番外編:【ギルドマスター視点】絶対零度の微笑みと、稟議書のシュレッダー
ホワイトデー記念です。
「……今日も、完璧な笑顔だな。アイラ君は」
王都支部ギルドマスターである私、バーンズ(五十五歳・元Aランク重戦士)は、二階の執務室の窓から一階のフロアを見下ろし、重い溜息をついた。
時刻は十四時。
午後の日差しが差し込むギルドの窓口で、我が支部の誇るトップ受付嬢・アイラは、今日も一歩も動かずに完璧な業務をこなしている。
透き通るような銀糸の髪に、誰もが見惚れる美しい顔立ち。彼女が『営業用スマイル』を向ければ、どんなに血の気の多い荒くれ冒険者も、毒気を抜かれたように大人しく列に並ぶ。
「アイラちゃんに会うためにクエストを頑張っている」と公言する若手も少なくない。彼女は間違いなく、この王都支部における「美しき聖女」であり、看板娘だ。
——だが、それはあくまで「客(冒険者)」から見た彼女の姿に過ぎない。
私のような管理職や、彼女の隣で常に震えながら働いている新人のルークからすれば、彼女は聖女などではない。
効率と定時退勤という名の『絶対原則』を掲げ、少しでもそれに反する者には、たとえ上司であろうと容赦なく論理の刃を突き立てる【氷の処刑人】だ。
私は手元にある一枚の羊皮紙——王都本部から送られてきた『ギルド職員・士気向上および結束強化のための通達(稟議書)』を見つめ、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じた。
本部の連中(頭の固い老人たち)が考えた、時代錯誤も甚だしいこの企画。
内容は二つ。
一つ、『毎朝の就業前、全職員によるギルド訓の大声での唱和(朝礼)を義務付けること』。
二つ、『月に一度、職員間の親睦を深めるため、業務終了後に全員参加の懇親会(飲み会)を開催すること』。
「……こんなもの、あのアイラ君に見せたらどうなるか。火を見るより明らかじゃないか」
私は頭を抱えた。
しかし、本部の決定は絶対だ。支部長である私が、現場の責任者(SV)である彼女にこれを承認させ、実行に移さなければならない。
私は意を決して立ち上がり、冷や汗をハンカチで拭いながら、一階のフロアへと降りていった。
「や、やあ。アイラ君。お疲れ様」
顧客の波が引き、アイラが手元の書類を整理している隙を見計らって、私は彼女の窓口へと近づいた。
「お疲れ様です、マスター。何かご用命でしょうか?」
アイラが顔を上げ、完璧な角度の微笑みを向けてくる。
冒険者たちなら骨抜きになるであろうその笑顔。だが、私にはわかる。彼女の目の奥には、一ミリの感情もこもっていない。これは彼女が『無駄なイレギュラー案件を持ち込まれた時』に起動する、【営業用スマイル・タイプB(表面的な服従と完璧な防御)】だ。
「じ、実はね。本部から、新しい労働環境の改善……というか、士気向上のための施策が降りてきてね。現場の責任者である君に、目を通しておいてほしくて」
私は震える手で、例の稟議書をカウンターに置いた。
アイラは姿勢を一切崩さず、視線だけをスッと羊皮紙に落とした。
一秒。二秒。三秒。
彼女が文字を追う間、ギルド内の温度が急激に、マイナス十度ほど下がったように感じられた。隣の窓口でルークが「ひっ」と短い悲鳴を上げて身を縮めている。
「……マスター」
アイラが、ゆっくりと顔を上げた。
笑顔だ。完璧な笑顔のままだ。だが、その声には、深海よりも冷たい圧が込められていた。
「この『朝礼におけるギルド訓の唱和』ですが。……就業時間の十五分前に全員を集合させると記載されていますね」
「あ、ああ。朝の挨拶を大声ですることで、気合いを入れるという本部の……」
「なるほど。『精神論』ですか」
アイラは手元の羽ペンを指先でクルリと回した。
「マスター。当支部には現在、二十名の窓口スタッフが在籍しています。毎日十五分間の拘束。二十名で一日に合計三百分の労働時間が割かれます。月に二十日稼働として、約百時間の損失です」
「そ、損失……?」
「ええ。この百時間は『業務外の強制拘束』にあたりますので、当然、時間外労働(残業代)として本部へ請求させていただきます。……まさか、無給でやれとは仰いませんよね? 労働基準のコンプライアンス違反で騎士団の監査が入りますよ」
「うっ……! そ、それは……」
「さらに申し上げます」
アイラは私の言い訳を一切の容赦なく遮断した。
「朝から無駄に大声を出すことで、スタッフの声帯は疲労し、窓口での発声品質が低下します。結果として顧客とのミスコミュニケーションが増加し、一件あたりの平均処理時間(AHT)が現在の六分から八分へ悪化すると試算されます。……これは、ギルドの回転率を意図的に下げる行為ですが、本部はそれによる『売上低下の責任』を取っていただけるのでしょうか?」
「あわわ……」
私はハンカチで滝のような汗を拭った。
数字だ。彼女は常に、感情や精神論ではなく、圧倒的な『数字』と『論理』で殴ってくる。
たかが朝礼一つに、ここまで完璧な反論を用意できる人間がどこにいる!?
「そ、それでは……もう一つの、懇親会の方はどうだろうか! 月に一度、皆で酒を飲んで親睦を深めれば、チームワークも高まるし……!」
私はすがるような思いで、二つ目の提案に望みを託した。
だが、アイラの笑顔はさらに冷徹さを増した。
「マスター。私は『強制参加の飲み会』ほど、費用対効果(ROI)の悪い投資はないと考えています」
「な、なぜだね!? 仲間同士で腹を割って話すのは……」
「腹を割って話す? いいえ、単なる『権威勾配(上下関係)』の押し付けです。上司の武勇伝や愚痴を、部下が愛想笑いで聞き続けるだけの三時間。翌日には二日酔いによるパフォーマンスの大幅な低下。……それでどうやってチームワークが高まるのですか?」
アイラは立ち上がりもしない。カウンターに座ったまま、私を完全に見下ろしていた。
「それに、最も重要な問題があります。……その飲み会は、当然『業務時間内』に開催されるのですよね?」
「えっ? いや、業務終了後(十七時以降)に……」
「お断りします」
ギルドの空気が、完全に凍結した。
アイラから放たれる殺気が、元Aランク重戦士である私の皮膚をビリビリと刺している。
「私の定時退勤(十七時)は、王都の法律よりも重い絶対原則です。……マスター。もし私に、その『無給の飲み会』への参加を強要されるのであれば」
アイラはスッと目を細め、私にだけ聞こえる低音で囁いた。
「私は明日から、窓口での『営業用スマイル』のオプションを外し、すべて『事務的で無機質な対応』に切り替えます。……冒険者からの顧客満足度(CS)アンケートの評価が地の底に落ち、マスターの管理責任が本部に追及されることになりますが。それでも、飲み会を開催しますか?」
「ひっ……!!」
脅迫だ。
これは完全な脅迫だ!
この王都支部の売上と平穏は、彼女の『完璧な窓口対応』によって支えられている。もし彼女が手を抜けば、クレームは爆発し、私のボーナスは吹き飛び、最悪の場合は支部長をクビになる!
「……どうされますか、マスター。この素晴らしい企画書(稟議書)、私が責任を持って『処理』しておきましょうか?」
アイラが、氷のような微笑みを浮かべたまま、羊皮紙に手を伸ばした。
「あ、ああッ! いや、すまない! 私の勘違いだった! こんな非効率な企画書、本部の連中が寝ぼけて書いたに違いない! わ、私が自分で処分しておくよ!」
私は慌てて羊皮紙を奪い取ると、自らの手でそれをビリビリと細かく引き裂き、近くのゴミ箱へシュートした。
「左様でございますか。英断(適切なマネジメント)に感謝いたします、マスター。今後も当支部が、無駄のない最高の品質で運営されることを願っております」
アイラは何事もなかったかのように、手元の書類整理に戻った。
私は逃げるように自分の執務室へと戻り、ドッと椅子に腰を下ろした。
全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。ダンジョンの最深部でドラゴンと対峙した時よりも、はるかに恐ろしい数分間だった。
(……本部の馬鹿共め。あいつに精神論が通じるわけないだろうが……!)
壁の時計を見ると、時刻は十六時五十五分。
アイラの定時退勤まで、あと五分。
一階の窓口をこっそりと覗き込むと、アイラはすでに机の上を完全に片付け、いつでも飛び出せる態勢を整えていた。
その唇が、微かに動いているのが見えた。読唇術で読み取ると、こうだ。
『……今日の夕食は、大通り裏の老舗洋食屋の、限定二十食・特製ビーフシチュー……絶対に、誰にも邪魔させない……!』
あぁ、なるほど。
彼女のあの尋常ではない殺気の根源は、本部への反発でも効率化への執念でもない。単に「限定のビーフシチューを食べ損ねるのが嫌だったから」だ。
「……どうか、彼女のビーフシチューが売り切れていませんように」
私はこの王都支部の明日からの平穏を守るため、窓口に座る絶対的な支配者の夕食が、最高に美味しいものであることを、ただひたすらに神に祈るしかなかった。
(ギルドマスター視点編・完)
ホワイトデー関係なかった!!!




