった。
「もぅ……お嬢様。何を言い出すんですか」
「だってユリーがあんまり真剣な顔をしているから」
ほっとしながら、でも取りあえずベッドから足を下ろしたところで、ユリーがすぐに気が付いて、甲斐甲斐しく靴を揃えて置いてくれた。
柔らかい部屋履きの布の靴に足を通して、ついでにベッド横のカウチに腰を下ろす。
カウチのクッションには、旅に疲れて、戻るなり爆睡を始めたキリエが頭を突っ込んでいて、はみ出している尻尾が少しだけ覗いていた。
「お嬢様は、当家がドレッセンにおいて辺境伯家として位置づけられているだけでなく、古くは一王家に匹敵する領地領土を有するものであったということをご存知でしょうか」
「うん、最近怒涛のように色々知ってビックリしてるよ。アンブロシアではまだキリエンヌ公王家って呼ばれてるっていう話も」
コクンと頷いたユリーは、ベッドの天蓋を括る金の飾をチラリと見ると、おもむろにその紋章を指先で撫でた。
見慣れた五枚花弁の花の形の紋章だけど、多分それが、アリストフォーゼではない、キリエンヌの紋章なのだろう。
あれ。今更だけど、これって、先日ゼノが積んできてくれた、慈愛の乙女とやらの花ではなかろうか。
「当家の立場はとても複雑で、多様な一面があります。歴代のご当主様方は、俗世での立場や身分、階級や呼び方には一切関与せず、ただ聖職者としての本来の姿でのみあることを旨としてきましたが、俗世の国はそれでは満足致しません」
「ドレッセンとアンブロシアがアリストフォーゼの立位置を巡ってギスギスしている話も聞いたよ。アリストフォーゼ家は本来ドレッセンの母であるとして、貴族に叙すことでアリストフォーゼ家を取り込みたいドレッセンと、いや、ドレッセンもアンブロシアも等しくキリエンヌに祝福された国であるとして、キリエンヌを独立した立場に置いておきたいアンブロシアと。アリストフォーゼ家はそれを上手に釣り合わせていかないといけない立場なのよね?」
「今の方針としては、そうなりますね」
えーっと、知ってるよ。リリがそう指示したんでしょう? まったく無自覚だけど。
ちょっとアンブロシア寄りになっていたアリストフォーゼに、これ以上アンブロシアが踏み込むのを拒絶して、王子の婿入りやアンブロシアの血を引く自分らが跡を継ぐのを拒否したりさせたんでしょう? それで、両国とのバランスが取れたとかなんだとか。
「しかしアンブロシアの隆盛は益々のものとなり、より平和的な関係のためにも、無碍にはできない大きな存在として、あるいはアリストフォーゼ家の有り方も、それに対応せざるを得ない状況にあります」
ドレッセンの、古き良き伝統とおっとりとした古典的な雰囲気は、リリも好きだ。
ただそれは悪く言えば、目覚ましい技術発展や文明的な進歩に対して臆病だともいえ、それが何かと革新的なアンブロシアに、目に見えて遅れを生じ始めている。
与える側と受け取る側のバランスが、明らかにアンブロシア側に発信力が偏り始めているのだ。
ともすれば、今の、ややドレッセン優位なアリストフォーゼとの関係も、それが覆る可能性がある。
今回の和平条約更新の調印は、まさにそうした計り合いの場となる。
「ご先代の頃はとりわけ、アンブロシアが革新的な技術発表を繰り返して目覚ましい進歩を遂げた時代でしたから、奥様のお輿入れも、その……」
「アンブロシア側に押されて、断れない物だった?」
「奥様が旦那様にお一目惚れなさって、単身国境を越えていらした話は有名ですから、奥様ご自身に政治的な思惑があったわけではございませんが」
クスクスと笑うユリーに、「私もその話は聞いたわ」とリリも笑って見せる。
要するに、母としては、ただ恋心一心で熱烈にアピールしたのだろう。
ただアンブロシアという国としては、王妃の妹の突然の所業に、これを絶好の機会だと目した。
「アンブロシアは奥様の輿入れに際し、“ゼーレム・アリスト・フォー・キリエンヌ猊下へのお輿入れ”を申し出ましたが、ドレッセン王家はこれを拒絶し、“ゼーレム・クラウベル・アリストフォーゼ卿への輿入れ”でなければ認めないとの採決をアリストフォーゼ辺境伯家に課しました」
「どっちも同じじゃんと突っ込みたくて仕方がないけれど、つまりは体裁の問題なのね。嫁いできたお母様が、ドレッセンで、王家にも比肩するキリエンヌ公王妃として扱われるのか、それともただのアリストフォーゼ辺境伯夫人として扱われるのか」
「ええ。アリストフォーゼ家はすぐにドレッセン王家の決定を受け入れましたが、アンブロシアは……」
「認めないでしょうね。折角の機会だもの」
「結果として奥様は、キリエンヌ公王妃として嫁ぎました」
「うん?」
あれ。なんでそうなった。ドレッセン側の主張はいいのか?
ドレッセンの王様は、それは認めないって言ったんだよね?
えーっと、つまり。
「もしかしてお母様って、ドレッセンでは、お父様の正妻って認められてない?」
とても複雑な顔をしながら、コクリとうなずいたユリーの表情に、「あーっ」と声を溢したリリは、大層納得した。
道理で。ユリーが複雑な顔をするはずだよ。
そして道理で。母が北の棟に住むことができず、離れなんかで過ごしているわけだよ。
「奥様は、とてもお優しくて、清楚で、お可愛らしい御方で。本当に旦那様がお好きなだけの……いえ、そう言っては言葉は良くありませんが。ですが本当に、裏表など何もなく、お心に素直になって、動かれただけだったのです」
「えぇ……」
「ですがお立場柄、ご実家に辺境伯夫人と為ることは許されませんでした。なので“キリエンヌ”では確かに旦那様と正式な婚姻を結び、夫婦とはなりましたが、ひとたびキリエンヌ地方を出ると、ドレッセンの戸籍上、辺境伯夫人の項にお名前は記載されていません」
「私やお姉様はドレッセンの戸籍上、もしかしてお父様の私生子扱いなのかしら?」
「そう……なります」
ユリーの表情は暗いけれど、別にその点については、リリは気にしたりなんてしない。
私生子だろうが何だろうが、父も母も分かっているのだし、別段リリがドレッセンでそういった扱いを受けたことはないから(多分)、何ら問題はない。
「お父様が北の棟ではなくて西の教会のお部屋で暮らしていらっしゃるのも、お母様に慮ってなのかもしれないわね」
「そう言われてみれば。そうなのかもしれませんね」
おかげさまで、子供達は北の棟に放置状態ですけどね。
だがこれでようやく、我が家の何だか変な理由が分かった。
今まで生みの母にあまり関心も無かったのだけれど、もう少し、気にかけてあげるべきだったかもしれない。
お腹を痛めて産んでもらったのに、無自覚に姉をお嫁に出して、自分は後を継がないと明言して、多分母もアンブロシア側から怒涛のようにあれこれ言われ、厳しい立場になったのではないだろうか。
元より、ドレッセンでは本妻として認められず、社交に出かけても、“アンブロシアのクラリサ”という立場であり、父の妻として隣に立つことができないのだ。
それは……なんて、辛かっただろう。
うちのママさん、可哀想。
「アンブロシア側がもっと丸くなってくれたら……そんな思いもしなくて済んだだろうに」
「お嬢様は、そう思われますか?」
「ん?」
あぁ、この言い方。ユリーも、リリが愛し子だとかいうやつだと思っているのだろう。
だから、リリの言葉が、そのままアリストフォーゼ家のこれからの方針になると。
そう思われるとあんまり迂闊なことは言えない。
でもそうだな。もしできるなら。もし、ゼノが納得してくれるなら。
「私はアリストフォーゼ家の今の立場は、嫌いじゃないよ。ドレッセンは好きだし、その一貴族という立場は悪くないと思うし。でもそれでアンブロシアとギスギスしちゃうのは嫌だなぁ。いっそ、ドレッセンだけじゃなくて、アンブロシアからも辺境伯か何かに叙爵されてみるのなんてどう?」
「その発想はありませんでしたが……お嬢様が、そう仰るのなら……」
断腸の思いみたいな顔をされたので、「ごめんなさい、適当に言っただけです」と、すぐに取り消しておいた。
「でもアンブロシアも、そのくらいの気持ちで付き合ってくれたら、いいのになぁ」
例えばリリが、あちらを訪ねた時のあの雰囲気みたいに。ただの、遠縁。ただの、リザの妹として。キリエンヌだとか公王家だとか関係ない。辺鄙なところに領地を持っている、ただの一貴族みたいに。
「リザ様も昔、同じようなことを仰っていましたわ」
「あら。お姉様が?」
「アリストフォーゼ嬢ではない、リザ・アリスト・フォー・キリエンヌ姫としてあちらに嫁ぐことが決まった時、いつかご自分をアリストフォーゼ家のリザとして認めさせてみせる。そんな風にあちらの王家の意識改革を為して見せる、と。ふふっ。とても楽しそうに、そんなことを」
多分姉は、アリストフォーゼ嬢としての矜持を棄てることなく、あちらの国で、着々と、ただのリザとしての立場を築く努力をしているのだろう。
アンブロシアの思惑に決してのせられることなく、むしろ睨みをきかせて、アリストフォーゼ家に迷惑がかからないようにと。
でなければ、リリがのこのことアンブロシアを訪ねて行って、自分を取り巻くしがらみに微塵も気が付かずに帰って来れたりするはずがない。
思えばアンブロシアにいた時は、ずっと姉が傍にいてくれた。
おそらくそうやって、リリがアンブロシア側の、利権を求め、ドレッセンとのバランスの崩壊を望む大人たちから、リリを守ってくれていたのだ。それができるだけの地位を、アンブロシアで確立させているのだ。
「うちのお姉様、カッコいいかも」
「リザ様は私の憧れの女性です」
そう自慢そうにするユリーに、クツクツと笑った。
元々ユリーは姉の乳兄弟で、姉に仕えていた侍女だ。アリストフォーゼ家に代々仕える家柄の娘だからと、姉は嫁ぐ際にも、一番の腹心であるユリーを連れては行かず、アリストフォーゼ家に残るリリに仕えるようにと指示した。だからユリーが姉に心酔していることは知っている。
「でもお嬢様。私は、リリお嬢様の事も、とても敬愛しておりますのよ」
「私、別にお姉様以下だと言われてもちっとも拗ねたりする気はないから。気を使わなくてもいいよ?」
「違います。心の底から、そう思っております」
それはそれで、ちょっと重すぎやしない? と首を傾げて見せたところで、おもむろにユリーが目の前に膝をついて、リリの手を取った。
「リザ様はとても理知的で理性的で、ご自分の本心よりもお家の事や合理的な結果の方を優先されることが多く、私は見ていて、それが少し、辛く感じられることがありました」
「お姉様らしい……」
「ですから、アンブロシア王室から王子殿下の婿入りのご縁談があった時も、引き換えに得られる利権を考えれば悪い話ではない。アンブロシア王家の血筋に家督を任せることはできないから、リリお嬢様を跡継ぎにして、自分はアンブロシアを牽制する側の役目を果そう、と」
「お姉様、男前すぎます」
「ふふっ。実際、初めは悩ましいお顔をされていた旦那様も、リザ様が挙げたアリストフォーゼ側の利権要求の旨味に納得して」
「そんな折、私が余計なことを言っちゃった?」
そう口を挟んだら、思い出したように、ユリーがクツクツと肩を揺らして笑った。
「あの時のリザ様のお怒りっぷりと言ったら。ふふっ」
「私、お姉様に叱られた覚えはないんだけど」
「沢山怒っておいででしたよ。折角考えた利権がすべて反故になって、『ただ心のままにお幸せに』と背中を押されたんですから。それはもう、『妹が愛おしすぎて辛い』と怒っておいででした」
「つまり、やっぱりお姉様はオルネストお義兄様がお好きだったのね。私の幼いながらの直感は間違ってなかったのね」
「お言葉ですが、皆が存じておりましたよ」
「……」
どうやらお姉様は結構、分かりやすい態度だったようだ。
折角ドヤったのに。この顔、どうしてくれる。
「折角の旨味を逃して、心に抱いた方の元へ嫁ぐことを、リザ様はとても苦悩していらっしゃいました。そのせいでリリお嬢様が、アンブロシアの血を引かないお従弟を養子に、なんて仰ったものですから、リリお嬢様がアリストフォーゼ家を継ぐべきと思っていらしたリザ様は、それはもう驚いたようです」
「むしろこんなポンコツな私に後を任せられると思っていたお姉様に驚きだよ」
「実務面はご自分が助ければよいと思っていたようですね」
お姉様が有能過ぎて怖いです。
「そんなリザ様は、悩んだ末、やはりリリお嬢様を説得しようとしたのです。ですがリリお嬢様ときたら、ちっともお話を聞きいれた様子もなく、ただあっけらかんとした顔で、『でもお姉様にはオルネスト様がお似合いだと思う』とだけ。ふふっ。今思い出しても、おかしくなってしまいます。リザ様のあんなに間の抜けたお顔は、あの日一度きりしか見たことのないお顔でしたよ」
「私、ぐっじょぶ。全然覚えてないけど」
でもそんな愛し子様の託宣という名の気まぐれで、どうやら姉は結婚を決めたらしい。
自分が婿を取ることでアンブロシア側から引き出せるはずだった幾つもの反故となった条件に匹敵する旨味を、実家にもたらすために。ドレッセンに、もたらすために。そんな決意を胸にして。
「でもその割に、オルネストお義兄様は影で暗躍しているみたいですが」
「ご夫婦仲がいかによろしくても、それはそれ、これはこれでございます。この度の調印も、本来ならばリザ様が奥方様としてご同行して目を光らせている予定だったのですが」
「あ……」
ねぇ、もしかしなくても、そのお腹の第二子。お義兄様の計画の内なんじゃない?
そりゃあ姉が、嬉しいはずなのに怒るわけだ。
「お姉様に叱られないように、私もこれ以上迂闊をしないようにしないと……」
「愛し子様にあれこれと指示するのはキリエンヌの掟に反しますから、私は何も申し上げることはできませんが。そのように思っていただけたと知ったら、リザ様は喜びそうですね」
ユリー。お前もか!
何か知らないけど、その掟とやらのせいでリリはポンコツっぷりに磨きをかけているんだよ! いい加減、皆気付いて!
「愛し子様とやらは自分で考えるのがそろそろ面倒になってきましたので、一方的なご指示を随時募集中です……」
ハァとそうため息をついて見せたところで、ずっと黙っていたクッションの下のキリエが、「それは良い考えにゃ」と呟いたのを聞き逃さなかった。
だよね。キリエもそう思うよね。
うん。なんかもう、それでいいと思うんだよね。




