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紅蓮の英雄  作者: 時つぶし
冥王国の進軍
54/86

4-4 復讐を誓ったエルフ

 仲間の報告を聞き、ニノは全速力で疾走する。

 人間達と別れた後、待機させたままのフビノとリクオの事を思い出して外に出たのが正解だった。エルフの森への入り口を見張る仲間の1人が、恐怖に彩られた表情で駆け寄って来る場面に丁度出くわしたのだ。

 詳細は聞いていない。

 勝算の有無など関係ない。

 人間への憎悪を原動力として、ニノは足を走らせる。

 そして、飛び出す様にして外の森へ。

 「――くっ!」

 思わず零れる恐怖の声を、ニノは必死に噛み殺した。

 数十m先には、眼前に並ぶ数百にまで達する程の敵。それを視界に収めた瞬間、絶望を感じた彼女であったが、表情には僅かしか漏れ出てはいない。

 しかし、それでも敵の指揮官には悟られてしまったようだ。

 「おいおいおい・・・!罠もねえ、見張りも少ねえ・・・!おまけに助けを求めて姿を現したのが、臆病な女だあ・・・!?てめえら、俺らを舐めてんのか・・・!?」

 エルフ達を威圧するように、指揮官は言葉を発する。

 そこから完全に自分達を見下しており、また余裕を持っている事も察せられた。

 「臆病なのは、そちらだろう・・・?これだけの大人数を集めなければ、たかが山登りも出来んのだからな・・・!」

 ニノも負けじと言葉を返した。

 思わぬエルフの反撃に、指揮官は苛立ちを覚える。しかし、すぐにいやらしく笑うと、ニノの体を値踏みするように眺めた。

 「けっ!憎たらしいエルフだ!――だが、まあいい。所詮、お前たちは今日で絶滅する運命にある。最後に言いたい事くらい言わせてやるよ」

 「なに・・・!?」

 「まあ、その前に色々と楽しませてもらうがな」

 指揮官の言葉に同調するように、他の者達も下卑た笑い声を上げる。それが何を意味しているのか、エルフ達にはよく分かっていた。

 「下衆が・・・!」

 「そう言うなよ。お前達にそれだけの価値があるって事なんだからよ」

 そう言うと、指揮官は腕を大きく広げた。

 「見ろよ、この大部隊!500はいるぜ!一言『エルフを襲いに行く』と言っただけで、これだけの数が集まるんだ!お前達は、それだけ俺達人間の欲を刺激するんだよ!」

 指揮官の欲望に塗れた大声に、ニノを除く他の女エルフは恐怖に震える。それが更に敵の嗜虐心を刺激したようで、目を血走らせる者まで現れていた。

 息を荒くさせる人間の男達の群れを見て、ニノは考える。

 見た所、仲間達には未だ被害はないようだ。油断しているのか、獲物を前にしての舌なめずりなのか、冥王国の連中は攻撃する素振りを見せていない。

 それを好機と取ってもいいが、いかんせん戦力差があった。普段ならば仕掛けた罠が敵の数を減らし、恐怖を掻き立てることで逃走を図らせるのだが、先客――グレンとヴァルジのせいで、彼らの通った道が抜け道となってしまっている。

 これだけの数だ。それを見つけるのも容易いだろう。

 流石に罠を仕掛け直す時間はなく、これ程までの軍勢を相手にしなければいけなくなっていた。

 (どうする・・・?)

 勝ち目がないのは明白だ。逃げたいという気持ちもある。

 それは、仲間達も同じであろう。

 しかし、逃げる訳にはいかない。姉の仇を取るため、一度として人間から恐れをなして逃げ出してはいけないのだ。

 それが、彼女が自分に課した掟であった。

 「さて、そろそろいいか?」

 悩む彼女に語り掛けるように、冥王国軍の指揮官が問う。

 「俺もこいつらも、そろそろ我慢の限界だ。始めさせてもらうとするぜ。殴って、汚して、味わい尽くして、その後殺してやるから覚悟しな。おっと、男だからって安心するなよ。こいつらの中には、男だから良いって連中もたくさんいるからな」

 最早、限界だった。

 数で圧倒的に劣るエルフ達は恐怖に震える者まで出てきている。彼らを率いるニノも、その手を僅かに震わせた。

 こんな手で弓が握れるか、と懸命に己を奮い立たせようとする。それでも震えは止まらない。

 「皆・・・覚悟を決めろ・・・!」

 逃れられぬ死がそこにあるとしても、ただ怯えるのではなく戦うべきだ。

 そういった意味を込めて、ニノは仲間に言葉を掛ける。

 「待たせたな!野郎ども!」

 それを見届けた指揮官は、部下に向かって大声を出す。応えるように、彼の後ろに控える数百の男達が吠えた。

 びりびりと空気が揺れ、草木すら恐怖で震え出しそうである。

 「存分に殺せ!存分に犯せ!我らは冥王軍!我らが王の統べる世界に、人ならざる存在は不要!エルフは残さず、皆殺しだああああ!」

 指揮官の号令を受け、男達は一斉にエルフ目掛けて駆け出す。

 いの一番にエルフの体を味わうための前進は、異種族たちの耳に轟音となって響いた。

 「ひっ!!」

 「く、来るなあ!!」

 怯えた声を出す仲間を情けないとは思わない。

 ニノも己の信念がなければ、とっくにそうしていた所だ。

 「皆、弓を構えろ!」

 なけなしの勇気を振り絞り、ニノは仲間に指示を出す。しかし、それで武器を構えたのは彼女1人だけであり、仲間が傍にいながらニノは孤独を感じた。

 それでも、自分1人だけでも攻撃を加えようと弓を引き絞る。

 迫る敵兵に狙いをつけ、即座に矢を放とうとした――その直前、彼女の肩が後ろから何者かに掴まれた。すでに背後に回られていたのか、とニノは慌てて振り返る。

 「あ・・・す、すまない・・・」

 そこにはグレンがいた。

 エルフの森への境界面から出て来た彼は、危うくニノと激突しそうになり、なんとか立ち止まったようである。その時に彼女の肩を掴んでしまい、肩掛けを身に着けていない剥き出しのエルフの肌に触れたグレンは妙な罪悪感に襲われていた。

 それとは異なり、ニノには温もりすら伴う安心感が生まれる。

 何故だろうか。

 グレンがここに来たと言う事実が勇気をもたらした現実に、ニノは戸惑いを覚える。彼の実力を、多少なりとも知っているからだろうか。

 「おっとと。グレン殿、詰まっておりますぞ」

 さらに自分の背中にぶつかりそうになるヴァルジに言われ、グレンはその大きな体を退ける。それと同時に、ニノの肩から手を離し、眼前にまで迫って来る敵に目を向けた。

 「ヴァルジ殿、とりあえず――」

 「ええ、片付けてしまいましょう」

 瞬間、2人はエルフ達の前に移動する。

 迫る敵兵は――山登りをするためだろうか――軽装であった。武器は剣がほとんどで、中には棍棒に鋭い金属を刺したような粗末な物を持つ者もいたが、弓兵はいない。

 ならば近づいて来る者だけを対処するだけでいいな、とクレンは大太刀に手を掛けた。

 しかし、その手は空を切る。

 (む・・・しまった・・・)

 そう言えば、族長の家でマキに預けたままであった。

 ヴァルジの案内で多少時間を掛けつつも、ここまで辿り着いたのは良いが、焦るあまり武器を忘れてきてしまっていたのだ。

 が、すぐに「まあ、いいか」と思い、拳で戦う事を決める。

 その直後、1人の敵兵が彼に向かって剣を振り下ろした。

 (なんだ、これは?)

 遅く、(にぶ)く、間合いの管理も出来ていない。はっきり言って自国の学生以下の攻撃に、グレンは冥王国という名の国が数だけの兵力を持っている可能性を見出す。

 そんな事を考えながらも、容易く相手の剣を左手で捕らえ、すかさず顔面に向かって右拳を放った。男の体が仲間を巻き込み、数m後ろへ吹き飛んでいく。

 奪い取った剣を使って戦おうとも考えたが、ジオンドールが打った『雪月花』と比べるとあまりにも粗悪であったため、敵に向かって投擲(とうてき)するだけにしておいた。

 装備に関しては礼儀を示すグレンであったが、時と場合と物によっては雑に用いる事もあるのだ。

 「な・・・なんだ、こいつ!?」

 「やべえ!」

 グレンに怖じ気づいた雑兵達は、進撃を一斉に停止させようとする。しかし、後ろには事情を知らぬ仲間がおり、それを許さない。

 「お、おい!押すんじゃねえ!やばいのがいるんだよ!」

 「うるせえ!邪魔だ!俺のエルフがそこにいるんだよ!」

 「てめえ、やんのか!?」

 「どけ!殺すぞ!」

 仲間という割には統率が全く取れていない。

 それに何やら険悪であった。

 少しばかり不思議に思ったが、その答えを知る必要はないと思い至り、グレンは攻撃を再開する。

 近づく者から手あたり次第に殴る、蹴る。彼に怯まず突進して来る者には、その勢いも合わせた衝撃を。恐怖に竦み、足踏みをしている者には彼らの仲間をそのまま放って寄越した。集団で襲い掛かって来る者達は、一蹴りでまとめて吹き飛ばす。

 後ろにいるエルフ達に指一本触れさせないため、一人一人に時間を掛ける事なく、彼は瞬時に敵を殲滅していった。

 そして、それはヴァルジも同様である。むしろグレンとは異なり、見た目が単なる老人である彼にはより苛烈な攻撃が仕掛けられた。

 それら全てを、ヴァルジは笑顔のまま撃退していく。ここまで激しい戦いはいつ振りだろう、と頭の片隅で昔を懐かしむ余裕すらあった。

 剣を折り、骨を砕き、顔を歪ませ、恐怖に怯えさせる。

 全ての敵を倒す必要はない。全ての敵を相手にする必要はない。

 ある程度まで数を減らせば、撤退せざるを得ないだろう。それがどの程度かは、指揮官の判断次第といった所だ。

 (と言うか、これ・・・見えてるんですかね?)

 隊列も何もなく、ただ我武者羅に突っ込んでくるだけの敵兵のせいで、相手の指揮官の姿が見えない。それ以前に、いるのかも分からなかった。という事は相手も同様であり、たった2人に自軍が撃退されている状況を理解できているのかも怪しい。

 (出来れば、早く終わって欲しいものです)

 実を言うと、ヴァルジは多人数を相手取るのが苦手である。過去の修行の日々において、一対一を念頭においた鍛錬を主に積んできたからであった。

 武国の戦士として、それは特別な事ではない。戦場に出る機会のなかった彼ならば猶更である。

 (まあ、この程度の相手ならば余裕ですが)

 思いながら、ヴァルジは敵兵の顔面を左拳で殴りつける。次いで、その拳を横から迫る敵に向けて払い、裏拳を当てて兜ごと頭の骨を粉砕した。倒れ伏した仲間を踏み付けて迫る新手には、腹部に重い右拳をお見舞いする。くの字に曲がった体が倒れ込むよりも早く顎を膝で蹴り上げると、男の体が大きく宙に浮かび上がった。

 それに大口を開けて見入る敵兵。

 論外、と思いながらも隙を逃さず攻撃を加えて行く。

 「ね、ねえ・・・ニノ・・・?」

 グレンとヴァルジの戦いを後ろから見守るエルフの1人が、ニノに声を掛けた。その声は少し震えているが、それは恐怖から漏れ出たのではなく、興奮から来るものである。

 「なに・・・?」

 「あの人達・・・人間なの・・・?」

 「エルフだと思う・・・?」

 「ううん・・・。私達を守ってくれる・・・妖精さんかな・・・?」

 そのような冗談を言える程にまで、戦況はエルフ側に傾いていた。事実、冥王国軍はたった2人の戦士によって瞬く間に約半数にまで減らされている。倒れ伏している者の中には死者だけでなく、気絶している者や負傷しているだけの者もいるが、戦闘は続行出来そうにない。

 まともな指揮官ならば、そろそろを撤退の指示を出すだろう。

 「てめえら、何してやがる!?さっさとエルフをとっ捕まえて来い!!」

 しかし、この場にそのような人物はいなかった。そして、それに異議を唱える補佐官も存在しない。

 ならば辿るのは破滅への道なのだが、それは少々都合が悪かった。

 彼らには、撤退してもらわねばならないのだ。

 「グレン殿!これ以上、手荷物を増やしては事です!しばしここを離れますが、問題ありませんね!?」

 「?――どうぞ」

 ヴァルジの言葉を理解できなかったグレンであったが、この場の死守くらいならば1人でも容易いため、すんなりと受け入れる。

 その返事を聞き、ヴァルジはこの戦闘で初めて本気を出して駆けた。

 標的は、先程指示を出した男。敵の数が少なくなった事によって、ヴァルジの目と耳はその者を捉えていたのだ。

 一瞬にして間合いを詰め、その男の眼前で右拳を止める。

 「ひぅわっ!!!」

 男は不様な叫び声を上げて尻もちを付きそうになるが、それはヴァルジの左手が許さない。ぐっと胸倉を掴むと、笑顔のまま語り掛けた。

 「そろそろ終わりにしては如何(いかが)ですかな?」

 右拳をどかすと、そこには恐怖に彩られた指揮官の情けない顔があった。

 「へ・・・え・・・・?」

 「そろそろ退いてくださると助かります、と言っているんです」

 表情は笑顔のままであったが、その声には力があり、言う事に従わなければ制裁を与えると言外に含んでいた。指揮官は黙ったまま、激しく頭を縦に振る。

 「宜しい。ならば、倒れた仲間を全て持ち帰ってください。死体も負傷者も、残さず全て」

 「は、はい・・・!」

 良い返事だ、とヴァルジは笑顔で頷いた。

 そして指揮官の胸倉を掴んでいた手を離すと、指示が届くように体を横に退ける。

 「て、てめえら!撤退だ!帰るぞ!」

 意外にも素直に、そして大きな声で男は撤退の指示を出した。こういった所が評価され、指揮官に任ぜられたのかもしれない。

 そして、その指示を待っていたかのように敵兵達はすぐに後退を始めた。実を言うと、もうほとんど戦う意志はなく、グレンを恐れて立ち尽くしていただけであったのだ。

 「ほら、お土産を持って行ってください」

 「くっ!――てめえら!やられた連中は持ち帰るぞ!死体もだ!急げ!」

 その指示に関しては嫌そうな顔をした敵兵であったが、仕方ないと小柄な者から選んで担ぎ上げて行く。それでも、こっそり何も持たずに去ろうとする者もおり、そういった輩にはグレンが死体を放って寄越した。

 綺麗さっぱりとまではいかないが、生死を問わず全ての敵兵が撤退して行くと、最後にヴァルジは司令官に向かって声を掛ける。

 「お疲れさまでした。また、いらしてくださいね」

 無論、これは本音ではない。

 しかし、来ないでくれと言うよりかは効果があり、戦意を少なからず喪失させる事が出来るだろう。彼らを生かして返すのも、撤退したという事実を本国へ持ち帰らせるためだ。

 「あんたと・・・あそこの大男、一体何者だ・・・?」

 ヴァルジの物腰柔らかな対応に、敵であるにも関わらず指揮官の男は質問をしてきた。それに答える義理はないが、嘘を教える得はある。

 「単なる雇われ用心棒ですよ。言っておきますが、エルフの森には我ら2人よりも強い仲間が何人もおります。今度いらっしゃる時は、ぜひ今回の戦力の3倍は用意して来てください」

 ヴァルジのはったりを聞き、男はごくりと喉を鳴らす。

 しかし、その顔は恐怖と言うよりも興奮が勝っているように見えた。

 「なあ、あんたら・・・エルフなんかとつるまないで、俺達に手を貸さないか・・・?」

 「はい?」

 男の唐突な提案にヴァルジも疑問の声を出す。

 「俺ら冥王国の総進撃はもうすぐ始まる。その後は全てを冥王様が手中に収めるんだ。今からでも遅くねえ。あんたらみたいな(つえ)え人達なら、武勲を立てるなんてチョロいだろ?新世界の支配層になりたくはないか?」

 つまりは勧誘であった。

 なんとまあ(したた)かな、とヴァルジは思わず感心してしまう。

 「何故そのような事を?貴方もそうなりたいから、このような悪行を働いているのでしょう?ならば、競合相手が増えるのは好ましくないのではありませんか?」

 「確かに、自分で手柄を立てるのが一番だ。けどよ、自分でも分かっているが、俺はそんな器じゃねえ。今の地位が精一杯なんだよ。でも、俺が引き入れたアンタらが武勲を立てれば、俺の評価も上がるって寸法だ。少しくらい、甘い汁が吸えるだろ?」

 本当に強かな男だ、とヴァルジは最早称賛を送りたくなっていた。

 だが、そんな話を受ける気はさらさらなく、

 「申し訳ありませんが、我々と貴方方はどこまで行っても敵同士です。今度戦場で会い(まみ)えた時は、一番に貴方を狙う事にしましょう」

 と言う。

 敢えて脅す事で、この男の戦線離脱を狙った。

 こういった行いをする人間が敵勢力にいる事は好ましくない。殺しまではしないが、出来れば今後一切干渉して欲しくなかった。

 「へへ、その脅し。ますます気に入ったぜ。一応、上には伝えておくから、考えておいてくれ」

 面倒な事になったなと思ったが、自分達がエルフに加担している情報を伝えてもらうのは狙い通りなため、止めはしない。

 興奮したように去って行く男の背中も、ただ黙って見送った。

 「なぜ逃がした!!?」

 その時、後ろの方で怒りの声が聞こえた。

 ヴァルジが驚いて振り返ると、ニノがグレンに食って掛かっている光景を目にする。

 「お前達ならば、敵を全滅させられたはずだ!何故みすみす見逃すような真似をした!?同じ人間だからか!?」

 「い、いや・・・私はただ・・ヴァルジ殿の意向を汲んだまでで・・・・」

 グレンの言い訳も、ニノは聞き入れてはくれなかった。

 そんな彼女を他のエルフ達が宥めてくれる。

 「やめなよ、ニノ!この人、助けてくれたんだよ!?」

 「そうだ。この際、敵が逃げたとか関係ないだろ?命の恩人って事でいいじゃないか」

 それが正論である事は、ニノ自身よく分かっているのだろう。そして、それを認めたくないという事も、彼女の過去を聞いたグレンには予想付いた。

 悔しそうに唇を噛み締めるニノの瞳には、涙が滲んでいる。それを隠すため、エルフの森へと急いで帰って行った。

 「どうかしましたかな、グレン殿?」

 騒ぎが収まった頃、見計らったかのようにヴァルジが戻って来る。何とも言えない状況に、グレンもどう説明して良いのか分からず、ただ黙ってエルフの森への入り口を見つめるのであった。







 族長の家に戻った後、ニノは自分の部屋に籠っていた。

 膝を抱き、壁に寄り掛かる。外から差し込んでくる日の光は未だ眩しく、それとは正反対に彼女の心は暗く沈んでいた。

 ――あれは失態だった。

 確かに人間は憎い。姉を殺し、今もなおエルフ族を苦しめている。

 決して許される存在ではないが、助けてくれた者にまで憎しみをぶつけて良いはずがない。あの時、瞬間的に燃え上がった不満の炎を制御できなかった自分を、ニノは大いに恥じた。

 後で謝ろうと思っても決意は揺らぎ、自分の中にある確かな物が憎悪だけだとニノは再確認する。

 そんな彼女の部屋の入り口から、コンコンという音が聞こえた。

 始めは何の音なのか分からなかったが、どうやら誰かが入口傍の壁を叩いているようだ。もしかしたら入室の許可を要求しているのかもしれない。

 エルフ族には『ノック』という文化がないため、理解するのに時間が掛かったが、ニノは「入って・・・」と声を掛けた。

 おそらく、あいつだろう。

 「失礼する」

 垂れ幕をくぐって姿を現したのは、やはりグレンであった。

 「・・・・・なに・・・?」

 ニノは力なく、来訪の理由を問い質す。

 姿勢はそのままであるが、今の気分では気にならなかった。

 「あ・・・いや・・・礼を言おうとな・・・。刀を返してくれて、感謝する」

 ニノの意気消沈ぶりに戸惑いながら礼を述べたグレンの手には、彼の大太刀が戻って来ていた。

 ニノが帰って来て早々、使用人のマキに返しておくよう命じていたのだ。

 「別に・・・」

 感謝されるような事ではない。いや、感謝すべきはこちらなのだ。

 ニノの頭の中には、そのような考えが浮かぶが、言葉として伝える事はできなかった。

 「少し・・・いいか・・・・?」

 そんな彼女を見かねて、グレンは声を掛ける。

 目の前の女性は自分よりも遥かに年を重ねているのであろうが、見た目から伝わる若々しさのせいで慰めてやりたくなったのだ。

 しかし、それを拒否するかのようにニノは黙ったままであった。

 それでも、短くない時間が経過した後、

 「なに・・・?」

 と聞いて来る。

 その言葉には不快感が込められており、グレンには「さっさと出て行け」と聞こえた。そのため、少しばかり早口になって言葉を紡いでしまう。

 「その・・・先程の事なんだが・・・気にしなくていい。私も気にしていないから、君も気にする必要はない」

 グレンの優しさから発せられた言葉ではあったが、それが逆にニノの後悔を刺激し、彼女の胸を針で刺されたかのように痛ませた。その感情を表情から悟られぬよう、顔を膝にうずめてしまう。

 それを見たグレンは更に慌てて、非はないのにも関わらず弁明をしようと試みた。

 「本心だ・・・!本当に、気にはしていない・・・!君が人間を憎むようになった理由は、クロフェウ殿から聞いている・・・!私も同じ立場にあったのなら、間違いなく君と同じ憎悪を燃やすだろう・・・!だから・・・なんだ・・・――気にするな!」

 結局同じ事しか言えず、グレンは自分を情けなく思った。

 しかし誠意は通じたのか、ニノは顔を上げ、彼の方に目を向ける。改めてよく見ると、彼女の瞳は美しい緑色であった。

 「爺様(じさま)から聞いたのか・・・?」

 「あ、ああ・・・。まずかったか・・・?」

 そんな事はなかった。

 こちらから助けを求めたのだから、その理由と現状を教える際に姉の事を述べるのは当然だろう。その気持ちを伝えるため、ニノは(かぶり)を振って見せる。

 「そうか・・・」

 グレンも一安心したように呟いた。

 「しかし、酷い人間がいたものだな・・・。命を救ってくれた恩人を手に掛けるとは・・・」

 それは、クロフェウからニノの姉に関する話を聞いた時に抱いた素直な感想である。決して、目の前の女エルフに同情している訳でも、自分に対する評価を上げようとしている訳でもない。

 「違う・・・!」

 その時、ニノが静かに吠えた。

 少しだけ面食らったグレンであったが、真意を聞こうと問い掛ける。

 「一体、何が違うんだ?」

 「姉様(あねさま)は、ただ殺されたのではない!」

 そこから、ニノは言葉を重ねた。

 「私は全部見ていた・・・!当時の私は愚かにも奴に親しみを感じていた・・・!だから、姉様(あねさま)と一緒に奴を見送ろうと、遅れて外の森へ・・・!そこで見たんだ・・・!姉様(あねさま)と奴が口論しているのを・・・!」

 クロフェウの話から、ニノが姉の死体の第一発見者である事は理解している。しかし、族長から聞いた話が全てではないようだ。

 それを今、ニノは彼に語ってくれようとしている。

 グレンも、ただ黙って話を聞いていた。

 「最初、奴は姉様(あねさま)を攫うつもりだったんだ・・・!『飼ってやる』と言っていた・・・!当時の私は臆病で、怖くて隠れてそれを見ていた・・・!助けを呼びに行こうにも、震えた脚は動いてくれなかった・・・!そして、ついに業を煮やした奴は姉様(あねさま)を殴りつけた・・・!」

 そして殺害に及んだのか、とグレンは推測する。

 しかし、それは間違いであった。

 「その時、奴は笑った・・・!恐ろしい笑みだった・・・!あの笑みを向けられた姉様(あねさま)の気持ちを想うだけで、心がはちきれそうになる・・・!」

 語るニノの体は震えていた。

 それだけ恐ろしかった――いや、恐ろしいのだろう。姉を殺した人間が。

 人にとって、10年という歳月は短くはない。しかし、遥か長寿のエルフにおいて、10年前の出来事が人間の尺度で語られるべきではない事くらい何となく想像がつく。

 おそらく、人間における1年前くらいの感覚なはずだ。

 さらに、そこから寿命が尽きる数百年もの間、その暗い過去と共に生きなければならない。それは最早拷問に近い、とグレンは思った。

 「そこからだ・・・!奴は、姉様(あねさま)を殴り続けた・・・!そして、姉様(あねさま)の抵抗がなくなると・・・今度はその体を・・・慰みものにした・・・・!」

 その事実に、グレンは猛烈な怒りを覚えた。

 ニノの姉については全く知らない。教えられた名前も忘れてしまった。

 しかし、人には超えてはならない一線というものがある。それを笑いながら行える男に、グレンは嫌悪感と殺意を覚えた。

 クロフェウがこの事を語らなかった理由など、考えるまでもない。裏切られ、汚され、殺された孫の話を誰が詳細に語れるだろうか。

 「その間、奴は自慢げに語っていた・・・!『森で傷つき倒れていたのは、エルフに見つけてもらうためだ』と・・・!『計画通りに事が運んで、内心笑いが止まらなかった』と・・・!『今までエルフと共に過ごしたのは、その戦力を探るためだ』と・・・!そして、最後に姉様(あねさま)の胸に短剣を突き刺すと・・・去って行ったんだ・・・!」

 それは、さぞ悔しい想いをしただろう。

 グレンは沈痛な面持ちで語るニノを見つめる。いつの間にか、彼女は泣いていた。

 「なんて下劣な奴だ、と思った・・・!しかし、真に下劣なのは私だ・・・!姉様(あねさま)が犯されている間、我が身可愛さに、ただ隠れていたんだからな・・・!」

 ニノの人間への憎悪は、自分への憎しみも加算されていた。人間を憎む事で、姉が殺された責任が自分にはないと思い込もうとしたのだ。

 しかし出来るはずもなく、毎夜あの光景を夢に見ては飛び起きる。

 ニノはこの10年、そのような生活を続けていた。

 「だから、その罪を償うため、私は姉様(あねさま)に誓った・・・!必ず、仇を取ってみせると・・・!」

 だから、強くなろうとしたのだろう。

 だから、気丈に振る舞っていたのだろう。

 先程、彼女は自分が臆病だったと言っていた。それを10年間で、グレンに食って掛かるまでに成長させたのだ。

 どのような方法かは分からない。だが、それは称賛されるべきものだとグレンは考える。

 「偉いな・・・」

 ただ、それだけ言った。

 ニノも返す言葉はないようで、再度膝に顔を埋めている。グレンに向かって心情を吐露したのが恥ずかしくなったのだろう。

 見れば、エルフ特有の尖った長い耳が赤くなっている。

 「仇の名は、分かっているのか?」

 その微妙な空気を打破するため、グレンは話題を振る。気を利かせて話の方向性を変えられない辺りが、彼の口下手さを物語っていた。

 「ああ。以前、罠に掛かった冥王国の兵から、解毒剤と交換で情報を得た」

 しかし、ニノは平然とそれに答えてくれる。声も表情も至って平常な事から、もう心を昂ぶらせてはいないようだ。

 「仇の名はグンナガン・・・!奴は、冥王国の将軍だ・・・!」

 ニノの仇の名前の一文字目が自分と被っている事に、グレンは不快感を覚えた。それを隠しながら、彼女の言葉の中で疑問に思った事を問う。

 「将軍、とは?」

 「私も詳しくは知らない。ただ、冥王国の兵は『冥王、大将軍に次ぐ地位』と言っていた」

 そう言われても理解は出来なかったが、グレンはとりあえず『王国騎士団の隊長と同格』と思う事にした。

 10年前からその地位にいたのか、エルフの里を見つけた事で昇格したのか、はたまた別の理由なのかは分からないが、かなり高い位につく人物なようだ。

 しかし、そうなると事を成すのは容易ではない。

 「ニノ。そんな人間を討てるのか?」

 思わず彼女を略称で呼んでしまったグレンであったが、ニノはこれといった拒否反応を見せなかった。やはりヴァルジの思惑通り、先程の戦闘で信頼関係が築けたのだろうか。

 「討てる討てないではない。やるかやらないかだ」

 その結果、自分は死んでもいい。

 彼女は、そう言っているように思われた。

 「しかし、その男は多くの手下に守られていると思うぞ?」

 戦場では、という意味ではない。戦時中にそのような地位の者が護衛も付けないで生活を送る訳がなく、冥王国軍の規模から、その数は多いだろうと推測した。

 そのような壁を突破して標的に辿り着けるのか、とグレンは聞いているのだ。

 「何が言いたい・・・!?」

 そして、その言葉はニノの逆鱗に触れた。

 先程まで穏やかだった表情は再び怒りに染まり、壁に手を付いてゆっくりと立ち上がっている。その感情を理解していたグレンであったが、彼女に怯むことなく、こう言った。

 「君に出来るのか?」

 瞬間、ニノは歯を食いしばる。

 ぎりっ、といった音が頭の中に響いた。続いて、彼女は叫ぶ。

 「そんなの!誰より私が分かっている!この10年!それを私が考えないとでも思ったか!?無理だと諭した!諦めろと言い聞かせた!でも、出来なかった!だから、私は奴を恨む!恨み続ける!姉様(あねさま)に誓った復讐を、成し遂げるまでは!」

 「その結果、目的を達成できずに命を落としてもか?」

 「私と奴、どちらかが死ぬまでこの恨みがなくなる事はない!私に、姉様(あねさま)を殺した人間を忘れて生きろとでも言うつもりか!?貴様に家族を殺され、汚された者の恨みが分かるのか!?」

 その問いに、グレンは首を縦に振る事が出来ない。

 しかし代わりに、

 「それを、君の姉は望んでいるのか?」

 と聞いた。

 それが――ニノを最も激しく苛立たせる。

 知った風な口を。

 皆と同じような事を。

 お前に姉の何が分かる。

 言いたい事は山ほどあったが、燃え盛った感情に口がついてこない。

 「君が自分から命を捨てに行くような行動を、姉が喜ぶと思っているのか?姉だけではない。君の両親もだ。両親が君を残して逝ったのは、自分達が全ての責任を負う事で、君には生きていて欲しいと思ったからではないのか?」

 あくまで淡々とした口調で、グレンは問う。

 両親までも引き合いに出され、ニノの我慢は限界に達する。ついには駆け出し、グレンの胸倉を両手で掴み上げた。

 「貴様ああああ!!!」

 グレンの顔を見上げ、怒りの咆哮をぶつける。彼に敵う訳がないとは分かっていたが、こうしなければな気が済まなかった。

 自分の半分も生きていないような人間に全てを悟ったかのように振る舞われて、黙っている訳にはいかなかったのだ。

 「舐めた口を利くなよ、若造が!!貴様に死んだ家族の気持ちを代弁する資格などない!!これ以上生意気な事を言ってみろ!!奴より先に、貴様を殺して――」

 口汚く罵ろうとしたニノの言葉を、グレンの大きな手が制する。始めは殴られると思った彼女は怯んでしまい、途端に静かになった。

 そんなニノに向かって、グレンは静かに告げる。

 「だから、私が代わりにそいつを殺そう」

 「・・・は・・?・・・・・な・・・?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 全く無関係な人間が、自分の復讐に手を貸してくれると言うのだ。しかも、同族である人間を殺す事に。

 「復讐というのは、自分で成し遂げてこそ意味があるとは思う。しかし、君には荷が重い相手だ。無理は良くない。それに、その男には私も少なからず不快感を覚えた。大規模戦闘には参加できないが、その者1人を殺すくらいならば私がやろう」

 聞き間違いではない。エルフは耳が良いのだ。

 嘘ではない。彼の表情がそう言っていた。

 不可能ではない。出来る、この男ならば出来る。

 「な・・・何故だ・・・?」

 期待を悟られぬよう、ニノは理由を問い質す。今日出会ったばかりのエルフに、同情でもしたというのだろうか。

 それとも、単に殺人に対する抵抗がないのか。

 「理由か?先程言った不快感がそれだ。あとは、まあ・・・君には色々と無礼を働いてしまったからな・・・。先刻の戦闘に関しても、君を怒らせてしまった。その侘びと思ってくれればいい」

 無論グレンとて、あの時のニノの怒りには理不尽を感じている。だが、彼女の気持ちを思えば理解できる事でもあると考えているため、非難するような真似をするつもりはなかった。

 また彼の言う通り――知らなかったとは言え――初対面の相手を馴れ馴れしく渾名で呼んだり、エルフ族の身体的特徴について疑問の声を漏らしてしまっている。それを「仕方ない」と捉えるのではなく、「失礼だった」と見做す所に、彼の生真面目さが現れていた。

 その性格と殺人を厭わない発言の差に、ニノは乾いた笑い声を出す。

 「はは・・・恐ろしい男だな、お前は・・・。私への侘びと称して、人を殺せるのか・・・」

 「相手が悪人である場合に限るがな」

 当然、視点が違えば善人となる場合がある事もグレンは理解している。自分にとって憎い敵であっても、敵の身内にとっては正しい存在である場合がほとんどだ。

 しかし、それを意識したせいで振るう刀を鈍らせては、国を守る事は出来ない。そのため、そのような者達を幾度も斬ってきたし、それを残忍だと思った事もない。それこそが戦争である、と理解しているからである。

 彼が悪と断定した存在は迷いなく斬る。

 故に今回も、ニノの仇が斬るに値する存在だと彼自身が判断しただけだ。

 「それで構わないか?」

 「え・・・?」

 グレンの淡々とした問いに、ニノは不意を突かれたかのように声を漏らす。

 それを、理解が出来なかったのだと判断したグレンは詳細に説明した。

 「君には討ちたい仇がいる。しかし、私は君には無理だと判断した。だから、私が代わりにその者を斬る。それは、私がそうしたいのと君への謝罪のためだ。――それで、構わないか?」

 諭すように、それでいて慰めるようにグレンは言う。

 ニノには、それが「もう大丈夫だ」と言ってくれているように聞こえた。今まで、同族のエルフですら彼女に掛けてこなかった言葉である。

 彼女の中には、不思議な温かみが生まれていた。

 「やはり・・・お前は恐ろしい・・・。恐ろしい程に、頼もしい・・・」

 今日出会ったばかりであったが、ニノはグレンの実力を認めていた。

 仕掛けた数々の罠を容易く切り抜け、自分達を守るために戦えば数の不利を物ともせずに勝利を収める。彼女は今までの人生の中で、これ程の強者と出会ったことはなかった。

 この者ならば、姉の仇を取ってくれるに違いない。

 ニノは微かであるが、グレンに信頼を寄せるようになっていた。

 「そうか?――しかし、恐ろしいと言えば、君の先程の怒号。あれは中々に恐ろしかったぞ」

 それを彼も直感したのか、ニノを揶揄うような発言をする。

 あの時は心の底から激怒したニノであったが、今となっては間違いであったと考えているため、慌てて謝罪の言葉を発した。

 「あれは――!・・・す・・・すまなかった・・・」

 「いや、気にするな。ただ、君みたいな見た目の女性に『若造』と言われるのは、やはり少々戸惑うな」

 年齢的にはニノの方が圧倒的に上だとしても、外見的には彼女の方が著しく若い。そのため、グレンにはニノが年下にしか見えなく、敬語を使うのを失念してもいた。

 それを指摘して来ないあたり、彼女も不快には感じていないようだ。

 ただ、グレンの言葉には少なからずの動揺を見せ、顔も少し赤くなっていた。

 「し、仕方がないだろう!エルフ族は代々肉付きが悪いんだ!と言うか、どこを見ている!まったく、これだから人間は!」

 しかも、グレンの言葉を全く異なる意図として受け取っていた。つまり、体が女性的に未熟だと言われたと思ったのだ。

 グレンも始めは何を言われたのか分からなかったが、次第に理解していき、

 「いや、そういう事ではない。君の方が年下に見える、という意味で言ったんだ」

 と教えてあげた。

 それを聞いたニノは自分がとんだ勘違いをした事に気付き、さらに顔を赤くさせていく。

 「馬鹿!」

 そして、恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、グレンの腹を思いっきり殴りつけてきた。

 「おっと」

 罵声と共に殴られたグレンであったが、痛みは全く感じなかった。逆に、殴ったニノの拳がじんじんと痛みを訴えている。

 「くっ・・・!まったく、どんな体をしているんだ、貴様は・・・!」

 手をぷらぷらとさせながら、そう愚痴る。

 そんな彼女の言葉を聞き、グレンはある事を思い出した。

 「そう言えば、君には自己紹介をしてもらったが、私はまだだったな」

 ニノは今までグレンの事を「貴様」や「人間」としか呼んでこなかった。それで何となく会話が成立していたため彼も気にはならなかったが、今後それでは支障をきたすだろう。

 加えて、すでにニノは――叱責の中でとは言え――彼女の名前を教えてくれている。

 「確か、ニンフィ――すまない、忘れてしまった・・・」

 「いいよ、ニノで。さっき、そう呼んだでしょ?」

 「そうだったか?だがまあ、助かる」

 親しい者しか呼んではいけない略称を認めてもらい、グレンは安堵した。彼女の名前は長く、簡単に覚えられる気がしなかったのだ。

 またそれだけでなく、ニノの口調もどことなく柔らかな物になっている気がする。

 自分を拒絶していた相手と1日も経たずにここまで親しくなれるとは思っておらず、グレン自身かなり驚いていた。母国で様々な人々と関わりを持った成果なのだろうか。

 「では、私の番だな。私の名は、グレンと言う。グレン=ウォースタインだ」

 言いながら、グレンは握手を求めるように手を出した。

 「やはり人間の名前は変わっているな。2つに分けているなんて。しかし、短くて覚えやすい。グレン、か」

 エルフにも握手という文化はあるようで、ニノは逡巡する事なくグレンの手を握った。彼の手は大きく、そこから頼もしさと力強さが伝わって来る。

 「分けているんじゃない。受け継いでいるんだ」

 ニノの言葉への返答として何となく思い浮かんだ台詞ではあったが、それは彼女の琴線に触れたようで、グレンに向かって美しいまでの笑みを見せてくれた。

 ニノが見せた初めての笑顔に、グレンは思わず見惚れてしまう。

 やはりエルフ、と思わざるを得なかった。

 「どうした?」

 「いや、なんでもない」

 不思議に思ったニノに問われ、グレンは慌てず誤魔化しておいた。

 そんな彼の後ろで、入室前に彼がしたように入口近くの壁が叩かれる。そして、ヴァルジが部屋の中に入って来た。

 「失礼しますぞ、ニノ殿。食事の用意が出来たとの――おや、グレン殿?」

 ニノの部屋にグレンが居たことが意外であるような反応を見せるヴァルジであったが、実際は始めから知っていた。ニノがあれだけ大声で怒鳴ったのだから、同じ建物にいる者に聞かれるのは至極当然である。

 そのためヴァルジは急いで駆け付けており、心配であったがために今までグレンとニノの会話を盗み聞きしていたのだ。

 だからこそ、2人が握手を交わした瞬間に姿を見せる事が出来たのである。入室の許可が下りる前に女性の部屋に足を踏み入れたのは、その現場を目にするためだ。

 「おお・・・!これは・・・なんという・・・!エクセお嬢様の悪い予感が当たってしまいましたな・・・!」

 そして、2人の仲が良くなった事を祝福するように、彼らを揶揄った。と言うよりも、グレンを揶揄った。

 「何を言っているんですか、ヴァルジ殿・・・」

 しかしグレンはあまり動じず、ニノの手を離し、呆れたように返すだけである。おそらくレナリアとの付き合いにより、そういった話題に慣れてしまったのだろう。

 「ふむ。グレン殿を揶揄っても、あまり面白くありませんな」 

 「ならば今後、変な事は言わないでください。あと、国に帰っても変な事を伝えないでください」

 「それは保証しかねます。陛下が望めば、私はそれに応じざるを得ませんからな」

 今までヴァルジの忠義に関して高い評価を下していたグレンであったが、今回に限りそれが危険な物に感じられた。とりあえず、知人の耳に入らないようにしなければ、と思うのであった。

 「何の話かは分からないが、食事の用意が出来たんだろう?」

 会話に取り残されたニノが、話題を変えるように言う。その声に少しばかりの不機嫌さが感じ取れたのは、気のせいであろうか。

 「おお、そうでした。マキさんが腕によりをかけて作ってくださったんです。ささ、参りましょう」

 そう言うと、ヴァルジは部屋を出て行った。

 それにグレンも続こうとするが、それよりも先にニノが歩き出す。

 「行くぞ、グレン」

 言われなくとも行くつもりであったグレンは、少しばかり彼女の行動に疑問を持ちながらも、頷いてから後に続いた。

 それが、彼の名を呼びたいがための行動であったとは知る由もない。






 マキが作ってくれた食事は、豆のスープであった。

 エルフの森で採れる食材は豆だけでなく、他の穀物や野菜などがある。獣もいるが、普段肉を食べないエルフの食卓に並ぶことはない。彼らが狩りの技術を向上させたのは、食料とするためではなく、農作物を荒らす害獣を退治するためだ。

 そうやってエルフ達が守り、育てた食材は非常に美味である。

 今回食した豆も味が濃く、調味料を全く使っていないにも関わらず、料理として通用した。口に入れればホロホロと崩れ、豆の風味を存分に味わうことが出来る。

 ヴァルジなどは、

 「以前は物足りなく感じたものですが、この年になると、こういった料理が嬉しくなりますな」

 と言って、作ったマキを喜ばせていた。

 エクセの料理以外あまり美味しいと思えないグレンであったが、これに関してはヴァルジと同じくらいの高評価である。ただ彼の場合は「美味しい」ではなく、「懐かしい」というものであった。

 と言うのも昔、彼の母親が似た様な料理を作ってくれていたからである。人間の食事としては質素とされる料理が、グレンの子供時代において日常であったのだ。素材は圧倒的に今回の方が優れているが、それでも亡き母の作った料理の味を思い出した。

 それで気分が良くなったのか、

 「そう言えば、この『エルフの森』はどのような仕組みで作られているんですか?」

 と、食後に自分から話題を振った。

 今まで気になっていた事であり、ふと思い出したことで聞いてみようと思ったのだ。もし秘密であるのならば、それでも良い。

 聞かれたクロフェウは答えるより先に、彼に向かってこう聞く。

 「グレン殿は『豊穣の女神スース』を知っているかな?」

 「え、ええ・・・」

 おそらく八王神とかいう集団の1人なのだろう、とグレンは頷いた。それと同時に、教国での出来事を思い出してしまい、少しだけ暗い気分になる。

 そんな彼を他所に、クロフェウは話を続けた。

 「我々の祖先が外の森で生活していた時の話だ。その時も、エルフは虐げられる立場であった。しかしある日、1人の人間の女性が彼らの元を訪れる。それが、今では『豊穣の女神』と呼ばれる人物だったのだ」

 神と崇められる存在が実際に生きていた時の話である。

 教国で出会った大神官達が聞いたら、感涙に咽び泣くであろう。

 「彼女は言った。『私は貴方方の生活を守るために来た。私を信じてくれるのならば、力を貸そう』、と。最初は祖先も訝しんだらしい。しかし、ついには彼女を信用し、力を借りる事にしたのだ。そして、『豊穣の女神スース』は森中の魔素(マナ)を掻き集め、この空間を造り出した。その結果、外の森は荒れてしまったが、長い年月がそれを癒し、今では元通りになっている」

 「えっと・・・・・・ま、まな・・・?」

 とりあえず、グレンの知らない言葉が出て来た。

 それがまたニノの反感を買う結果にならないか心配だったが、素直に疑問を口にする。するとクロフェウに代わって、そのニノが答えてくれた。

 「魔素(マナ)とは、植物に宿る力の事だ。人間やエルフにも魔力が宿っているだろう?それと同じだと思えば良い。違うのは、それを持ち主以外も使えるという点だ」

 なるほど、とグレンは頷く。

 それと同時に理解する。魔力を使い切った人間が疲弊してしまうように、魔素(マナ)を吸い取られた植物は枯れてしまうのだろう。魔力も魔素(マナ)も使えない彼には、関係のない話ではあったが。

 「なるほど。まさか、植物がそのような力を持っているとはな。今まで何気なく目にしていた草木だが、これからは違って見えそうだ」

 「確か、エルフも魔素(マナ)を使えるんでしたな?」

 ヴァルジの問いに、クロフェウが頷く。

 「ああ。自然と生きる我らだ。豊穣の女神程ではないが、適性があるらしい」

 「では、それを使って敵勢力を撃退すればいいのでは?」

 それを聞き、戦士らしい発想をグレンがした。

 異空間に別世界を作り出してしまう程の力だ。戦闘に用いれば、魔法と同等以上の戦果を上げるだろう。しかも、その力は植物が周りにある限り尽きる事はない。

 という事は、外の森は正に魔素(マナ)の宝庫である。敵にしてみれば、圧倒的に不利な戦場だ。

 ただ、それでも攻めて来ると言う事は何か理由があるはずであり、それをニノが説明してくれた。

 「それは無理だ、グレン。魔素(マナ)は『作る事』にしか使えない。罠や家は作り出せるが、それを使って攻撃する事は出来ないんだ」

 「そうなのか?一体、何故だ?」

 「豊穣の女神が非戦主義者だったらしい。だからこそ、私達の祖先を助けたんだろう。祖先が伝授された彼女の技も、それに倣っているという事だ」

 「ならば、自分達で開発すればいいのでは?」

 魔力を使って発動する魔法も、そのようにして数を増やしてきた。例え、それに多大な時間と労力を必要とするとは言っても、長命のエルフには些細な問題であるはずだ。

 怠惰であるならば別であるが、彼らがそのような性格でない事は分かり切っている。

 「そうしたいのは山々だが、私達はそこまで魔素(マナ)に関して明るくない。全てを知るのは、豊穣の女神のみだ。それに、冥王国の軍勢を相手にしていては、外の森が枯れ果ててしまう。罠を作り、撤退させるのが最善だ」

 自然を愛するエルフらしい言葉であった。

 しかし、それによってグレンの中には次々と疑問が生まれる。

 「10年前から、そうしてきたのか?」

 「そうだ」

 ニノの姉が裏切られ、エルフの森の場所に関する情報を広められたのが10年前。ならば、その間彼らは自分達で身を守ってきたことになる。

 「だとしたら、何故今になってヴァルジ殿に助けを求めたんですか?」

 その質問は、クロフェウに向かってされた。

 「冥王国の者が語ったそうだ。『準備は整った。これより冥王国の進撃が始まる』、とな。それ以来、敵勢力の数も増えて行った。罠を抜け、エルフの森への入り口付近まで辿り着く者も出始めたのだ」

 それを危機と捉え、大陸中の友人に助けを求めたのである。

 族長として、迅速な対応であっただろう。

 「正しい判断だと思いますぞ」

 ヴァルジも、最低限の協力しか出来ないが、そう賛辞した。

 ただ、グレンだけは未だ疑問の残る気持ちである。

 「しかし、何故エルフを襲うのか・・・?」

 理由はいくつか考えられる。

 ただ殺したいのか、捕らえて弄びたいのか、それとも他種族を嫌悪しているのか。

 いずれにせよ唾棄すべき理由であったが、あの程度の連中が動くには打って付けの動機である。

 「先程襲ってきた集団の指揮官の言では、『冥王の統べる世界に、人ならざる存在は不要』という事らしい。それが本当に冥王の思惑なのか、世界とはどのような物を指すのかは分からないが、それが理由のようだ」

 くだらない。

 ニノの報告を聞いたグレンは、まず最初に心の中でそう呟いた。

 まるで冥王が『世界』とやらの支配者であるかのような言いぶりである。『冥王』という大仰な名前も含め、グレンには敵国の王が誇大妄想家であるように思われた。

 「愚かの極みですな」

 ヴァルジも同様の感想を持ち、そのように冥王国を蔑んだ。おそらくは兵達の戦意高揚を狙った宣伝文句であり、心に留める必要もない。

 「しかし、有する戦力は本物だ」

 友の言葉に対するように、クロフェウが言う。これは別に冥王国を褒めている訳ではなく、事実を間違うことなく受け入れているだけである。

 「だからこそ、我らは人間と同盟を組まなければならない」

 「なっ!?どういう事ですか、爺様(じさま)!?」

 グレンとヴァルジには知らせていたが、ニノには何も言っていなかったらしい。動揺を見せる孫に対して、クロフェウは落ち着いた口調で言い聞かせる。

 「ニノ。我々だけでは冥王国には勝てん。それは、直接奴らと相対しているお前ならば分かるはずだ」

 「それは・・・そうですが・・・」

 認めたくはないが、事実である。

 何度撃退しても何人死亡しても、一向に攻撃を止めないところを見ると、噂に聞く膨大な戦力は事実なようだ。その気になれば、エルフの森を攻め落とすなど他愛のない事だろう。

 では、何故そうしないのか。

 それはおそらく、いつでも滅ぼせるからである。今までの侵攻も、所詮は雑兵を用いた戯れに近い。それにすら劣る自分達を歯がゆく思うが、数の差とはそれ程までに戦況を左右する。

 策によって、その差を埋める事も出来るが、生憎とエルフの中に戦術に精通した者はいない。

 「なればこそ、人間の国と不干渉を貫いて来た我らとて動かねばならん。そのため、私は人間の友にも協力を要請した。そして、ヴァルジがグレン殿と共にここを訪れてくれた。ニノ、動く時は今なのだ」

 「爺様(じさま)の仰りたい事は分かります・・・」

 祖父の説得に、ニノは一応の理解を示した。

 それでも眉間に皺が寄っており、不服である事は一目瞭然である。

 「ならば聞け。ニノ、お前には人間の国と同盟関係を結んできてもらいたい」

 「私が、ですか・・・!?」

 「そうだ。エルフ族の代表に相応しいのは、族長の孫であるお前しかいない。私が行ってもいいが、年老いた我が身では迅速に動くことは出来ないだろう。他の者では精神面にやや不安がある。任せられるのは、お前だけなのだ」

 それだけでなく、ニノに少しでも人間に事を理解してもらって、彼らに対する認識を改めてもらいたいと考えてもいる。

 来訪者2人への態度を見るに、それは難しくないはずだ。

 「しかし、爺様(じさま)。人里を訪れたエルフが、どのような扱いを受けるかは御存知のはず。だからこそ、我らエルフはこの森から出る事を禁じているのではないですか」

 排他的な生活を送っているエルフ達であるが、長い歴史上それに不満を持つ者も現れていた。そういったエルフは皆の制止を振り切り、エルフの森を出て、外の森を下り、人間の街で暮らそうとする。

 しかし、人間と比べて外見的に異なるエルフは非常に目立つ。

 そのため、すぐに噂になり、街に暮らす人々の好奇の目に晒されるのだ。勿論、それには好意的な意味合いも含まれるであろう。しかし、中には邪な考えを持つ者もいた。

 そういった者のせいで行方不明になるエルフが多く、エルフ族は自分達の森を出る事や人を森に入れる事を禁忌としたのだ。

 「安心しろ。そのため、ヴァルジとグレン殿にお前の護衛を頼んだ」

 そう言われ、ニノは2人の方へ顔を向ける。

 ヴァルジは微笑み、グレンは静かに頷いていた。

 「彼らには護衛だけでなく、エルフと人間の懸け橋になってもらう。お前の力になってくれるはずだ」

 その点において疑問はない。

 2人の実力は確認済みであるし、エルフだけで動くよりも円滑に物事を進められるだろう。

 「しかし・・・」

 人間の国と同盟を組む事が最善であるのは否定しない。

 だが、人間に対して負の感情を持つニノは、それを快く思えなかった。また裏切られるに違いない、と当然のように思い至った。

 そこで、グレンの顔を見る。

 彼が基本的に無表情である事には気づいていたため、そこから何かを読み取れる訳ではなかった。それでも、ニノは安心感を得るためにグレンの目を見る。

 彼女の意志を否定せず、唯一協力すると言ってくれた男から勇気を貰おうと考えていた。それを察したかのように、グレンも目を逸らす事はしない。

 ニノにはそれが「安心しろ」と言っているように思われた。

 「・・・分かりました。その役目、見事果たして見せましょう」

 ニノがそう宣言をすると、クロフェウは優しく笑う。孫の勇気を称賛するための笑顔だ。

 「では頼んだぞ、ニノ。そしてヴァルジ、グレン殿」

 3人は、それぞれの言葉で応答の声を返した。

 それを聞くと、クロフェウは立ち上がる。

 「では、今夜の寝床に案内しよう。2人とも、付いて来てくれ」

 早速動く事はしないようで、今日はゆっくりやすんでくれとクロフェウは言っていた。

 それを受け、グレンとヴァルジも立ち上がる。

 「そう言えば、夜の見張りは必要ですか?」

 夜間の襲撃を危惧したグレンが、クロフェウに聞いた。

 しかし、それについては心配無用と(かぶり)を振る。

 「いや、不要だ。夜の森は罠が見えにくく。獣や魔物(モンスター)が蔓延っている。冥王国軍も迂闊に攻め込んだりはせん」

 なるほど、とグレンは頷いた。

 それを見届けたクロフェウは歩き出し、2人もそれに従って部屋を出て行く。

 ニノはグレンの背中が見えなくなると立ち上がり、自身の部屋に戻って行った。

 




 その夜、ニノは夢を見る。

 いつもは姉が殺される光景に怯えて目を覚ましてしまうのだが、今夜は違った。

 今よりも数十年前の記憶――姉と楽しそうに遊ぶ景色が、彼女の眠りを迎え入れてくれる。

 ここ10年、不眠に悩まされていたニノは朝まで目覚める事はなく、安らかな夜を明かすのだった。

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