19話 アベルの来襲と撃退
混沌とした寮部屋の中、唯一入居日と同じ清潔さを保つミクシリオのスペースで、彼のベッドに腰掛ける男がいた。勝手に入ってきたことを忘れそうになる程、アベルは堂々としていた。
そして珍しく、口を挟むことなく最後までミクシリオの話を聞いてからいった。
「――それが、オレへの報告が遅れた理由になるとでも?」
ゆっくりと目を細める。本気で怒っている時の物言いではないことを知るミクシリオは、拳を握り締め真っ向から言葉を返した。
「そ、そんなつもりじゃないけど……わざわざ僕の部屋にまで押しかけて詳しい説明を求めたのはアベルの方でしょ……」
恐る恐る、だがミクシリオは言い切った。すでに骨身に染み込んだ服従心を切り捨てるのはまだ慣れない。
想定していた反応を引き出せなかったことに、くすぶるような苛立ちをを覚えつつもアベルは立ち上がって切り替えた。ウィートフィール家・家訓『時は金』を忘れてはならない。
「まあ、特急の仕事だ。机をみろ。今から取りかかれ」
こうやって直接、わざわざアベルがやって来るときは仕事が重要で、かつ、何かミクシリオに言いたいことがある時だ。だから机に置かれた紙束を無視して、二つ目の要件を尋ねた。
「僕に、何か用?」
「……聞こえなかったのか? 特急の仕事だ。とある生徒の重要な精霊契約に必要な書類の作成。内容は『乙女春花物語』、旧北領文字で一章丸々写せ。三日後が期限だ」
「もう、やらない」
うんざりしたようにアベルはミクシリオを見上げた。
ミクシリオは逃げなかった。手は小刻みに震えている。それでも、一度吐き出した言葉を引っ込めるつもりはないらしい。
そのことを悟った瞬間、アベルは腰を上げ、無言のまま彼の目の前まで詰め寄った。
「オレは、お前にお願いしてるんじゃあないんだ。――やれ、といってるんだ」
「やらない! もう、そういうことは、やらない! やりたく、ないんだよぉ」すでに、涙が滲んでいた。「ごめん、アベル……」
次に来るであろう痛み。ミクシリオは歯を食いしばリ、せめて崩れ落ちることのないように足に力を入れた。
アベルがこれから与える痛みは、どれも自分が受けるべきものだと、ミクシリオは本気で信じていた。
しかし想像していたような、拳骨で頬を打ち砕かれる痛みはやってこなかった。
代わりに、部屋の中に台風を呼んだように、風を渦巻いていた。
アベルが持ってきた紙も、ミクシリオがストックしていたまっさらな便箋たちも、同室たちが広げたままの雑誌も、みんなまぜこぜになって、二人の間を引き裂くように渦を巻いていた。
「どういうつもりだ!!」
怒鳴り声の後、アベルの詠唱が聞こえる。
「荒ぶ風、相対せよ!!」だが、風の勢いは打ち消されるどころか、どんどんと激しくなる。
「くそっ、オレが来るとわかって、仕掛けていたな!」これほどの魔法を、詠唱なしで行使するということは、ミクシリオが事前に準備をし、魔法をかけたアイテムを用意していたに違いない、アベルはそう見立てると発生源の部屋から逃げることを第一として、風の中で多少切られることを覚悟して、渦を突っ切ると扉を開けはなち逃げ出した。
「待って! 僕じゃない!」
アベルが逃げるなり、冗談のように凪いだ風の中では全く説得力のない叫びだった。
それでも、ミクシリオにとっては全く予想していなかったことには違いない。部屋を飛び出し、追いかけようともしたが、結局魔法を使って逃げたアベルに追いつくことができず、トボトボと部屋に戻ることとなった。
何が起こったのか、混乱しつつも、部屋をあのままにしていればやがて帰ってきた同室に何と言われるかは目に見えている。
ミクシリオはひとまず、予測可能な地に足のついた現実に集中することにした。
「片付けるかぁ……」
果たして飛び出す際に、閉めていたか、不思議に思いつつも、部屋に入った。
「え……」
まるで先ほどの嵐こそが夢であったかのように、部屋はアベルが訪れる前と寸分違わず、そこにあった。
薙ぎ倒されたはずの家具、部屋中を待っていた紙。その全てが、あるべき場所へ収まっていた。
たった一つ、アベルがいたことも、室内で台風に見舞われたことも、証明するものがあった。
机に置かれた少女向けの小説。ハードカバーにはピンク色の蔦を模した美しい装飾がつけられているが、一つぽっかりと蔦の先の、本来なら葉がついていただろう場所が空いている。本の隣には、答え合わせのようにかけたピース――葉の装飾が置かれていた。
「返さないと……ああ! 壊れてる!! はぁ……」
――最悪だぁ。絶対アベルに返す時、壊れてたら面倒なことになる。
どっと疲れが襲ってくるようで、気づけばミクシリオは倒れ込むように本を持ったままベッドに仰向けに転がっていた。
――なんだったんだろう、さっきの風。そういえば、精霊契約がどうこうっていってたな。じゃあ、精霊絡みなのかな。
本の表紙を無意識になぞり、ミクシリオは考える。
「あっ、中身も確認しておこう」
ベッドでくるりと半回転しうつ伏せに横たわると、ミクシリオはページを繰る。見た目に違わず、良い紙をふんだんに使い、高価なインクで書かれている。商家次男坊と共に幼少期を過ごしたことで、物に対する目利きは鍛えられていた。だからこそ、この本の価値がわかる。それほどの価値のある本。破損した本。アベルに返す時なんと言われるか、それを考えると気が重くなる。
けれど、指先に伝わる紙の感触と、ページを満たす美しい文字を追ううちに、張り詰めていた緊張は解けていく。
そうしてミクシリオは本を抱いたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。




