#033『金木犀の呼吸と眠る独楽』
今回の短編は三題噺です。「金木犀」「文化祭」「独楽」です。
5000字以下に収まるように書いてみましたので、内容は薄いです。主人公の女子高生には名前も付けてませんし。良かったら、お付き合いください。
『金木犀の呼吸と、眠る独楽』
ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐった。
秋の深まりを告げるその匂いは、どこか懐かしく、そして少しだけ胸の奥をきゅっと締め付ける。
(ああ、今年もこの季節がやってきたのね……)
私は小さく息を吐き、手元の絵筆を置いた。
放課後の教室は、絵の具の匂いと、段ボールの埃っぽさ、そして窓の外から風に乗って運ばれてくる金木犀の濃厚な香りが入り混じっている。
二週間後に迫った文化祭の準備で、クラス中が浮き足立っていた。黒板には極彩色で描かれたお化け屋敷の設計図があり、床には丸められた新聞紙が散乱している。私はクラスの装飾係として、ひっそりと教室の隅で提灯の絵付けを任されていた。
(私には、こういう裏方の、静かな作業が合っているな)
自分のペースで、ぽつぽつと色を重ねていく時間は嫌いではない。だけど、時折響くクラスメイトたちの大きな笑い声を聞くと、透明な壁の向こう側を眺めているような、ほんの少しの寂しさを感じることもあった。
「……また、失敗か」
ふいに、教室の反対側の隅から、低く呟くような声が聞こえた。
視線を向けると、隣の席の蒼井くんが、床に座り込んで木の盆を見つめている。彼の足元には、すり鉢状になった大きめの木の盆と、木製の奇妙な物体が転がっていた。
彼が担当しているのは、郷土研究部としての出し物である『昔遊びの展示と実演』だということは知っていた。でも、彼が一体何にそんなに苦戦しているのか、私はずっと気になっていた。
気づけば、私は筆を洗い、そっと彼の方へ歩み寄っていた。
(迷惑じゃないかな。でも、少しだけ……)
「あの、蒼井くん。それは……?」
おずおずと尋ねると、彼は少し驚いたように肩を揺らし、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「ああ、これ? 江戸独楽だよ。文化祭で、これを回す実演をやることになっちゃってさ」
「独楽……」
彼が手のひらに乗せて見せてくれたそれは、私が知っているプラスチック製のおもちゃとは全く違っていた。ずっしりとした樫の木で作られており、表面には赤、黄、緑の鮮やかな同心円が描かれている。
「触ってみる?」
「えっ、いいの……?」
差し出された独楽を両手で受け取ると、木肌は驚くほど滑らかで、ひんやりとしていた。鼻を近づけると、微かに椿油のような香ばしい匂いと、木そのものの穏やかな香りがする。指先でそっと撫でると、手作りの工芸品ならではの、かすかな凹凸があった。
「すごく、綺麗な色をしてる。でも、なんだか重たいのね」
「うん。芯がしっかりしていないと、綺麗に回らないんだ。ちょっと見てて」
蒼井くんは独楽を受け取ると、太い麻紐を軸に巻き付け始めた。
シュル、シュル、と紐が擦れる乾いた音が響く。
彼はすり鉢状の盆の中央に狙いを定め、鋭い呼気とともに腕を引いた。
ヒュッと空気を裂く音。
カツン! と木と木がぶつかる硬い音がしたかと思うと、独楽は盆の中で暴れ回り、やがてバランスを崩してゴトゴトと不格好な音を立てて止まってしまった。
「……こんな感じで、なかなか上手くいかなくてさ。遠心力をかけて、軸を真っ直ぐに落とさないといけないんだけど」
悔しそうに独楽を拾い上げる彼を見て、私にできることは何もないけれど、せめて応援したいな、と心の中でそっと呟いた。
それからの二週間、私は提灯の絵付けをしながら、蒼井くんが独楽を回す音をBGMのように聞いていた。
窓から吹き込む風は日ごとに冷たくなり、金木犀の香りは一層濃くなっていく。
シュル、ヒュッ、カツン。ゴトゴト。
何度も何度も繰り返されるその音は、不思議と私の心を落ち着かせてくれた。
時折、彼が淹れてくれた温かいほうじ茶を二人で啜りながら休憩することもあった。湯気とともに立ち上る茶葉の香ばしい匂いと、口いっぱいに広がるほのかな甘み。彼の手には、紐の摩擦でできた小さな豆がいくつもできていた。
「ねえ、独楽が一番綺麗に回っている時って、どんな風に見えるの?」
ある日の夕暮れ、オレンジ色の西日が教室を染め上げる中で、私はふと尋ねてみた。
「『眠る』んだよ」
「眠る?」
「うん。完璧なバランスで高速回転している時、独楽はまるでピタッと止まっているように見えるんだ。それを、独楽が眠るって言うんだって。俺はまだ、一度も眠らせられたことがないけどね」
(独楽が、眠る……)
その言葉の響きは、なんだかとても詩的で、私の胸の奥に静かな波紋を広げた。激しく動いているのに、止まっているように見える。それは、不安や焦りを抱えながらも、表面上は静かに微笑んでやり過ごしている私自身のようでもあり、同時に、私が密かに憧れている「揺るぎない静けさ」そのもののようにも思えた。
そして、文化祭当日。
学校中が非日常の熱気と喧騒に包まれていた。焼きそばのソースが焦げる匂い、バンドの重低音、呼び込みをする生徒たちの張り上げた声。私は自分の当番を終えると、人混みを縫うようにして郷土研究部の展示室へと向かった。
教室は、外の喧騒が嘘のように薄暗く、静かだった。古い民具や和凧が飾られた空間の奥で、蒼井くんは法被姿で立っていた。彼を囲むように、数人の客が興味深そうに盆を見下ろしている。
私は息を潜め、少し離れた場所から彼を見つめた。
蒼井くんは深く深呼吸をし、丁寧に麻紐を巻き付けた。
彼の指先がわずかに震えているのが見えた。
(大丈夫、蒼井くんならきっとできるよ……)
私は両手を胸の前で強く組んだ。
彼は目を閉じ、精神を統一するように一瞬の静寂を作った。開け放たれた窓から、今日一番の強い風が吹き込み、外の金木犀から散ったオレンジ色の小さな花弁が、雪のように教室の中へ舞い込んだ。
その瞬間だった。
ヒュンッ!
空気を切り裂く鋭い音と共に、独楽が盆の中央へと放たれた。
カッと乾いた音が響いた後、盆の中からは何も聞こえなくなった。
いや、微かに「ジーーーッ」という、蜂の羽音のような低い振動音だけが空気を震わせている。
私がそっと覗き込むと、独楽は盆のど真ん中で、微動だにせず立ち尽くしていた。赤、黄、緑の極彩色は、高速の回転によって溶け合い、息を呑むほど美しい一本の虹色の帯へと変わっていた。
「……止まってるみたい」
隣にいた小さな女の子が、目を丸くして呟いた。
(これが……独楽が眠っている姿)
私は魅入られたように、その虹色の軌跡を見つめていた。まるで時が止まったかのような、絶対的な均衡。どれほど激しい力が加わっていても、中心にある芯さえブレなければ、こんなにも美しく、静かに立ち続けることができるのだ。
その美しい姿を見た途端、私の中にあった、透明な壁の向こう側にいるような寂しさや、自分に対する自信のなさが、ふっと溶けていくような気がした。
(私も……私のままでいいんだ。芯を持って、静かに、一生懸命に立っていれば、それで……)
やがて、回転が弱まると、独楽はゆっくりと色を取り戻し、コトリと音を立てて倒れた。
わあっと拍手が湧き起こる。蒼井くんはほっとしたように息を吐き、額の汗を拭った。
そして、人混みの後ろにいる私に気づくと、少しだけ照れくさそうに、でも誇らしげに、小さくピースサインを作って見せた。
私は言葉の代わりに、満面の笑みで何度も頷き返した。
文化祭の熱狂が嘘のように去った、翌週の月曜日。
秋の空はどこまでも高く、澄み渡っている。教室にはいつもの日常が戻り、窓からは相変わらず金木犀の香りが流れ込んできているけれど、ピークを過ぎたその匂いは、以前よりも少しだけ優しく、丸みを帯びて感じられた。
机に頬杖をつきながら、私は目を閉じる。
瞼の裏には、あの日見た虹色の帯が焼き付いている。ジーッという低い振動音が、今も耳の奥で微かに鳴っている気がする。
(私の中にも、あの独楽があるのかな)
胸の奥で、小さな芯が静かに、力強く回り始めているのを感じる。それはまだ頼りない回転かもしれないけれど、きっといつか、あの独楽のように美しく眠ることができるはずだ。
吹き込んだ風が、私の髪をそっと揺らす。深く息を吸い込むと、甘い金木犀の香りが体中を満たし、私は誰にともなく、ふふっと小さく微笑んだ。




