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最悪の一手

 一八一一年、ストックホルムの冬。


 ベルナドットはデジレが去った後の静かな書斎で、ブラへ伯爵を前に一通の秘密書簡を広げた。パリから届いた「スパイ報告」には、皇帝がロシア遠征という巨大な博打ばくちに乗り出そうとしている兆候が克明に記されていた。


「ブラへ、皇帝は東へ向かう。広大なロシアを飲み込むには、バルト海の安定と物流が不可欠だ。今の彼には、私の助けが必要になる」


 ベルナドットは窓の外の凍てつく海を見つめた。ナポレオンがロシアへ兵を進めるならば、バルト海の物流を握るスウェーデンを敵に回すリスクは決して冒せない。これはかつてない交渉の好機であった。


「皇帝に伝えろ。スウェーデンがフランスの道となり、ロシア遠征を支える用意はある。ただし条件がある。ノルウェーを我が国へ割譲せよ、とな」


 ブラへは驚愕きょうがくに目を見開いた。

「ノルウェーを……? 殿下、それはあまりに大胆な要求です。デンマークから引き剥がすことになりますぞ」


「スウェーデン議会を納得させるには、それだけの果実が必要だ。皇帝もそれは百も承知だろう。バルト海の制海権と海上輸送なしに、ロシア遠征など不可能なのだから」


 ベルナドットはどこか楽しげに、しかし確信に満ちた笑みを浮かべ、地図上のストックホルムからサンクトペテルブルクへのラインを指先でなぞった。


「そのことが分からない陛下ではない。あの男は、必ずこの『真理』を飲む」



 一方、パリ。


 この「提案」を伝え聞いたナポレオンは、ベルナドットからの「ノルウェー割譲」という、あまりに隙のない合理的な要求を前に、深く苦悩していた。


 ロシア遠征という巨大な博打を前に、バルト海の安全は喉から手が出るほど欲しい。だが、かつての部下に足元を見られ、領土を差し出すという屈辱に、彼の自尊心は激しく反発していた。


 追い詰められたナポレオンは、激しい苛立ちのままにデジレを呼び出した。


「ノルウェーだと!? ベルナドットめ、王太子の椅子に座った途端、これほど厚かましい商談を持ちかけてくるとは!」


 執務室に怒声が響く中、デジレは平然と、どこか楽しげな笑みを浮かべた。


「あら、陛下。ジャン=バティストはスウェーデンの『父』としての義務を果たしようとしているだけですわ。ロシアの広大さを考えたら、これくらい安い買い物ではありませんか?」


 ナポレオンは、デジレの核心を突いた反論に言葉を詰まらせた。


 ベルナドットは知っているのだ。ナポレオンがロシアという深淵しんえんに足を踏み入れる今、バルト海の海上輸送を握る自分との同盟を、断れるはずがないと。


 思わずデジレをにらみつけるナポレオン。しかし、彼はかつての婚約者である彼女の、相変わらず飾り気のない美しさを直視してしまう。


 今の皇后マリー=ルイーズにはない、若き日の自分を形作った「マルセイユの陽光」の面影が、そこにあった。


「陛下、ジャン=バティストはただ、自分を信じてくれたスウェーデンの民に報いたいだけなのです。彼なりの道理なのでしょう」


 デジレは淡々と答えたが、その一切動じることのない落ち着きが、逆にナポレオンの焦燥をあおった。


 彼はふらりと彼女に歩み寄り、その肩に手を置こうとした。英雄になる前の、ただの小男だった自分が、彼女に捧げた情熱をなぞるように。


「……ベルナドットを忘れろ、デジレ。あんな理屈屋など捨てて、私の側にしろ。そうすれば、お前の望むものはすべて手に入る。パリの栄華も、私の寵愛ちょうあいも」


 デジレは、ナポレオンの指先が触れる前に、優雅に、しかし氷のように鮮やかな速さで身を引いた。


 彼女の瞳には、皇帝ではない若き頃のナポレオンが映っていた。


「陛下……。あなたは皇帝になっても、やはり何も分かっておられないのね。私が愛しているのは、あの方のあの『理屈』であり、不器用なまでの誠実さなのです。私に迫る暇があるなら、皇后様のご機嫌をとられる方がよろしいのでは?」


 完璧に拒絶されたナポレオンの顔が、屈辱で真っ赤に染まった。振られたのだ。それも、皇帝の地位をもってしても、ベルナドットに心酔する女に、二度までも――。


「……ええい、勝手にしろ! ベルナドットも、お前もだ!」


 激昂げきこうしたナポレオンはデジレを追い出すと、即座に命令書を書き上げた。それは、軍事的な道理を完全に無視した、ただの「八つ当たり」に近い最悪の一手であった。


「スウェーデンからドイツのバルト海の橋頭堡を奪え、スウェーデン領ポンメルンを占領せよ! ベルナドットに教え込んでやる。私が与えたものは、いつでも私が奪えるのだということを!」

 ナポレオン最大の悪手です。なぜ、こんな事をしたのかが歴史家も誰もわからないので、妄想で埋めました。

 ベルナドットを敵に回した事により、海路による輸送が不可能になりました。

 スウェーデンが味方になれば、海路での補給が可能になります。バルト海にイギリス軍は入れはしますが、浅瀬を利用した細かい輸送は防げませんし、バルト海の港湾を使えなくなれば長期の軍事行動も難しいです。

 陸路でロシア遠征の兵站を支えるのは物理的に不可能ですので、スウェーデンを利用したバルト海の輸送は遠征に絶対に必要です。

 実質上のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたので、進路も普通に海外線沿いに進めます。

 こんな事がわからないナポレオンではなかったはずですが。

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