第51話:深層心理のデバッグ(最終質問)
二度のセキュリティ・ロックを解除したことで、空中に投影された結界のホログラムは、赤と緑の光が混ざり合い、不安定な鼓動を打っていた。
だが、まだシステムは完全には復旧していない。最も根源的なコアシステムへのアクセス権が、最後のパスワードを要求しているのだ。
私は手元の砂時計を一瞥した。
時刻は十六時三十分。
王都の高級レストラン『ル・シエル』で削りたての黒トリュフが香る至高の石焼きリゾットを堪能するための【絶対防衛ライン(定時退勤)】まで、残りちょうど三十分。
「さて、長老様。いよいよ大詰めです」
私は、古代のマニュアルの最終ページを開き、先ほどよりもさらに一段階トーンを落とした、冷たくも静謐な声で告げた。
「長きにわたる記憶のデバッグ(真実の確認)も、これが最後です。……結界のコアシステムを再起動させるための、最終質問を読み上げます」
床に座り込み、すっかり威厳を失っていた長老セレシュティンが、ビクッと肩を震わせ、すがるような目で私を見上げた。
「——『貴方が生涯で唯一、愛した者の名は?』」
ギルドのフロアに、息を呑む音が響いた。
愛した者の名。
それは、五百年の時を生きるハイエルフの長老にとって、最も個人的で、最も深く心に秘められた【コア・データ】のはずだ。
「……愛した、者……?」
長老はぽつりと呟き、そしてハッと我に返ったように、慌てて首を横に振った。
「そ、そのような者はいない! 私は精霊の森の長老だぞ! 我が身と心は、大精霊様と森の繁栄のためだけに捧げられている! 個人的な恋愛感情など、この五百年間、ただの一度たりとも抱いたことはない!!」
彼は立ち上がり、周囲のエルフたちに誇示するように声を張り上げた。
「そうだ! 私の愛する者は『精霊の森』そのものだ! それが真実の答えだ!!」
長老が、システムに向かって「精霊の森だ!」と叫ぼうとした、まさにその瞬間。
「お待ちください(ホールド)」
私は、鋭く短いコールで彼の音声を遮断した。
「な、なんだ!? なぜ止める!」
「……長老様。現在の結界システムは、認証エラーの蓄積により【最終警告状態】にあります。次の一回で回答を間違えれば、システムはデータを初期化し、結界は完全に消滅します」
私は、ホログラムの明滅が限界を迎えようとしているのを指差した。
「貴方が今叫ぼうとした『精霊の森』という概念的な回答。……それが貴方の【見栄】や【建前】から来る虚偽であった場合、森は今日、この瞬間に終わりますよ。それでも入力を押しますか?」
「うっ……!」
長老の喉が、引きつったように鳴った。
私の【残響の波紋】は、彼の言葉が真っ黒な虚偽であることを、すでに残酷なほど鮮明に捉えている。彼は、自分が嘘をついていることを、心の奥底では完全に自覚しているのだ。
「……なぜだ。なぜ、私は結界のパスワードなどという重要なものを、忘れてしまったのだ……」
長老は再び頭を抱え、震える声で呻いた。
「思い出したくても、思い出せないのだ。私の心には、森への愛しかないはずなのに……システムがそれを拒絶するというなら、私は五百年前に、一体誰の名前を登録したというのだ……!」
「忘却の理由(エラー・ログの解析)は、非常にシンプルです」
私は椅子から一歩も動かず、カウンターの上に広げた『二つの台帳原本』をトントンと指先で叩いた。
「貴方が、その人物の存在を『自分自身の高潔なエルフの歴史にとって、ふさわしくない汚点である』とみなし、脳内のフォルダから意図的に消去し続けてきたからです」
「な……なに?」
「点と点を繋ぎ合わせれば、貴方がひた隠しにしてきた深層心理のバグ(真実)は、容易に浮かび上がります」
私は、先ほどルークに持ってこさせた『五百年前の裏帳簿』と『三百年前の条約交渉メモ』を並べた。
「第一の質問。五百年前、貴方はなぜ王都の裏路地にある『踊る豚亭』のような不潔なギャンブル場に出入りしていたのか。……当時の押収記録の端書きには、こう記されています。『この銀髪のエルフは、隣接する人間のパン屋の常連であり、毎日大量の甘いパンを買っていく奇妙な客だった』と」
「……っ!」
長老の肩が、大きく跳ねた。
「そして第二の質問。三百年前、貴方が条約交渉で『あり得ない計算ミス』を犯した理由。……当時の交渉議事録に記されている、人間側の交渉補佐官の名前。それは『アンナ』という人間の女性です」
私は、長老の目を真っ直ぐに射抜いた。
「五百年前、貴方が通い詰めていたパン屋の娘の名前も『アンナ』。……おそらく、三百年前の交渉補佐官は、その娘の子孫にあたる人物だったのでしょう。面影が、酷似していたのではありませんか?」
ギルドのフロアに、一切の物音が消えた。
背後のエルフたちも、マスターも、ルークも、ただ息を呑んで私の推理(デバッグ作業)を聞き入っている。
「高潔なエルフの長老となるべき自分が、短命で下等な『人間のパン屋の娘』に恋をしてしまった。……五百年前の貴方は、彼女の店の借金を返すために、わざわざ自分の金銭を裏カジノのポーカーで増やそうとした。それが、第一の質問の真実です」
「や、やめろ……」
長老が、震える両手で耳を塞ごうとする。
「そして三百年前。交渉の席に現れた『彼女の面影を持つ子孫』を見た貴方は、動揺し、彼女たちの住む土地(森の南側)が人間に奪われないよう、あるいは彼女たちに豊かな土地を残してやりたいという【私情】から、わざと計算ミスをしたふりをして、広大な土地を人間に譲渡した。……それが、第二の質問の真実です」
「やめてくれぇぇっ!!」
長老セレシュティンが、ついに床に突っ伏して絶叫した。
「……長命なエルフにとって、人間の寿命など一瞬の瞬きに過ぎません。彼女が老いて死んでいくのを看取るのが恐ろしかった貴方は、自らのプライドと悲しみを守るため、彼女に関するすべての記憶に『アクセス制限』をかけた」
私は、冷徹なSVの眼差しの奥に、ほんの少しだけの哀れみを込めて告げた。
「しかし、貴方の心の中核は、彼女を愛した記憶を決して手放してはいなかった。だからこそ、最も強固な結界のパスワードに、彼女の名前を設定したのです。……違いますか、長老セレシュティン様」
長老は、もはや反論する気力すら残っていなかった。
彼の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、床の石畳を濡らしている。
「……そうだ。お前の、言う通りだ」
長老は、五百年の傲慢な仮面を完全に脱ぎ捨て、一人の惨めな老人として嗚咽した。
「アンナ……。焼きたてのパンのような、温かくて、柔らかい手をした娘だった。私は、彼女の笑顔を見るためだけに、毎日王都へ通っていた……。だが、エルフの私には、彼女と共に老いることはできなかったのだ……っ!」
長老の涙の告白に、周囲の冒険者たちの中には、もらい泣きをする者まで現れた。
背後のエルフたちも、自分たちの長老が抱えていたあまりにも人間臭く、悲しい秘密を知り、もはや彼を責める言葉を持たなかった。
「……感情のデトックス(自己開示)が済んだなら、速やかに最終処理をお願いします」
私は手元の砂時計の最後の砂が落ちるのを確認し、事務的な声で促した。
時刻は十六時四十分。
そろそろ、本気でクロージング(対応完了)に入らなければ、私のリゾットが冷めてしまう。
「システムは、貴方の音声入力を待っていますよ」
長老セレシュティンは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、空中のホログラムに向かって、五百年間封じ込めてきた、生涯でただ一人の愛する者の名を、愛おしむように囁いた。
「……『パン屋の娘、アンナ』……」
『ピロロン!! [全認証成功:特権管理者を確認。結界システムを通常モードで再起動します]』
その瞬間。
ホログラムの結界を覆っていたすべての傷と瘴気が光の粒子となって弾け飛び、森の最深部を覆う、完璧で美しい真緑の絶対結界が再構築された。
エラー音は止み、ギルドのフロアに、深く安らかな静寂が戻ってきた。
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次回お楽しみに。




