書籍化記念特別短編:聖女のトリアージと、夕暮れの白桃タルト
午後十六時四十五分。
終業の鐘が鳴る十五分前のこの時間帯は、コールセンター界隈において「魔の時間」と呼ばれる。
駆け込みで持ち込まれる不備だらけの案件、理不尽な怒りをぶつけてくる厄介なクレーマー、そして「今日中に処理しろ」と無理難題を押し付けてくる無計画な輩。それらすべてのノイズを的確に遮断し、いかに一秒の狂いもなく定時退勤の聖域を守り抜くか。窓口に座る事務職の真の技量が試されるのは、まさにこの十五分間にある。
私は羽ペンの穂先を整え、カウンターの端に置かれた砂時計を静かに反転させた。隣の窓口では、新人職員のルークが未処理の伝票の山を前にして、壊れたからくり人形のようにカタカタと肩を震わせている。
「ルーク」
「ひ、ひゃいっ! ア、アイラさん!」
「視線が泳いでいます。印鑑を持つ手が震えているせいで、先ほどから書類の余白に余計な朱肉の飛沫が飛んでいますよ。あと十四分で本日の窓口は完全閉鎖です。その震えを抑えられないなら、裏の書庫へ行って明日のインク補充でもしてきなさい」
「す、すみません! すぐ終わらせます、集中します!」
ルークを低音の一言で引き締め、私は手元の受付台帳に視線を戻した。
その時、ギルドの重い扉が静かに開いた。
足音は軽やかで、迷いがない。
現れたのは、純白の清潔な法衣を纏った一人の少女だった。
手には身の丈ほどもある白木の杖。腰には薬品や包帯をきっちりと小分けにした機能的な革ポーチが整然と並んでいる。かつて、猫背で俯き、今にも消えてしまいそうに震えていた面影は、そこにはない。
ミア。
かつてBランクパーティ『黄金の天秤』に所属し、リーダーのゼクスから「お前の回復ミスで高価な鎧が壊れた」と虚偽の過失を擦り付けられ、多額の借金による私的従属契約――事実上の奴隷落ち寸前まで追い込まれていたヒーラーの少女だ。
あの時、私の窓口に持ち込まれた悪質な囲い込み案件を、過去の戦闘ログと鎧の破片の物理鑑定によって解体し、前任者の被害ともども強制執行で清算させてから、半年ほどの月日が流れていた。
「……アイラさん。お手隙でしょうか、はい」
カウンターの前に立ち、ミアは深々と頭を下げた。
語尾に小さく残る「、はい」という独特の口癖。だが、その声の響きは以前のような自己否定の澱みを含んでいない。
私は手元の帳簿から視線を上げ、完璧な角度の営業用スマイルを向けた。
「いらっしゃいませ、ミア様。本日の窓口受付時間は残り十二分となっておりますが、どのようなご用件でしょうか」
「本日の依頼の、完了報告書をお持ちしました。ご確認をお願いします、はい」
ミアが差し出してきた一枚の羊皮紙。
私はそれを受け取り、無駄のない所作で視線を走らせた。
初見のわずか三秒で、私の思考ルーチンは「極めて快適」という結論を弾き出した。
インクの滲みや擦れは皆無。文字はギルド規定の枠内にきっちりと収まり、討伐対象である森林狼の個体数、遭遇時刻、交戦時間、消費した聖水と包帯の数量、さらには同行した前衛冒険者三名の最大心拍数と魔力残量の推移に至るまで、すべてが数式のように論理的かつ客観的に記載されている。
新米冒険者が書きがちな「とても怖かったです」「仲間が勇敢でした」といった主観的感情のノイズは一文字たりとも混入していない。現場で起きた事実と数字だけが、完璧に整列していた。
「……記載内容に不備はありません。極めて論理的で、処理のしやすい仕上がりです。ルーク、見習いなさい」
「は、はいっ! ミアちゃんの報告書、いつ見ても先輩冒険者より綺麗なんですよね……」
ルークが羨望の眼差しを向ける中、ミアは照れくさそうに頬を緩めた。
「よかったです。アイラさんの窓口の処理時間を一秒でも奪ってしまったら、定時退勤の邪魔になってしまいますから……はい」
「その高いコスト意識と時間管理能力、大変素晴らしい心がけです」
私は受領印を垂直に、寸分の狂いもなく書類の中央へ押し当てた。
小気味よい乾いた音がフロアに響く。
「ところで、ミア様。近頃、掲示板の噂や冒険者たちの雑談の中で、貴女のお名前を耳にすることが非常に増えました。『どんな致命傷を負った者でも、一瞬で容態を見極めて確実に蘇生させる奇跡の少女』……中には、貴女を『王都の生ける聖女』と呼び、神殿の司祭たちさえ一目置いているという報告書が上がってきていますが」
私の言葉に、ミアは弾かれたように両手を激しく振った。
「め、滅相もないです! 奇跡だなんて、そんな大層なものじゃありません、はい! 私、ただ……アイラさんに教えていただいたことを、現場でそのまま真似しているだけなんです!」
「私の?」
「はい! あの時……『黄金の天秤』から助けていただいた時、アイラさんがおっしゃった言葉を、私、一日たりとも忘れたことはありません」
ミアは杖を両手で抱きしめ、どこか遠い日を懐かしむように目を細めた。
「私、ずっと自分の治癒魔法が下手なのは、信仰心が足りないからだと思っていました。どんなに祈っても仲間が怪我をして、怒鳴られて、全部私の心が未熟なせいだと……。でも、アイラさんは仰いました。『祈りで怪我が治るなら神殿の書類仕事は不要です。治癒とは精神論ではなく、生体への適正なリソース配分とデータ管理です』って」
……確かに、そんなことを言った記憶がある。
ガスライティングによって完全に判断能力を奪われ、自分が無価値な存在だと泣きじゃくっていた彼女に対し、治癒魔法という現象を「投入魔力と細胞修復率の関数」として論理的に切り分け、感情の呪縛を解くために叩き込んだ初期設定だ。
「アイラさんはあの時、座ったまま、一歩も動かずに、嘘つきなゼクスたちの言葉を全部ロジックでへし折ってくれました。怒鳴ることもなく、取り乱すこともなく、ただ事実と規約だけで私を守ってくれた……。その時、私、思ったんです。感情に流されてパニックになるのが一番の罪なんだって。戦場で誰よりも冷静で、誰よりも感情を交えずに人を救う『事務職』のようなヒーラーになろうって、そう決めたんです、はい」
「……何度も申し上げますが、ヒーラーは事務職ではありません」
「私にとっては同じなんです!」
ミアは身を乗り出し、熱を込めて語り始めた。
「魔導書を読み直して、怪我のパターンを全部分類(カテゴリ分け)しました。出血の量、脈拍、毒の巡る速度を秒単位で計算して、誰から先に治すべきかを冷徹に決める『トリアージ』を徹底したんです。冒険者さんたちからは最初、『冷たい』『仲間が苦しんでいるのに計算ばかりしている』って罵倒されました。でも、アイラさんが仰っていた【クッション言葉】を使いながら、『お気持ちは痛いほど分かりますが、まずは止血の優先度を精査させていただきます』ってお答えして……」
「……」
「そうしたら、誰も死ななくなったんです。無駄な高位魔法を連発して魔力切れを起こすこともなくなって、どんな激戦でも全員を生かして帰れるようになりました。現場がどんなに血まみれの地獄絵図になっても、窓口で絶対に眉一つ動かさないアイラさんの冷徹なお顔を思い浮かべると、不思議と手の震えが完全に止まるんです」
隣で聞いていたルークが、「アイラさんの顔を思い浮かべると手の震えが止まる……? 僕なんて逆に震えが止まらなくなるのに……」と小さく呟いて私の冷たい視線に射抜かれ、即座に口を噤んだ。
「そうして、言われた通りに淡々と優先順位を処理していたら……いつの間にか、周囲の冒険者さんたちが私のことを『どんな混乱の中でも決して動じず、平等に命の重さを見極める聖女様』って呼ぶようになってしまって……。私、全然そんな聖女らしい高潔な祈りなんて捧げていなくて、ただ頭の中で『この案件はトリアージ分類レベル2、所要時間三十秒』って、アイラさんみたいに事務処理をしていただけなのに……はい」
ミアが困ったように眉を下げて息を吐いた。
私は手元の羽ペンを指先で回しながら、彼女の発する【残響の波紋】を静かに観察した。
視界に広がる彼女の声の波紋。
そこには、かつてのゼクスたちに支配されていた頃の、重苦しく濁りきった暗紫色のノイズは微塵も存在しない。
あるのは、透き通るような白銀と、理性を宿した鮮やかな青色の波紋。
自分自身の技術に絶対の規律を持ち、感情という不確定要素を排して他者を救い出すプロフェッショナルだけが放つ、極めて純度の高い光だ。
皮肉な話である。
本人はただ、私の「動かない事務処理術」を現場の医療行為にコピーして実行しているだけに過ぎない。だが、パニックに陥った冒険者たちからすれば、阿鼻叫喚の修羅場において一切の動揺を見せず、神の如き正確さで命を救い上げていくその姿は、いかなる祈りの言葉よりも神聖で、慈悲深い「聖女の降臨」に見えたのだろう。
「……ミア様。道具や理論というものは、使う者の知性と覚悟によってその価値が決定されます。貴女が私の事務処理プロセスを正しく解釈し、優秀な現場指揮官へと成長したのなら、ギルドの窓口責任者としてこれ以上の利益はありません」
「アイラさん……」
「周囲が貴女を聖女と呼ぼうが、奇跡と称えようが、それは他者が勝手に付与したラベリングに過ぎません。大切なのは、貴女が自分自身のロジックにエラーを出さず、現場をコントロールし続けることです。……その報告書を見る限り、貴女のシステムは極めて健全に稼働しているようですね」
私の評価に、ミアの瞳がぱあっと輝いた。
その笑顔は、かつて絶望の底にいた少女のものとは別人のように誇らしく、力強い。
「はいっ! アイラさんにそう言っていただけて、本当に嬉しいです、はい!」
ミアは満足そうに大きく頷くと、肩から下げていた鞄をごそごそと探り、丁寧に布で包まれた小さな木箱を取り出した。
それをカウンターの端へ、音を立てずにそっと滑らせてくる。
「……これは何でしょうか。当ギルドのコンプライアンス規約第十八条により、職員が特定の冒険者から金品や不当な利益供与を受けることは厳格に禁じられていますが」
私が即座に眉を吊り上げると、ミアは慌てて小さな手を横に振った。
「ち、違います! 賄賂なんてとんでもないです! これは……その、日頃の感謝を込めた、個人的な差し入れです、はい! 王都の東門の通りに新しくできた、行列のできる果実菓子店『リュミエール』の……『白桃とエルダーフラワーの特製タルト』です!」
ピクッ、と。
私の右眉が、極めて微かに、しかし確実に跳ね上がった。
(……『リュミエール』の、白桃タルト……!?)
私の脳内データベースが、瞬時に該当の情報を検索・展開する。
毎朝、王都近郊の契約農家から馬車で直送される、完熟の最高級白桃だけを厳選。果汁が滴るその瑞々しい果肉を、エルダーフラワーのシロップで軽くコンポートにし、芳醇な発酵バターをふんだんに使用したサクサクのタルト生地の上に、花弁のように美しく敷き詰めた至高の逸品。
一日限定十五個。
開店からわずか十分で完売し、ギルドの窓口から一歩も動けない私にとっては、物理的な入手が極めて困難な「幻のタルト」ではないか。
「あの……神殿の司祭様が並んで買ってきてくださったんですけど、私、甘いものは少しで十分なので……。アイラさん、いつも難しいお顔でたくさん書類を書いていらっしゃるから、夕方のお疲れの時に糖分を補給していただきたくて……はい。あ、もちろん、召し上がるのは業務時間外で構いませんので!」
ミアは一生懸命に言い募る。
私の目は、木箱の隙間から微かに漂ってくる、上品で華やかな白桃の香りを逃さなかった。
私はカウンターの魔導時計に視線を落とした。
十六時五十八分三十秒。
「……ルーク」
「は、はいっ!」
「先ほどミア様から提出された完了報告書を台帳へ登録し、本日の全業務ログの整合性を確認しなさい。残り時間は一分三十秒です。一秒の遅延も許しません」
「了解です! やります!」
ルークを猛烈な速度で作業に向かわせ、私は再びミアに向き直った。
表情筋をミリ単位で制御し、冷徹な事務官の顔を保ちながら、低く落ち着いたトーンで告げる。
「ミア様。規約の厳密な解釈を行います。第一に、本件の物品は業務に対する対価ではなく、個人的な好意による贈答品であること。第二に、受領および消費が【業務時間外】に行われること。第三に、当該物品が消費期限の極めて短い生菓子であり、返還することがかえって資源の重大な廃棄に繋がること。……以上の三点に鑑み、本件はギルドのコンプライアンス規約の適用除外と判断します」
「ふふっ……はい!」
私の理屈を並べ立てた言い訳に、ミアはすべてを察したように優しく微笑んだ。
私は木箱を引き出しの奥へと、誰にも奪われないよう厳重に収納した。
「受理いたします。……ミア様、一つだけ忠告を」
「はい、何でしょうか?」
「周囲から『聖女』と呼ばれるようになれば、今後は貴女の善意や奇跡を無償で利用しようとする、質の悪いクレーマーや寄生虫のような人間が必ず群がってきます。かつてのゼクスたちのように」
「……はい」
「その時は、決して情に流されて安売りをしてはなりません。断る時は、冷徹な一言で相手の逃げ道を塞ぎなさい。『私のリソースは有限であり、規律を守れない方に配分する余裕はありません』と。……現場を守るプロフェッショナルの誇りを、決して手放さないように」
私の厳しい言葉を、ミアは胸に手を当て、深く、深く受け止めるように頷いた。
「はい、アイラさん。心に刻んでおきます。私、絶対に負けません。誰かの都合のいい聖女にはならず、自分の足で、アイラさんのように誇りを持って立ち続けます、はい!」
深々と礼をして、ミアは身を翻した。
ギルドの扉へと向かうその足取りは、かつて重い足鎖を引きずっていた頃とはまるで違う。風のように軽やかで、確かな自信に満ち溢れていた。
フロアにいた冒険者たちが、彼女の通り道を開け、敬意を込めて見送る。その光景は、もはや一人の立派な「英雄」のそれだった。
十七時〇〇分〇〇秒。
定時を告げる澄んだ鐘の音が、王都の夕空に響き渡った。
「アイラさん! ログの登録、全部ジャストで終わりました!」
「よくやりました、ルーク。本日の業務はすべて終了です」
私は立ち上がることなく、手元の羽ペンをスタンドに戻し、窓口の木製シャッターの留め金を外した。
ガシャン、と重厚な音を立ててシャッターが降り、外界の喧騒と窓口の空間が完全に遮断される。
完璧な定時退勤プロトコルの完了だ。
私は引き出しから、先ほどの木箱を丁寧に取り出した。
蓋を開けると、そこには夕暮れの光を浴びて宝石のように艶やかに輝く、薄紅色の白桃タルトが鎮座していた。
瑞々しい果肉の甘い香りと、エルダーフラワーの爽快なハーブの香りが、一日の業務で酷使した私の脳内メモリを優しく満たしていく。
「……素晴らしいわね」
誰にも見られないシャッターの向こう側で、私はほんのわずかだけ口角を緩めた。
感情に流されず、事実と数字で己を鍛え上げた少女の成長。
そして、その結果として私の手元にもたらされた、至高の定時後スイーツ。
人を育て、システムを適正化することの真の投資対効果を、私は今夜、極上の甘みと共に心ゆくまで味わうとしよう。




