第37話:消えた報酬と、アウトバウンド(架電)の開始
「……季節は初冬。気温の低下に伴い、私の労働意欲を支えるための特別な燃料が必要となる時期ね」
底冷えのするギルドのカウンターで、私は完璧な姿勢を保ちながら、脳内にひとつの『芸術作品』を描き出していた。
来週、ギルドから支給される予定の【冬の特別ボーナス】。
私の今年のボーナスの使い道は、すでに数ヶ月前から確定している。王都で最も予約が困難な高級海鮮料亭『海神の宴』で提供される、冬季限定・幻の雪蟹のフルコースだ。
極寒の北の海で育ち、丸太のように太く身が詰まった純白の蟹脚。それを特製の出汁にくぐらせて、半生の状態で口に放り込む。噛んだ瞬間に弾ける強烈な甘みと、磯の香り。さらに、甲羅の中でグツグツと煮え滾る、濃厚でコクのある蟹味噌。そこに熱燗を注ぎ込み、最後の一滴まで海の旨味を飲み干す……!
(……ああ、駄目だわ。想像しただけで理性が融解しそう。一年間、冒険者の汗臭さと理不尽なクレームに耐え抜いた私の精神は、この雪蟹の甘みによってのみ浄化されるのよ)
私は手元の書類に承認印をリズミカルに押し続けながら、来週の雪蟹に思いを馳せていた。
「ア、アイラ君……少し、いいかね……」
その時。
二階の執務室から、ギルドマスターのバーンズが、まるで幽霊でも見たかのような青白い顔で一階のフロアへと降りてきた。
その尋常ではない様子に、隣の窓口で作業をしていたルークも「マスター、どうしたんですか?」と首を傾げている。
「お疲れ様です、マスター。何かトラブル(イレギュラー)でしょうか?」
私は『営業用スマイル・タイプA』を向けた。
「実、実はね……。非常に言いにくいんだが。……今年の冬の特別ボーナスは、全額カット……よくて、数枚の銀貨しか出せないかもしれないんだ」
「…………はい?」
ギルドの空気が、ピシッ、と凍りついた音を立てた。
私の顔から、完璧だったはずの営業用スマイルが完全に剥がれ落ちる。
「ボ、ボーナスが、カット……? そんな、僕、実家に仕送りしようと思ってたのに!」
ルークが悲鳴を上げたが、私の耳にはもう彼の声は届いていない。
ボーナスが、ない。
私の、幻の雪蟹が。極太の蟹脚が。濃厚な蟹味噌が……消滅する?
「……マスター。当ギルドの今期の売上(KPI)は、前年比で一二〇%を達成しているはずです。利益は十分に出ている。それにもかかわらず原資がショート(枯渇)しているということは……何か、極めて深刻な『未回収の売掛金』が存在するということですね?」
私の声は、王都を吹き抜ける木枯らしよりも冷たかった。
マスターはビクッと肩を震わせ、ハンカチで滝のような冷や汗を拭った。
「そ、その通りだ。……ヴァレリウス伯爵だよ。一ヶ月前、彼が自身の領地に現れた『凶暴な土竜』の討伐を、Sランクパーティに依頼しただろう?」
「ええ。討伐は無事に成功し、パーティは帰還しました。規定通り、ギルドがSランクパーティへの報酬『金貨一万枚』を立て替えて先払いしています」
「問題はそこなんだ! ヴァレリウス伯爵が……その一万枚をギルドに支払わないまま、領地の屋敷に引きこもってしまったんだよ!」
マスターの言葉に、私はすべてを理解した。
高位貴族や大商人からの依頼は、信用取引が基本だ。ギルドが先に冒険者に報酬を支払い、後から依頼主に請求書を回す。
だが、その伯爵は、ドラゴンの脅威が去った途端に支払いを渋り、そのまま「逃亡」したのだ。ギルドの金庫から金貨一万枚が消えたままになれば、当然、職員に払うボーナスなど残るはずがない。
「……なるほど。状況は理解しました。ルーク、貴方は先ほどから何をしているのですか?」
私は、隣の窓口で『遠隔通信魔道具』に向かって、何度も何度も魔力を流し込んでは溜息をついている相棒を睨みつけた。
「あ、アイラさん! さっきからヴァレリウス伯爵の屋敷に通信を繋いでいるんですけど、全然ダメなんです! 使用人が出て『当主は不在です』って一方的に切られるか、そもそも着信を拒否(居留守)されてしまって……。今日だけで二十回は鳴らしてるのに!」
ルークが泣きそうな顔で通信機を叩く。
「愚かね」
私は冷たく言い放ち、ルークの手から通信魔道具をひったくった。
「ルーク。相手が来るのをただ待つだけの『インバウンド(受電)』の思考で、逃げる債務者を捕まえられるわけがないでしょう」
「えっ……? で、でも、こっちからかけてるから、アウトバウンドじゃないんですか?」
「闇雲にダイヤルを回すのは、ただの『迷惑行為』よ。相手に警戒され、着信拒否のリストに入れられるだけ」
私は椅子から立ち上がり、自分のデスクの奥から『ヴァレリウス伯爵の過去の依頼履歴』と『通信ログ』の分厚い束を引っ張り出した。
「いい? 相手は高位の貴族。常に使用人や執事に守られている。正面から通信を繋いでも、優秀な『受付』に弾かれるに決まっているわ。……確実に本人と通話するためには、相手の生活リズムの隙、つまり『魔の空白時間』を特定しなければならないのよ」
前世のコールセンターにおいて、最も過酷で、最も技術が問われる部門。
それが、未払い金の回収を行う【督促アウトバウンド業務】だ。
相手は「電話に出たくない」「払いたくない」人間である。彼らを逃さず、電話口に縛り付けるための第一歩は、『本人通話成立(Right Party Contact = RPC)』の確率を極限まで高めることにある。
私は目にも留まらぬ速さで、過去の通信ログを分析していく。
「……過去半年の通信記録。伯爵が自ら通信に出た時間帯の偏り。背景音(環境ノイズ)の分析。……見えたわ」
私はペンで、時刻表の一点に丸をつけた。
『十五時四十五分』。
「アイラさん、この時間がどうかしたんですか?」
「この時間はね、伯爵の屋敷の『使用人たちのシフト交代』と『厨房の夕食準備』が重なる時間帯よ。過去の通信ログの背景音から、この十五分間だけ、屋敷の廊下を歩く足音が極端に減っている。つまり、優秀な執事や使用人の目が伯爵から離れる『エアポケット』よ」
「な、なるほど……!?」
マスターとルークが、私の異様な執念と分析力に戦慄の表情を浮かべる。
「さらに、伯爵本人はこの時間、午後の入浴を終えて書斎で一人、ワインを飲みながらくつろいでいる可能性が高い。気が緩み、手元で鳴った通信魔道具を『無意識に自分で取ってしまう』確率が最も高い時間帯よ」
時計の針を見上げる。
現在時刻、十五時四十四分。
……完璧なタイミングだ。
「……私の雪蟹を奪おうとした罪、その身をもって後悔させてあげるわ」
私は氷のような冷たさを孕んだ瞳で通信魔道具を見据え、魔力を流し込んだ。
狙い澄ました、たった一回の架電。
『ルルルル……ルルルル……』
魔道具が低く鳴る。
一回。二回。三回。
四回目のコールの途中で——『カチャリ』と、通信が繋がる音がした。
『……あー。なんだ、誰だ? 今は執事が席を外しておってな』
通信機から漏れ出たのは、酒焼けしたような、油断しきった中年の男の声だった。
ビンゴ。ヴァレリウス伯爵、本人だ。
ルークが「繋がった!?」と声を上げそうになるのを、私は手で制止した。
『おい、何も言わんのなら切るぞ。いたずらか?』
男が怪訝そうに言い、通信を切ろうとする気配が走る。
ここが勝負だ。
アウトバウンドにおいて、相手が「面倒だ」と思って電話を切ろうとする最初の三秒間。これを突破するための『強烈な掴み(フック)』を叩き込む。
私は『営業用スマイル・タイプS(絶対零度の処刑宣告)』を浮かべ、甘く、冷たい声で囁いた。
「——王都冒険者ギルド、特務債権回収部門のアイラと申します。ヴァレリウス伯爵」
『なっ……!? ギ、ギルドだと!? ええい、不在だと言っているだろう! 通信を切る!』
「お切りになっても構いませんよ」
私は、相手の逃げ道を物理的・精神的に塞ぐ、アウトバウンド専用のクロージング・スクリプトを起動した。
「ですが、今この通信を切断された場合。……一分後に、王都中の報道機関へ『ヴァレリウス伯爵家、金貨一万枚の未払いで破産寸前か』という号外がばら撒かれる手はずとなっておりますが。……それでもよろしいですか?」
『…………っ!!』
通信機の向こうで、伯爵の息が完全に止まる音がした。
ふふっ。貴族が最も恐れるのは、命よりも『社会的体面』の崩壊だ。
「さあ、ヴァレリウス伯爵。私の大切なボーナス……いえ、ギルドの大切な運営資金について、建設的なお話し合い(ネゴシエーション)を始めましょうか」
窓口から一歩も動かず、顔の見えない逃亡貴族の首根っこを遠隔で掴み上げる。
氷のSVによる、血も涙もない【督促業務】の幕が上がった。




