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簡単な仕事

 ベルナドットは、口の周りをすすで汚したまま、首の古傷をなぞって微笑んだ。

「……さあ、皇帝。貴公の『空腹の天才』は、私の『満腹の計算』に勝てなかったな」


「ボイエン、次はパリだ。ただ、その前に簡単な仕事と、頭の痛い仕事を片付けなければな」


 煙の上がる戦場に独り立ち、古傷の感触を指先に残したまま、フランスの地平を見つめていた。



 ライプツィヒの市街地から少し離れた野営地。北方軍が鮮やかな追撃でナポレオンを粉砕している頃、そこには「置き去り」にされた男たちの怒号が響いていた。


「納得がいかん! なぜ我々が追撃に加われんのだ! ベルナドットの野郎、美味しいところをビューローにすべて持たせやがって!」

 ブリュッヘルが、酒瓶を地面に叩きつけんばかりの勢いで叫んだ。隣ではグナイゼナウが、もはや怨嗟えんさのメロディを奏でるように、不気味なリズムで太鼓を叩いている。


「……閣下、だから言ったでしょう」

 ミュッフリンクが泥だらけの軍服を払いながら、氷のように冷たい声で言った。


「一昨日も昨日も、後先考えずに『気合』だけで突撃したせいで、わが軍の馬は一頭残らず潰れています。北方軍の『ぴかぴか』の馬群に追いつけるわけがありませんよ。……いい加減、現実を見てください」


「やかましい! 現実など気合で追い越せばいいのだ!」

 ブリュッヘルの咆哮も、今やむなしく響くばかりであった。彼らはただ、地平線の彼方でビューローの機動砲兵が放つ「勝利の雷鳴」を、指をくわえて眺めるしかなかった。


 一方、ボヘミア軍の本陣。ロシア皇帝アレクサンドル一世は、勝利の喧騒けんそうから離れ、無数の死者が横たわる原野でひとり、十字を切っていた。


「……神よ、これこそが貴方の示された『正義』の答えなのですか」


 モスクワを焼かれ、絶望の果てにオーボでベルナドットから授かった「忍耐」という名の知性。それがドレスデンでの大敗を経て、クルムの啓示へと繋がり、このライプツィヒで巨大な救済へと至った。

 彼は今、ベルナドットという存在を単なる同盟者ではなく、オーボで感じたように、自らの魂を導く「天の代弁者」のように感じていた。


「ナポレオンの軍は壊滅した。次は、罪深き魂の故郷……パリへ」



 一八一三年末。ライプツィヒでの勝利という「巨大な解答」を導き出した直後、ベルナドットの執務室では、すでに次なる欧州の再編成に向けた「計算」が始まっていた。


「ビューロー閣下。貴公に、ひとつ頼みたい仕事がある」

 ベルナドットは地図の北西部──低地諸国を指差した。

 そこにはナポレオンが自らの「意地」のために残した、十万を超えるフランス守備軍が要塞線に立てこもっている。


「貴公の三万の軍に、テッテンボルンの騎兵隊をつける。……ライプツィヒの敗残兵がフランス国土に逃げ込む前に、あの地をすべて落としてきてほしい」


 ビューローは一瞬、自らの耳を疑った。三万で十万を。しかも要塞のひしめくオランダ、ベルギーである。それを短期間で落とせと。常識的な将軍ならば「気合でも不可能だ」と叫ぶところであった。


 しかし、ベルナドットはあの芝居がかったガスコーニュの笑みを浮かべてみせた。

「簡単な仕事だよ、王太子として保証しよう。あそこの民はすでにナポレオンに飽き飽きしている。貴公が『道理』を持って現れれば、十万の兵など、計算上の端数にすぎなくなるさ。それにオランダを守る元帥は石投げで壊滅するマクドナルだから、戦闘に万が一なっても貴公なら簡単に勝てる」


 ビューローは沈黙し、卓上の地図へ鋭い視線を落とした。

 彼の脳裏で、両軍の戦力が地形と要塞を結ぶ無数の「線」と「角度」への結びつきへと再構築され、明白な答えとなる。


「……承知いたしました、王太子。弟の引いた計算式でも、それは決定された未来のようです。確かに簡単な仕事なのでしょう」

 ビューローは、胸に輝くセラフィム勲章をそっとで、確信に満ちた顔で答える。


「そして、その後はパリまで攻め込んで欲しい。デジレが、紅茶を入れて貴公を待っているだろう」


「それは楽しみです。あの懐かしい味の為なら、ナポレオンを倒すのも容易いことです」

 ビューローはハノーヴァーのあの日々を懐かしむように答える。


 ベルナドットは視線を転じた。

「タウエンツェーン閣下、貴公には別の仕事を頼みたい。貴公の軍は、郷土防衛のために集まった一般人の集団だ。だが、数度の激戦を勝ち抜いてきたあの粘り強さは、北方軍でも随一。その不屈の粘りと貴公の計算で、ナポレオンが残していった、ここからベルリンへ向かうエルベ川沿いの要塞群を落とし、兵站へいたん線を安定させてくれ」


「了解しました、王太子。ビューロー閣下と同じく、簡単な仕事というわけですな。それでは、デジレ様には、パリでの紅茶を楽しみにしているとお伝えください」


「貴公ならそう言ってくれると思った。よろしく頼む」


 ビューローは西の戦野へ、タウエンツェーンは要塞戦へ、軽口を叩きながら二人は出陣していく。



「さて、ブラへ。ナポレオンに引導を渡す前に、まずはスウェーデンの『配当』を確定させよう。ノルウェーを手に入れるまで、わが戦争は終わらん」

 ベルナドットは、残りの全軍を翻し、真北──デンマークへと矛先を向けた。



「……おい、ボイエン。お前はどこに行くんだ」

英国特使スチュワートが、二手に分かれて猛スピードで進軍する軍勢を見送り、開いた口がふさがらない様子でつぶやいた。


「パリへ行くのではないのか? なぜ一方はオランダへ、もう一方は北の果てへ向かうのだ」

 ボイエンは、もはや考えることを放棄した顔で日記帳を閉じていた。


「スチュワート殿、これが『北方軍』ですよ。ビューロー閣下は三万で十万を倒すのが『簡単な仕事』だと確信し、殿下はパリを目前にして『まずは領土問題を片付ける』と帳簿を広げている。……もはや我らの理解できる次元の戦争ではありません」


 ボイエンはあきれたように笑い、自らの愛馬の手綱を握った。

「これは、欧州という巨大な盤面の大掃除ですよ」


「……我々はどうすればいい?」

「決まっているでしょう。私はビューロー閣下の参謀として、帳簿付けのために後を追います。殿下が用意した、この完璧に管理された豪華な兵站へいたんの結末を見に行くだけです」

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