10話 浮気現場?
おかしい、僕は確か机で寝落ちたはずなのに。
母は商家に住み込みで仕えていた。その元で育った僕は、物心ついた頃から何時に寝ようと決まった時間に起きる癖がある。
昨日机で寝落ちたのが最後の僕の記憶だったが、いつの間にかきちんとベッドの上で寝ている。しかもここ最近の僕を悩ませていた悪夢もなし。ついに悪夢を通り越して夢遊病かな何か、他の病へ昇華したのだろうか。
ぼんやりと、染みついた癖のせいで覚醒に向かう頭を捻ってもやっぱり最後の記憶は机の上だった。
机の上。あっ。
同じ部屋の人たちを起こさないようにしながらも、僕はベッド脇の机へ急いだ。
そこには、書きかけの手紙や書き損じた手紙。その他たくさんの大切なものが置きっぱなしになっているはずだ。
まずい。もし同室の誰かに見られたら。
机の上にはペン立てと、失敗した紙切れの山。油断していた。インクも乾いてないロデリオットからの手紙、なんて見つかれば一発で偽造がバレる。燃やしておかないといけなかったのに。
「あれ……?」
だが、机の上の光景は違った。書きかけのものが、机に放置されているはずなのに。
机におかれた紙には、どれも文字はなく、聞き手以外で書いたような、動物とも言い難い落書きが髪一面に散らばっている。そんなものが描かれては飽きたかのように、また別の紙に別の動物らしきものが描かれている。
「おかしいなぁ……」
いつも眠りに着く時間をだいぶオーバーしていたから、記憶は朧げになっているものの、間違いなく、僕はキャサリンへ、謝罪の手紙を書いたはずだ。
ここにない、ということは――同室の誰かが持っている?
冷や汗がどっと湧き出た。
僕は構わない。どれだけ不名誉に晒されようとも、そもそも失うような名誉は持ち合わせていない。
だけど、僕の手紙を保証してくれたキャサリンはどうだ。
もしそれが、兄のものでなかったら。それを、兄が書いたものだと、断言した彼女の立場はどうなる?
「やばいやばいやばい」
机の紙は全て見た。
寝ぼけたイラストだけ。文字ひとつない。
僕が、昨日描きかけた手紙は。どこ。どこ。
がたつく滑りの悪い引き出し。だが、今日だけは、その存在に心から感謝できた。
本当に、一切の記憶はないが、僕は書いた手紙をここにしまったらしい。
そっと拾い上げる。すでに便箋に収められたそれ。
だいぶ分厚い。そんなに書いたっけ。
丁寧に、蝋で封入されている。と言うことは、中身は見られていないんだろう。同室に見た後の手紙をわざわざ封し直すタイプの人間はいない。
手元の封筒をそっと撫でてみた。
多分、こうして綺麗にまとめているならキャサリン宛に書いていたものを入れたのだろう。だけど――。
どうしよう。内容を覚えていない。蝋が無駄にはなるが、開いて中を確認したほうがいいだろうか。
僕が手紙を開けようとしたその時。
僕の向かいのベットで寝返りを打つ、布擦れたわずかな音がした。
とりあえず、場所を変えた方がいいだろう。
地平線にまばらに浮かぶ雲の合間から白んだ太陽がゆっくりと顔を出している。
平民寮を出て、共用談話室を抜けた先にある庭園までやってきた。
吐いた息は白い。さすがの中央といえども、朝は冷える。
刈り込まれた生垣に囲まれた庭園。だが見渡す限り人はいない。
理由は単純に寒いからだろう。
中央育ちの人が、朝方は寒くて辛いといっているのを聞いたことがある。
この言葉を、四方領土で過ごしてきた大多数の生徒は陰で心底馬鹿にしていた。
中央育ちは文字通り温室育ちらしい。四方領土の寒さを知らないと。
だけど僕に言わせれば、君たちだって四方領土の恵まれた土地で育ったんだろうという感じだ。もちろん僕自身も含めて。
そんなことを考えていれば、ベンチのある少し開けた場所が見えてきた。手紙はそこで読もう。
一際大きな木下。僕は土埃を払ってそこに座ろうとした。
「クーロじゃねえか」可愛らしい声に反して、粗野な物言い。木の精霊ではない。
ふわりと揺れるスカートから伸びる脚は小麦色でしなやかな筋肉で引き締まっている。だが脂肪が載っていない分、寒そうだ。
「なぁ、あの噂ってマジなのか?」
ニヤニヤとお嬢様には見えない下卑た笑みと口調。僕はそんな喋り方をする人を一人しか知らない。
「イェーグ、その噂ってもしかして」
「ロデリオット・ハーデンバルツのことに決まってんだろ!」
バシバシと背中を叩く衝撃に身を任せて、気を失ってしまいたかった。
「おいお前ふざけんなよ!」
どれだけ叫ぼうが、当然届かない。
霊体ゆえに眠ることもないロデリオットは幾度となく、契約を無視して逃げてしまうかと考えた。だがそれは叶わない。一度はミクシリオの体に入れたのに、手紙を書き終えた達成感で、ベッドに横になった瞬間弾き出されたのだ。そのまま寝こける目の前の男にはいくら憑依しようとしても、できない。
ではもう構わないとその場を後にしようとしたが、寮の部屋を出るところまで行くと、今度は強制的に引き寄せされるな力がミクシリオのいる方向へ働き、離れることもできない。
夜が明けるまでの間、ロデリオットはさまざまなことを試した。最初に成功した試行は、自分が肉体を持っていた頃に使っていたペンをわずかに動かすことだった。
一度感覚を掴んで仕舞えば、天才だったロデリオットには容易い。ペンはするすると動かせた。次に目をつけたのは同じく机に放置された手紙の残骸。
ペンに馴染んだ自分の魔力を利用することから、一歩進んで、ロデリオットはペンを核に霊体である自分の魔力をつなげるパスを作った。そこまで行けばあとは容易い。少なくともロデリオットによれば。風を操作し擬似的な手を生み出す。
かくして、ミクシリオの肉体抜きにロデリオットは落書きを量産するに至ったのだ。
だが、問題はミクシリオが起きたあとだった。
「こいつどこに行くんだよ。くそっ、また引っ張られるっ」
寝ている時はとっとと起きろと呪いまでしたのに、ロデリオットはいざミクシリオが起きて行動し始めると連動するように霊体が動く。当然男は自由の効かないことに怒りを露わにした。
だがその怒りは、次の瞬間に吹き飛んだ。
唐突に木から降ってきた女。その振る舞いの時点で、ロデリオットの常識からはありえない論外女だったが、見た目は美しい。
「デッカ!」もちろん自分が霊体であり、何を発言しようが相手に届かないことを前提の言葉だ。
着地の衝撃でさらに弾む二つの塊に、論外だと評した割にロデリオットは釘付けになった。男の本能だ、と言い訳ながら。
しかしその女がミクシリオに馴れ馴れしく話しかけるなら話はまた別になってくる。
「ふざけんなよ! 俺の妹というものがありながら、お前は! よりにもよってこんな変な、南領訛りの女!」
褐色の肌と、金色の瞳。どれも北領の民であるキャサリンとは全く異なる、南領の民特有のものだった。
「しかも銀髪だと! こいつも貴族か? くそ、キャサリンの唯一のアピールポイントが……」
ロデリオットに一人相撲の間にも、二人の距離は縮まっていく。
「イェーグ?」
南領の貴族は父と母の姓を組み合わせて名乗る。そして下の名前はよほど親密な関係か、家族しか呼ばない。通常、女は母方の苗字で、男は父方の苗字で呼ばれる。
奇妙なことに、ロデリオットはイェーグと呼ばれている南領における大貴族を知っていた。北の代表的貴族がハーデンバルツならば、南は――。
「サルド・イェーグ・オルトナムケン。俺が知ってるのは、レオグラン・サルド・イェーグ・オルトナムケンだ」
叩き込まれた記憶を辿れば、確かにレオグランには妹がいた。
「じゃあ、アレがノクシア・サルド・イェーグ・オルトナムケンなのか? ……いや、変わり過ぎだろ」
四家の貴族として、ロデリオットはその兄妹に会ったことがある。同格の家に、同じ歳の、同じく兄妹がいると言われて。正確には妹の方も兄の方もロデリオットたちよりひとつ上だった。
そして、そのことで執拗に兄ぶられ、マウントを取られまくったことをロデリオットは覚えている。
「兄の性格が移ったのか? 可哀想に」
あの時のクソガキをそのまま大きくしたかのような言動。
ロデリオットは肉体があれば苦笑いを浮かべていただろう。




