特別編前編:評価指標(KPI)は45秒
前編です
「……あと、十秒。九、八……」
私は指先でデスクの端を軽く叩きながら、壁の時計と同期するようにカウントダウンを刻む。
十七時ちょうど。この瞬間にギルドのシャッターを下ろし、私は「受付嬢」という仮面を剥ぎ捨てる。今夜の目的地は、駅裏に新しくできた串焼き屋だ。脂の乗った鶏もも肉を炭火で焼き上げ、冷えたエールで流し込む。その官能的な儀式まで、あと一歩。
「アイラさん! アイラさん、見てください! ついに来ましたよ!」
背後から、期待に満ちた大型犬のような声が響く。私の完璧な退勤シークエンス(手順)を乱す不確定要素。相棒のルークだ。
振り向くと、彼は一枚の書状を掲げていた。
「『二級受付嬢・昇級試験』の通知です! これに合格すれば、僕の給料も上がります。そうすれば、いつもアイラさんに奢ってもらっているランチ代も、僕が……!」
「ルーク。今、何時だと思っているの?」
私は営業用スマイルを完全にオフにし、温度のない声を向けた。
「えっ? あ、十七時ちょうどですけど……」
「そう。私の業務時間は終了したわ。あなたの個人的な吉報に付き合って、私の『鶏もも肉タイム』を五分削るコストがどれだけ大きいか、理解できているかしら?」
「す、すみません! でも、これ……!」
差し出された書状を、私は指先でつまむようにして受け取った。
ふむ。本部の監査官が直々に立ち会う実技試験か。ルークのような「やる気だけが空回りしている新人」には、いささかハードルが高い。
私はデスクの引き出しから、一冊の分厚いログを取り出した。彼がこの一週間、窓口で対応した全案件の集計データだ。
「ルーク。あなたの現在の『平均処理時間(AHT)』は、一人あたり平均六分十五秒。……控えめに言って、ダイヤルアップ接続並みの鈍亀ね」
「ど、鈍亀……。でも、僕は丁寧な対応を心がけているんです! 冒険者の皆さんの話をちゃんと聞いて……」
「それは『丁寧』ではなく、単なる『トークコントロールの欠如』よ」
私はログを机に叩きつけた。
「いい? ギルドの窓口は懺悔室でもなければ、酒場でもない。あなたが一人に時間をかけるほど、後ろに並んでいる冒険者たちの『待ち時間』は積み上がり、彼らのストレス値は指数関数的に増大する。それは最終的に、ギルドへのクレームという名の毒となって私に降りかかるのよ」
「うっ……」
「今回の試験、合格ラインは『標準的な処理』となっているけれど。……私の下で働いていて、そんな低次元な目標を掲げることは許さないわ」
私はルークを窓口の内側に立たせ、冷徹に告げた。
「目標KPI(重要業績評価指標)を設定します。一人あたり、正確に四五秒ジャストで捌き切りなさい」
「よ、四五秒!? 無茶ですよ、挨拶してギルド証を預かるだけで終わっちゃいます!」
「だから『スクリプト』が必要なのよ。……座りなさい。今からあなたの脳に、無敵の対話台本をインストールするわ」
そこからの三日間、ルークにとっての地獄が始まった。
私は窓口から一歩も動かず、彼に徹底的な「型」を叩き込んだ。
「違う。今の相槌は長すぎるわ。バックトラッキングは語尾の二語だけでいい。相手が自慢話を始めたら、このタイミングで『左様でございますか。ところで、こちらの書類ですが』と遮断しなさい」
「は、はい……!」
「声のトーンが低い。それでは相手に威圧感を与えるわ。周波数を五〇ヘルツ上げなさい。印鑑を突く角度は垂直から一ミリもずらさない。その一ミリのズレが、積み重なれば一秒のロスになる」
私は【残響の波紋】を発動させ、ルークの発する「声の色」を監視する。
焦燥のオレンジ、疲労のグレー。だが、徐々に彼の声には無駄なノイズが消え、透き通った「事務の色」が混じり始めた。
「いい? ルーク。事務職の美学は、一分の隙もない平均化にあるの。早すぎれば相手は『適当にあしらわれた』と不満を持ち、遅ければ行列が腐る。四五秒という針の穴を通すような精密操作こそが、プロの仕事よ」
そして、試験当日。
朝一番のギルドには、嫌な緊張感が漂っていた。
審判員として現れたのは、王都本部でも「歩く規約集」と恐れられるシモン監査官。眼鏡の奥の瞳は、一切の妥協を許さない厳格さに満ちている。
さらに悪いことに、今日の行列には、近隣でも有名な「話の長い老人」や「態度のデカい荒くれ者」たちが、まるで誰かに仕込まれたかのように並んでいた。
「……アイラさん」
ルークが、震える手でギルド証を握りしめる。
私は自分の窓口のシャッターを半分だけ開け、隣に座る彼に、聞こえるか聞こえないかの低音で囁いた。
「ルーク。私の指示から一文字でも逸脱しなさい。……その瞬間に、不合格通知を待たず私があなたをシュレッダーにかけて、本日のゴミ回収に出してあげるわ」
「ひっ……! 頑張ります!」
カチリ、と。
監査官が懐中時計の蓋を開けた。
開始のベルが鳴り響くと同時に、一人目の冒険者がルークの窓口へと足を踏み出す。
さあ、ショータイムの始まりだ。
私の定時退勤と、この子のキャリアを賭けた、一秒の狂いもない「事務的聖裁」の時間が。
(後編へ続く)




