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ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
打たれても、踏まれても
10/19

セラ・オースティン


 その夜、まだ具合の悪そうな拓巳くんを、僕は俊くんと祐さんと看ながら過ごした。

 どんな悪夢に襲われているのか、冷たい汗をかき、顔を歪ませて苦しそうにしている拓巳くんの姿は胸に迫った。

 汗を拭き終えた僕を、俊くんが気遣ってくれた。

「おまえはもう休め。明日は学校だからな」

 部屋の真ん中に目を向けると、ソファーから立ち上がった祐さんがこちらに来るところで、二人とも寝仕度を済ませてはいるもののまだ寝る気配ではなかった。

「ああ、大丈夫そうだな」

 長身をベッド脇で折り曲げ、拓巳くんの顔を覗き込んだ祐さんが笑みを浮かべると、僕をベッドに押し出した俊くんが声をかけた。

「もう大丈夫だろう。あとはおれが看る。祐司は休んでくれ」

「そうだな。じゃあ、任せる」

 祐さんは片手を軽く上げてから自分のベッドに横になった。そのやり取りを見て、僕はこの二人が、十代の頃からこうしてずっと、〈T-ショック〉の鍵を握るボーカルでありながら、精神にリスクを負った拓巳くんを守り、支え、当たり前のように背負ってきたのだと改めて実感した。


 次の日、沖田さんから「自宅が解禁になりました」との報告を受け、僕と拓巳くんは朝のうちに自宅マンションに戻った。

「大丈夫? 今日はなるべく早く帰ってくるからね」

 リビングのソファーに寝転んだ拓巳くんを窺うと、仰向いた彼は薄い色の瞳を宙に向け、けぶるような眼差しを投げてつぶやいた。

「夢を見た……」

「拓巳くん?」

「あいつに初めて客を取らされたときの夢」

「……!」

 あいつ――高橋要のことだ。

「俺が逃げようとすると、あいつはなんなく俺を捕まえて痺れ薬を嗅がせた……そして身動きできなくなった俺に言うんだ。『ホストが嫌なら他のもので賄ってもらおうか。どうせなら、その顔も役立ててやる』」

「拓巳くん」

 ソファーにしゃがんで顔に手を添えても、彼は気づかない様子で続けた。

「『逃げた世羅の分まで、返してもらう。おまえは私のものだ。一生どこにも――』」

 言った途端、拓巳くんの両目から涙が溢れた。

「拓巳くんっ!」

 僕は胸にしがみついた。

「大丈夫だよ。それは夢だよ。もう拓巳くんは真嶋さんや俊くんや祐さんが助けてくれたんだよ!」

「ああ、……和巳」

 彼はひとつ息を吐き出すと、切れ長の目を閉じた。長い睫毛を伝って雫がひとつこぼれ落ちる。

「おまえを雅俊に預けたら……俺、もう行っていいか……?」

「えっ?」

「若砂が約束してくれたんだ。おまえを育て上げたら迎えに来てくれるって」

「……拓巳くん?」

「な? もういいよな? 怖いんだ。今度あいつの手に落ちたら、若砂に見つけてもらえなくなる……」

 これは、本心なのか。それとも昨日からのショックで混乱しているのか――?

「僕はまだ育ってないよ。拓巳くんがいなくなったら、僕はどうしたらいいの?」

 少し子供っぽく喋りかけてみた。すると拓巳くんはハッとしたように目を開いた。

「和巳?」

 目つきがしっかりしている。ホッとしたらなんだか僕も涙が出てきた。

「和巳、どうした」

「なんでもない。なんでもないよ」

 自分でも何を言ったのかよく覚えていない様子だ。僕は手の甲で目をぬぐうと、安心させるように微笑みかけた。

「じゃ、学校に行ってくるよ。今日は早く帰ってくるからね」

「ああ。気をつけてな」

 拓巳くんはいつものように軽く手を振ると、再び両目を静かに閉じた。

 あれはきっと、奥底に秘めた本心に違いない――そんな確信があった。



 翌日の夕方、学校から直接アトリエに向かった僕は、一日伸ばしにしてもらったセラ・オースティンを待つ間に、昨日の朝の出来事を俊くんに打ち明けた。

「拓巳がそんなことを」

 さすがに俊くんも驚いたようだった。

「昼間の仕事のときは大丈夫だった?」

「今日の音楽番組の収録では、特に変わった素振りはないように見えたんだが……」

 今夜の俊くんは小倉蒼雅の姿――髪を緩く編み、ゆったりとした柔らかいシフォンのブラウスをはおり、細身のパンツを履いた姿をしている。

「若砂さんとの約束っていうのが気になるんだ。しばらく目を離さないほうがいいんじゃないかと……」

「………」

 俊くんの額に縦ジワが刻まれたとき、玄関のベルが鳴った。

「その話はあとだ。客が来たようだぞ」

 僕たちはソファーから立ち上がると、玄関に向かった。


「どうぞこちらへ」

 リビングに通されたセラ・オースティンは、黒地に白を配色したタイトなツーピース姿で、少し緊張ぎみに入ってきた。明るいブラウンの髪は後ろに束ねて黒いリボンの飾りピンで留め、サングラスはかけていない。彼女がソファーについたところで、僕はキッチンに用意してあったコーヒーを運び、それぞれの前に置いてから俊くんの隣に座った。

 改めて正面から顔を見て、僕はなぜ、すぐに二人の相似に気づけなかったのかを理解した。造作は極めて似ていても、優しげで柔らかな表情や、控えめで落ち着いた雰囲気など、拓巳くんの硬質で無表情なそれとは百八十度違うのだ。

「わざわざご足労いただいて恐縮です、ミス・オースティン。私が詳しい話をお聞きしたかったものですから」

 俊くんが頭を下げると、彼女は首を横に振った。

「セラとお呼びください。慎重になさったのはごもっともです。師としては正しい判断です」

「ではセラ。先日の会議では、私の絵をあなたに評価していただいたことが、不問の決定に大きく作用したと和巳から聞きました。ありがとうございます」

「いいえ。私は自分の感じたことを申し上げただけですわ。蒼雅先生の姿勢が、あの絵を通して伝わったのです。素晴らしい作品でした」

「あの夜空の光を見て、すぐに涙だと気がつかれたとか」

「ええ。この方は、何か苦難を乗り越えている……そう感じましたので、近くで拝見してみました」

「人は、自分と同じ経験には敏感になると申します。私はあなたが同じように苦難を受けてこられたからこそ、すぐにそれを読み取られたのだと確信しています」

 セラはハッとしたように顔を上げた。

「ここからは、高橋和巳の師匠としてではなく、その父親である高橋拓巳と二十年苦楽をともにしてきた仲間として、また、彼の息子を生涯のパートナーに選んだ者として、家族同様の立場で話させていただきます。どうぞ、私のことも雅俊とお呼びください」

 セラは拓巳くんによく似た二重切れ長の目を見張った。

「まあ。では、あの絵が伝えている七年越しの想い人というのは……」

「ええ。彼のことです」

 セラに眼差しを注がれ、僕はにわかにほてってしまった。

「これは、本来なら未成年である和巳のために、対外的には伏せておきたい事柄です。しかしあなたが私たちの想像どおりの方であるならば、当然お伝えしたいことですので」

 俊くんの言葉にセラは目を伏せ、そしてゆっくりと頷いた。

「はい。私は間違いなくこの方の祖母に当たるのだと思います。高橋拓巳は私が産んだ子どもです」

 彼女がはっきりとその言葉を告げてきたときには、さすがの俊くんもすぐには声が出ないようだった。

「……失礼だとは承知していますが、根拠をお聞かせください。拓巳とあなたは一度も面識がないはず。高橋要の証言がなければ私たちにはわかりません」

 俊くんが『高橋要』の名を出すと、セラは一瞬、震え立った。が、気を持ち直すように背筋を伸ばすと、手持ちの黒いハンドバッグから、白い和紙にくるまれた小さな箱を取り出した。

「私も、あのあと皆さまのお話を聞きまして、公式サイトで拓巳の生年月日や血液型を確認しました。これは、私がいた産院で、産んだ子のお世話をしたときに切った爪と髪の毛です」

 そう言って差し出された木の箱は、僕が持っている(へそ)の緒を入れた箱とよく似ていた。箱の(ふた)には掠れた文字で、『拓巳・九月二十日(血液型・B)』と書かれたシールが、貼られている。

「片時も離したことはありません。これを拓巳と照合していただければ、証明になるかと思います」

 最近のDNA鑑定は精度が優れている。当時の拓巳くん本人の物を持っているのなら、百パーセント間違わないだろう。

 俊くんに促され、僕はその箱に手を伸ばして蓋を開けてみた。

「あ……」

 それは、白い綿の上に乗った、本当に小さな爪のカケラが八つと、ごく柔らかい、透き通るような茶色の毛先のひとつまみ――

「私が拓巳と一緒にいられたのは僅か五日間でした。それはお世話したときに、ティッシュにくるんでポケットに入れたまま捨て忘れていたお陰で、辛うじて私の手元に残ったのです」

 僕は吹けば飛んでしまいそうなそれに慎重に蓋をし、彼女に戻した。それを見た俊くんが口を開いた。

「どうやら調べるまでもなさそうです。ではお話しいただけますか? 僅かな爪を肌身離さず持ち歩くようなあなたがなぜ、拓巳を置いて姿を消すことになったのか」

 セラは俊くんと僕の顔を見ると、ひと呼吸して息を整えた。そして箱をテーブルに置き、ハンドバッグからハンカチを取りだすと、膝に手を揃えてから語り始めた。


「私があの人と出会ったのは、ロンドンの大学教授だった父が、仕事で母の故郷であるこの横浜の大学に派遣されたときのことでした。私は音楽大学を目指す学生でした」

「お母様が日本人なのですか?」

 俊くんの確認にセラは頷いた。

「はい。私は日本では内田(うちだ)世羅(せら)と名乗っておりました」

「高校生だったということですか」

「ええ。こちらで言うなら二年生でした。色々な先生に師事していましたから、毎日夜遅くまでピアノと声楽のレッスンに通っていました。その道中に、あの人と出会ったのです」

「高橋要ですね」

 その名を俊くんの口が紡ぐと、彼女はまた少し震えた。

「そうです。……静かな、それでいて迫力を秘めた方でした。友人との話に気を取られていた私がぶつかって、バラバラに落としたバッグや教科書を拾ってくれたのですが、なぜか身のすくむ思いがしました。それでもお礼を言って、そのときはそれだけでした」

 彼女の眼差しが悲しげに曇った。

「別に、乱暴な方ではありませんでしたのに……。彼が仕事に行く時間と、私がレッスンに通う時間が同じだったようで、その後も時々見かけました。ホストクラブに勤めていると知ったのは、一ヶ月ほど経ってからのことです」

「本人から聞いたのですか」

「いいえ。友人が教えてくれました。どうやら大変有名な人だったようです」

 僕が俊くんを見ると、彼は頷いた。

「凄腕のホストだったと聞いたことがある」

 セラ目を見張った。

「ご存知なのですか」

「私は十代の半ば頃、彼の経営するホストクラブに勤めていたことがあるのです」

「まあ、あなたが……」

 絶句した様子のセラに構わず、俊くんは続けた。

「そのことはあとで拓巳の話に関わってきます。ですが、まずはあなたの話に戻しましょう」

「失礼しました……彼がどんな人であろうと、音楽に夢中だった私はあまり関心が湧きませんでした。でもあの人にはそれが新鮮だったらしく、時々声をかけられるようになりました。私は普段、友人と二人で通っていましたので、多くは友人が対応していました」

 そこでセラは言葉を切った。僕らが見守る中、彼女は手の中のハンカチを膝の上で握りしめた。

「そんなとき、友人が急に風邪で休み、私は一人で行くことになりました。母は心配し、送ろうとしましたが、通い慣れた道でしたから断りました。ですがその日、あの人をいつも見かける道で、それまであまり目にしたこともないような、派手な服装をした三人の男たちに囲まれてしまいました。そして連れ去られるところだったのを、あの人に救われたのです」

「三人を相手に、一人でですか?」

 俊くんの質問に、彼女は恐れを滲ませた顔で頷いた。

「はい――それは強い方で、あっという間に男たちは倒され、逃げていきました。私は感謝する一方で恐れを抱きました。けれどもそれからあの人は、私の塾の道中に付き添うようになりました」

 彼女は俯き加減に続けた。

「両親には、言いませんでした。私の父は……とても強権的な人だったので、若い男に襲われそうになったなどと知れたら、レッスンも受験もだめになりますから。そのときはまだ、あの人自身のことには思い至らなかったのです。けれど……」

「けれど?」

「あの人は音楽に造詣があり、友人を交えながら、私も徐々に話すことが増えました。そうして年が明ける頃、彼から交際を求められました。でも、音楽に専念したかった私は断りました。彼は諦めないと言い、その後も付き添いは続きました。そのまま時が過ぎていたら、私たちは違う形になれたかもしれません」

 悄然と肩を落とすセラに俊くんが尋ねた。

「でもそうではなかった、と」

「はい……。半年が過ぎて、噂が父の耳に届きました。父は私たちを交際しているものと誤解し、激怒して私を家に閉じ込めました。私が逆らうと母に暴力が及ぶので、どうしようもありませんでした。それは友人を介してあの人に知らされ、彼は父の人となりを知って強行手段に出たのです」

「強行手段?」

「私は高校にも通っていましたので、二週間ほどすると、夜のレッスンをやめる条件で登校が許されました。あの人はそういったことをつぶさに調べ上げ、念入りに準備して、ある日私を(さら)ったのです」

 あの男ならいかにもやりそうだ。俊くんも納得の表情で尋ねた。

「学校の帰りですか?」

「そうです。私が一人になる細い路地に車を止めて、突然薬を嗅がせて、気を失っている間に」

「今も昔も、手口は変わらないらしい……」

 俊くんは苦い顔になった。彼女はそれに目を向けながらも続けた。

「気かつくと、どこともわからない、窓もひとつしかないような家にいました。彼は目覚めた私に言いました。『自分は必ずのし上がる。いずれ音楽もやらせてあげられる。だから妻になれ』と。けれども、私は恐怖に身がすくんで答えられませんでした。ただひたすら、帰してくれと言い続けました。私が帰らないと母が父に暴力を振るわれます。それが心配で、あの人の心情まではとても気が回りませんでした。だから……」

 彼女はハンカチを握る手を胸に当てた。

「心を込めた言葉の数々に、首を横に振ることしかできず、否定するばかりで考えようとしない私にあの人は言いました。『では考えるようにしてやる』と。そうして私を……」

 震え立つセラに俊くんが口を添えた。

「あなたは奪われた。そしてそれは拓巳を身籠るまで続けられた。――そうですね?」

 セラは顔を上げて俊くんを見た。俊くんは彼女の悲しそうな眼差しを受け止めた。

「ご存知……なのですね」

「ええ。高橋要自らがそう語ったそうです」

「あの人が……」

 彼女は目元を歪ませると、深く息を吐いた。

「連絡手段もなく、監禁されるままに、私は拓巳を授かりました。母への気がかりと不安で、体調のすぐれない日々が続きました。あの人は仕事のない昼間、ずっとそばにいて、そんな私に付き添っていました。そうして月日が経ち、臨月を迎えて小さな産院に入院し、無事、出産を終えました。その五日後の夜に、父があの人の目を潜り抜けて現れたのです」

 そのときのことを思い出したのか、身震いしたセラの目が潤んできた。

「父はまず私の頬を張り、次に拓巳を手にかけようとしました。ナースが二人で止めに入りましたが、人目を避けたような小さな産院には、他に年配の助産師が一人いるだけで、四十代の大柄な外国人である父を止められるものではありませんでした。私は父と揉み合いになり、そのときにこの――」

 そこで彼女は自分の右の瞼を指差した。

「目の上を、壁に体をぶつけた拍子に、ささくれていた古い柱の突起に引っかけてしまいました。血が流れて前が見づらくなり、全身を強く壁にぶつけたために朦朧(もうろう)となってしまい、父にしがみついて許しを請うのが精一杯でした……」

 あまりの凄まじい状況に、つい僕は声を上げてしまった。

「なぜ? どうしてセラさんが叩かれなければならないんです! なぜ罪もない赤ちゃんを手にかけるんだ!」

 俊くんの手が僕の肩を押さえ、ハンカチで目の縁をぬぐったセラが僕を見た。

「父にとって、私や母は自分の物――所有物だったのでしょう……あの人に盗まれた私は、父にとって恥ずべき裏切者になったのかもしれません」

「そんなバカな……」

「あなたは、愛されて育ったのね? 私の時代には、このような父親はけして珍しくなかったんですよ」

「………」

「産後の体で無理をしたせいなのか、全身をぶつけたためなのか。私はそのまま気を失ってしまいました。気がついたときはすでにロンドンの病院で、二ヶ月が経っていました」

「二ヶ月?」

 俊くんと僕が驚くと、彼女は悲しげに頷いた。

「気を失ったあと、目の傷から細菌が入り込み、脳症を患って生死の境をさ迷っていたようです。少し良くなったところで父が強引にロンドンへ転院させたらしく、また容態が悪化して長引いたのです」

 あのとき、深そうに見えた傷は、きっと化膿したのだ。

「顔が腫れ上がり、目も開けられない日々が続きました。産後の体だったので、すっかり弱ってしまいました。右の視力は落ち、他の感染症にもかかって、普通に生活できるようになるまでに一年かかりました。でも、その一番の原因は父からの一言でした」

「何を言われたのです?」

 俊くんが促すと、セラはハンカチを膝に置き、テーブルに置かれていた箱を手に取って大事そうに撫でた。

「『あの男は、おまえが裏切ったと思ったようだ。せっかく残してやったのに、腹いせに赤ん坊を捨てたらしいぞ』と」

「………」

 ある意味、そのとおりだ。あの人は心の中で拓巳くんへの良心を捨てたのだ。

「どうやら父がお金を積んで助産師に協力させ、口を封じたらしいとは後々わかるのですが、そのときの私はそれを聞かされて気力が萎え、回復も遅れ、虚ろに過ごしました……」

 彼女はこぼすように言いながら、手の中の箱を眺めた。

「その数ヵ月後に、事情を知った母がこれを私にくれたのです。産院から連れ出されたとき、意識のない私のパジャマのポケットからこれを見つけ、箱を用意して保管しておいてくれたのだそうです」

 彼女は愛おしそうに箱をなでた。

「この箱を頼りにいつか必ず探しに行こう――そう思ことで立ち直ろうとしました。けれども約一年間、私を探した末に取り戻した父は、より独裁的になり、暴力に拍車がかかっていました。私は父の勤める大学で学び、やがて同じくそこに勤め、父の認める範囲でのみ暮らしながら、母を人質にされたような形で身動きできなくなりました。父は頑強で病気を知らず、私と母は無理の利かない体になり、三十年が過ぎました……」

 長い。そんなにも長い間、父親に支配されているなんて。

 俯いたセラに俊くんが問いかけた。

「今、あなたがここにおられるということは、何か状況が変わったのですか?」

「はい。二年前、父は交通事故を起こして寝たきりになりました。すぐに母が、私に日本へ行くように言ってくださいました。私は生活する手段や書類を調え、あのときの友人を頼って来たのです。彼女は私を手厚く迎え、大学に紹介してくれました」

 僕はふいに、先日の会議室でのやり取りを思い出した。

「まさか、その友人というのは」

「ええ。副理事の吉住京子さんです」

 セラは微笑んで頷いた。

「それから今までずっと、あの産院の場所を調べたり、あの人の消息を追ったりしていました。でも横浜から長く離れていた私では、雲をつかむような話で……」

 そこまで言うと、彼女は膝上のハンカチを取り、目元を押さえて僕を見た。

「初めてあなた……和巳を見たとき、不思議な感じがしたのだけど、まさか拓巳にこんな大きな子どもがいて、しかも京子の学園にいるなんて。そんな偶然があるなんて……」

 感極まったような姿に僕の胸も熱くなった。きっと長い年月を耐えてきた彼女に、ご褒美が与えられたに違いない。

 しかし――

「それで、あの子の……拓巳の具合はいかがなのでしょう。仕事の疲れだと言っておりましたが大丈夫ですか? 訪ねてもよいのかどうか、まずは容態をお聞かせください」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭に現実の冷や水が浴びせられた。

 そうだ。まだここには大きな問題が立ちはだかっていた!


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