3-18 決着
知識の神殿――その主とも言うべき人物の心は今、とても荒れていた。
全てが彼の思い通りにいかない。
フォートレス王国とルクルティア帝国にあるとされる『神々の遺産』を手に入れるため、差し向けた信徒達は何の成果も上げられず捕らえられた。エルフの森に向かわせた者達などは、連絡すらつかない始末。
また、信心の浅い信徒のせいで、王国の使者が教国を訪れるような事態にまでなってしまっている。
その者達に協力しようとする大神官まで現れており、なんと忌々しい事か。
それでも、そのような輩が放った回し者を捕らえることはできた。しかし、捕らえた少年からは何の情報も得ることが出来ず、腹いせにと遺体を大衆に晒す事すら失敗している。
欲望を増大させてきた彼にとって、これらはとてつもなく不愉快な事であり、今すぐにでも報復に赴きたい衝動に駆られていた。
「――アスクラ」
「ん。なんでしょう?」
知識の大神官リットーは、再び彼の部屋にてアスクラと2人きりになっていた。とは言っても、先程彼が声を出すまで何の会話もなく、アスクラもいい加減帰りたくなっていた所である。
ようやく話が進む、とアスクラは居住まいを正した。
「今すぐ、あの男を殺して来い」
進むどころか、いくつか段階を飛ばした物言いにアスクラは思わず目を点にしてしまう。それでも依頼内容はしっかりと理解しておきたく、目の前の依頼人に確認を取った。
「えーと、ジェウェラでしたっけ?あの大神官を殺して来ればいいんですね?」
大神官からの大神官暗殺依頼。
これは大変な不祥事になるぞ、とアスクラは心の中でほくそ笑む。
「いや、奴ではない。あの大男だ」
しかし、リットーは別の人物を指していたようだ。彼の言う『あの大男』、それには当然の如くアスクラも察しが付いている。
つい先日そのような旨の依頼を受けたことを思い出し、アスクラは激しい後悔に見舞われた。
(あの時は、あそこまでとは思わんかったからなー・・・)
リットーから標的として指定された人物の実力の一部を垣間見たせいか、昨日までの楽観視はどこかへ行ってしまい、アスクラは弱気な発言を心の中で済ませる。
アスクラの手下が8人掛かりで立てた拘束架を片手で引き抜いた人物。それが今回の獲物であった。
(どう考えても、逆に俺らが狩られるよな・・・)
アスクラとて、戦闘に関してはいくらかの自信があり、彼の部下たちも同等という程ではないが荒事には慣れている方だ。それでもあの大男に勝つ未来像が思い浮かばなく、正直な所リットーからの依頼を破棄したくなっていた。
そのため、試しに彼を宥めようとしてみる。
「あのー・・・、リットー大神官?確かにあの男にはしてやられましたが、何も今すぐ殺す必要はないんじゃないですかね?たかがガキ1人の死体を持ってかれたくらい。目くじら立てるようなことでもないかと」
弱気を感じさせないよう、アスクラはあくまで飄々とした感じで話し掛ける。この老人には下手に弱い部分を見せない方が良いのだ。どんな言葉が返って来るか、分かったものではない。
「アスクラよ・・・」
しかし、アスクラの会心の演技も空しく、リットーは呆れ果てたように彼の名を呼んだ。続く言葉に苛立ちを覚えないよう、アスクラは内心身構える。
「儂はお前のことを高く評価しておる。しかし、所詮はその程度か。儂があれくらいで苛立っているように見えたか?だとしたら、お前の目は節穴と言う事になるな」
今まで、リットーの他人を見下すような発言を何度か聞いて来たことのあるアスクラであったが、やはり自分自身に言われると苛立つもので、今すぐにでもこの老人を殴り飛ばしたい欲求に駆られた。それでもここで実行する訳にはいかず、将来に取っておこうと我慢をする。
「・・・では、何故なんです?」
「最近・・・心が汚れるような出来事が多い・・・。今すぐにでもあの娘と事を為さなければ、どうにかなってしまいそうだ・・・。『神々の遺産』も手に入る事だしな・・・」
つまり先程の依頼は怒りから来たものではなく、単純に性欲から来たものであった。
娘の夫となる者を殺せば、その娘を我が物と出来る。それがリットーがすぐにでも叶えたい望みであるようだ。
「くっくっく・・・!」
少女の顔と体つきを思い出し、リットーは下卑た笑みを浮かべる。
見れば、老人の服の一部が盛り上がっており、彼に久方ぶりの精力が宿っているのを伺い知れた。歳のかけ離れた少女を想い、男を昂ぶらせるその姿は、卑猥を通り越して最早邪悪である。
嫌な物を見た、とアスクラは視線を外した。
「あー・・・はい。分かりました。じゃあ、俺はこれで」
その景色が視界に映る可能性を排除するため、アスクラはそう言って急いで扉へと向かった。それ以上何も伝えることがないのか、リットーから制止の声が掛けられることはない。
アスクラは扉を開け、廊下に出ると、挨拶もなしに扉を閉めた。
「どうでした、お頭?」
扉を閉めたアスクラに向かって、部屋の前で待機していたイストが問い掛ける。
「男を殺せ、娘を攫え、だと」
「男?と言うと、ジェウェラ大神官ですか?」
イストの言葉にアスクラは「だよな」と笑い、部下の肩を軽く叩く。その行動の意味を理解できないイストは、眉根に皺を作った。
「歩きながら話す。付いてきてくれ」
言われずとも付いて行くつもりであったイストは、頭を軽く下げることで了承の意を示し、アスクラの少し後ろを歩く。
「それで、リットーは――あ、大神官は何と?」
「やっぱあいつに『大神官』はいらないかもな・・・」
イストが訂正するのを見て、先程の光景を思い浮かべたアスクラは、自身の助言を撤回した方が良い気がしていた。それを聞き、イストは再び怪訝な顔つきになる。
「何かあったんですか?」
「いや、気にするな。それよりも依頼内容なんだがな。さっき偉丈夫が来ていただろ?」
「はい」
「奴を殺して、その妻を攫って来いだとさ」
「なるほど。以前のままですね」
依頼内容を聞き、即座に平然とした返答をする部下に対して、アスクラは驚きの眼差しを向ける。
「え?なに、そのあっさりとした反応?あの怪力野郎を殺さなきゃいけないんだよ?」
それがどれだけの被害を招くか。イストならば分からないはずはない、とアスクラは訝しむ。しかし、続く部下の論に、彼も思わず納得をしてしまった。
「あれ程の力、およそ人間の持ち得るものではありません。ですが、魔法道具や呪術を用いれば話は別です。おそらくですが、そのどちらか又は両方を身に着けているのでしょう。それも、恐ろしく強力な」
「ああ・・・確かに・・・」
あまりの光景に唖然としてしまい、その可能性を見落としていた自分をアスクラは恥じた。同時に、イストの洞察力に深く感心する。
「だとすれば、話は簡単です。何らかの手段で、それを外させれば良い」
「けどさ。それは魔法道具だった場合だろ?呪術の場合はどうするよ?」
「それも考慮すると、我々が取るべき手段は人質を取る事でしょう。ですが、私は魔法道具の線が濃厚だと考えています」
「へー、どうしてだ?」
「あの者は、どうやら相当真面目な人間なようです。その観点から、邪道とされる呪術は用いないかと」
「そういや、女の尻を触ったダムタがぶっ飛ばされてたっけな。あいつ、大丈夫だったのか?」
アスクラの問いに、イストは首を横に振る。
「未だ意識を取り戻してはいません。我々の中には回復魔法を使える者がいないので、急ぎ手配させています」
「そりゃ、気の毒なこって。でもま、そのおかげで奴の隙を見つけることができたってことになるのか?」
「はい」
それは、大男の真面目な性格について言っていた。これから彼らが行おうとしている人質を取るという作戦が、それだけで効果的と判断できる。そういった人物は決まって、自分以外の者の窮地によって追いつめられるのだ。
「じゃ、後は誰を人質とするかだが・・・」
「それは、その者の妻で良いでしょう」
「だよな。丁度、それの誘拐も依頼されてるし。正に、一石二鳥ってやつだ」
仕事が順調に進みそうな気がしてきたアスクラであったが、その顔に笑みはない。ただ単に、いつもの通りの事をいつも通りにすれば良い、という感じでしかなかった。
「それで、その娘の特徴は?」
「お、なに?お前が行ってくれんの?」
「ええ、今夜にでも。恐らくですが、向こうは少年の死によって混乱しているでしょうから、この機を突こうかと」
「はー。やっぱお前は頼りになるわー。考えることが悪どいねー」
「全て、お頭の教えですけどね」
その言葉に、アスクラは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、俺が凄いってことか?」
「それでいいです。とりあえず、娘の特徴を教えてください」
アスクラのご機嫌な言葉をあっさりと流し、イストは標的の詳細を催促した。こいつらしい、と先程と異なった笑みを浮かべ、アスクラは答える。
「銀髪だそうだ。戦いの神殿に寝泊まりしている可能性が高いそうだから、何人か連れて探しに行ってくれ」
「分かりました。では、ゴッツァとカジガスを連れて行きます」
「おう、よろしく」
アスクラがそう言うと、イストは頭を下げて彼の前から去って行く。今夜のための支度をするつもりなのだろう。
その後ろ姿を眺めながら、アスクラは自分の中にある違和感に意識を向ける。
(イストに任せれば、安心・・・なはずだよな・・・?)
その違和感が不安であることには、すでに気付いていた。
(なんだろな・・・。失敗とは違う、何かこう予想だにしない事態になりそうな気が・・・)
この時のアスクラの考えは正しかった。
しかし、そういった不確定な不安をいつまでも気に掛けているような性格でもなかったため、すぐに気のせいだと切り捨てる。
「ま、なんとかなるっしょ」
そう結論付け、アスクラは歩き始める。
しかし、すぐに立ち止まると、
「いや・・・一応最悪の事態が起こっても良いように、眠ったままのダムタに大将宛ての手紙でも残しておくか・・・」
と考えを変えてから、歩みを再開した。
彼の言う最悪の事態、それが自分達の死である事は言うまでもない。
日が沈み、ユーグシード教国の首都である街フェインスレインが闇に包まれてから数時間が経った頃、イストはアスクラに説明した通り、2人の手下――ゴッツァとカジガスを連れて戦いの神殿へと向かっていた。
2人の風貌はイストと異なり、見るからに野蛮そうである。
太い腕に無精髭、知性の足りなさそうな表情から、彼らが今までどのような人生を送って来たのかを容易く想像することが出来た。それぞれが腰にぶら下げた獲物を見れば、その考えが間違いではないことが分かるだろう。
事実、彼らは多くの罪を犯してきた。殺人や強姦などはお手の物で、自分以外の人間に情けを掛けたことなど一度もない。
そんな彼らであったが、アスクラやイストの命令には忠実に従った。
これは他の仲間にも言えることであったが、力で生きてきた者にとって、自分よりも強い存在と言うのは絶対的な上位者として一目置かれるのだ。
それだけでなく、彼らの――彼らが『大将』と呼ぶ存在の庇護下にいることで、あらゆる行いが許された。やりたい事をやりたいようにやりたい彼らにしてみれば、その状態は居心地が良く、故に今回もイストの指示に従っており、与えられた任務もきっちりとこなすつもりである。
しかし、それとは別に彼らなりに楽しむつもりでもあった。
今朝見た大神官付きの若い女。気は強いが、顔は悪くない。2人掛かりで抑え込んで、退屈な任務の潤いになってもらおうと考えていた。
無論、この事はイストには内緒だ。
彼は真面目で、任務以外の行動を許してはくれないだろう。だからこそ、任務遂行に専念する隙をつけるというものではあったが。
高まる気分に2人は自然と笑みを作るが、前を歩くイストに見られる心配はない。
「イストさん。現場についたら、別行動でいいんだよな?」
最終確認として、ゴッツァがイストに問う。
「ああ。散開し、目的の娘を攫う。その後、今朝見た大男に知識の神殿まで1人で来るよう脅しを掛ける」
「そして、その大男を殺っちまうって訳だ」
カジガスが補足するように続きを話す。
「そうだ。一応言っておくが、銀髪の娘に手を出すことは許されないからな。以前、標的の娘を傷物にした愚か者がいたが、リットーの怒りを買ったせいでお頭直々に斬らなければいけない事態になった」
それはリットーとの繋がりを保っておきたいアスクラにしてみれば当然の行いであり、イストとしても同様の事態になる事だけは避けたかった。
2人も、理解していると頷く。
「分かってるよ。銀髪の娘には手を出さねえ。なあ、ゴッツァ?」
「応ともよ。その娘には、手を出さねえ」
それ以外は保証しないという事を言外に含んだ発言であったが、イストは頷くだけで追究はしない。与えた指示に律儀に従いさえすれば、余分な口出しは不要。明言されれば別であったが、それが彼らのような人間を上手く扱うコツであった。
これも、アスクラに教えられたことだ。
「良い心掛けだ。――さて」
話をしている間に、3人は目的の場所へと辿り着いていた。
戦いの神殿を前にしても、彼らは臆する様子を見せない。この程度の任務ならば、今まで何度も遂行してきたからだ。
「それでは、これより任務に移る。大男への脅迫まで済ませたら、いつも通り――」
「はいはい。火を放てば良いんだろ?」
「――そうだ。では、散れ」
その合図が発せられると、ゴッツァとカジガスは2手に分かれて神殿内部へと入って行く。彼らの足音は極限まで抑えられており、見た目とは異なる繊細な技術を持っていることが伺えた。加えて、月明かりが十分な照明となるほど、2人は夜目が利く。
何人かの見張りがいるだろうが、あれならば見つかる心配はないだろう。
そう思い、夜も遅い闇の中、イストもその場から姿を消した。
「よ」
「お、来たか」
神殿の構造はほとんどが似通ったものであり、彼らは知識の神殿と同じくあるだろうと思われた中庭を集合場所として定めていた。始めにゴッツァが辿り着き、次いでカジガスが合流する。
「遅かったじゃねえか。もしかしたら、先に1人で始めちまってるのかと思ったぜ」
その言葉にカジガスは笑った。
「実は、それもありだなとは思ったんだけどよ。やっぱ、中からじゃどこにいるかは分かんねえわ」
「へへ。だから、ここを集合場所にしたんじゃねえか」
全ての客室は中庭と接している。
これは中庭の景色をどの部屋にいても楽しめるように設計されたものであったが、彼らにとっては別の意味で都合が良かった。
中庭からならば、どの部屋にも侵入が可能である。信徒であるマリンが客室で寝ている訳はなかったが、そこまで知恵が回らないのか、2人は部屋の物色を始めていた。
とは言え、神殿の客室に寝泊まりする者は基本的に少なく、夜中にも関わらず窓掛を閉めていない部屋が多い。夜も更けているため明りを付けている部屋も一か所くらいで、皆静かに寝入っているのが分かった。
「「お・・・!」」
物色を始めてから数分後、閉められた窓掛の隙間から部屋の中を眺めていた2人は揃って声を上げる。互いに別々の部屋を見ていたのだが、その言葉の意味はどちらも同じであった。
「おい、カジガス!こっちにすげえ良い女がいる!」
「こっちもだ!金髪美女が寝てやがる!これはあの女を探している場合じゃねえぞ!」
2人が覗いている部屋は隣接しており、ゴッツァとカジガスは抑えられながらも互いの興奮を報告し合える距離にいた。そのため、相手の見た女が気になり、2人は示し合わせたかのように位置を交換する。
「「お・・・!」」
そして、先程と同様の興奮した声を漏らした。
2人が見つけた美女はどちらもベッドで眠っており、微かに見えるその横顔からでも凄まじい美貌を有していることが分かる。
彼らは、雄として正しい感情を心に宿し、人として間違った行動に移る決心をした。
「で、どっちが、どっちをヤルよ?」
「あー、悩む!どっちもヤリてー!」
「じゃあ、終わったら交換するか?」
「お前の後に抱けってか?ヤダね。くっせえ臭いが移りそうだ」
「人の事言えんのか、テメエ・・・!――まあ、いい。お前が決めねえんなら、俺が決める。俺は、金髪を襲う」
ゴッツァは、今眺めている金髪美女の横顔をじっと見つめる。そこからシーツに隠れた女の体を嘗め回すように眺め、一度舌なめずりをした。
「いいぜ。じゃあ、俺はこっちの女だ。こっちの方が、胸が少しでっけえ気がするしよ」
そう言って、カジガスも同様に唇を舐める。
2人は揃って下品な笑い声を静かに上げると、部屋の窓に手を掛けた。当然、鍵は掛かっている。
「ちっ・・・!」
と、舌打ちをするが、これは別に侵入が出来ない事に苛立った訳ではない。多少なりとも手間がかかる事に腹を立てただけであった。
ゴッツァとカジガスは、懐に忍ばせておいた魔法道具を取り出す。
それは平たい円形の金属であり、初めてそれを目にした者であるならば、まず間違いなく用途を理解することはできないだろう。しかし、使い慣れている2人はその金属を手際よく窓に張り付けると、剣の柄で窓ガラスを思いっきり殴りつけた。
静寂な夜に鳴り響くかと思われた破壊音は、彼らの思惑通り、広がることはなかった。
2人が用いた魔法道具は『音喰い』と言い、付着した部分または物質が発する音を完全に吸収してしまう代物である。靴の裏に付ければ足音を消せるし、今回の様に物体に付ければ破壊音を消し去る事も出来た。
彼らのように汚い仕事を請け負う人間には、まさに打って付けの魔法道具と言えよう。
「へへっ・・・」
少しだけ割れた窓ガラスを用心深く取り除いて行き、窓の内側にあるカギに手を掛ける。それを外す際にも細心の注意を払い、一切の音を立たせない技術は彼らがこういった行為を何度も繰り返している証と言えた。
『音喰い』を回収し、窓を開ける。
今すぐにでも飛び掛かりたい気分であったが、今回は一応別の任務でここに来ているため、なるべく騒ぎを起こしたくはなかった。それを互いに理解している2人は、それぞれの部屋に入り込んだ際にも、ゆっくりと女に近づいて行く。
まずは、獲物の口を塞いでからだ。
その後は剣で脅すなり、暴力で黙らせるなりすればいい。いつもと何ら変わらないであろう展開に、彼らは完全に気持ちを浮つかせていた。
まず、ゴッツァが金色の髪の女の口を塞ごうと手を伸ばす。
これから味わう女の体に思いを馳せ、興奮を隠せない彼の眼光は獣のそれと等しい。醜いとしか形容できない表情であり、女性が見れば間違いなく悲鳴の1つでも上げるだろう。
それをさせないために伸ばされた腕であったが、それは女の口を塞ぐ直前に制止する。
「あ・・・?」
思いがけない展開に、ゴッツァは不満気な声を漏らした。彼の腕は何者かの手によって力強く捕らえられ、動かすことが出来ない。
いや、何者かではない。その手は、これから襲おうとしていた女の物であった。
「はあ・・・!?」
そのゴッツァの驚き声が発せられるよりも前に、女が目を開く。その眼差しには彼に対する恐怖はなく、今まで襲ってきた女と全く異なる色を湛えていた。
それに感心する間も与えられず、女は自分に掛けていた布地を彼に覆い被せる。そして、視界を奪われ思考を停止させたゴッツァの後ろに回り込み、捕らえたままの腕を完全に極めると、彼を顔から床に叩きつけた。
「ごはっ!」
獲物からの思わぬ反撃に気付いたのは、その痛みを味わってからである。
「て、てめえ!何しや――!!!」
騒ぐゴッツァの腕をきつく締め、女は無言で黙るよう指示をした。彼の肩、肘、手首に激痛が走り、じたばたと足掻くことすら出来ない。一瞬にして湧き出た汗が、ぽたりと床に滴り落ちる。
「答えろ。誰の差し金だ?」
女の声は至って落ち着いたものであったが、質問の後に腕を絞める力を強めたことから、容赦は一切しないつもりなようだ。
答えなければどうなるか、それは彼にも良く分かった。
「ま、待て!とりあえず、話をしようぜ!」
痛みに耐えかね、ゴッツァの口から適当な言葉が出る。この状況でそのような事を言って、誰が素直に応じるだろうか。
「ああ、いいだろう。私が聞き、貴様が答える。一方的な問答でいいのならば」
つまりは、聞いた事以外は喋るなということであった。
その証拠に、さらにきつくゴッツァの腕が絞められる。大の男である彼も、その痛みには涙が滲んできた。
「お、おいおい・・・!いいのかよ・・・!?こんな事してて・・・!!」
痛みから逃れたい一心で、ゴッツァは声を発する。ここは唯一動かせる口で、何とかするしかなかった。自分を捕らえている女が、それに耳を貸してくれるかどうかはこの際考えてもしょうがない。
「隣の部屋では今、俺の仲間が別の女を襲ってるんだぜ・・・?お前が俺に構っている間、ずっとだ・・・。助けに行かなくて・・・いいのか・・・?」
部屋が隣だからと言って、必ずしも彼女達が知り合いであるという訳ではない。しかし彼の経験上、こういった輩は正義感が強いのが常であった。赤の他人であっても、誰かに悲劇が起こっているのだとしたら救わざるを得ないはずだ。
「ふっ・・・」
しかし、女は小さく笑うだけでそれ以上の反応を見せなかった。
自分の希望という名の予測が外れたことに、ゴッツァは少なからず動揺する。
「な・・・何が、可笑しい・・・?」
彼の問いに、女は笑みを残したまま答えた。
「隣にいるのは私と同じ騎士だ。そう易々と敗北するような者ではない。その証拠に、先程から物音1つ聞こえないだろう?」
「あ・・・」
確かに、そうだ。
仮に女を黙らせることに成功したとはしても、多少の声は漏れてくるはずである。それが聞こえてこないと言う事は、つまりカジガスも何らかのヘマをした可能性が高い。
「シャルメティエ様!」
名前を呼ばれ、女――シャルメティエは声のした方へ顔を向ける。そこは窓の外であり、彼女の秘書であるチヅリツカが心配したような表情でこちらを見つめていた。その手には、『凍結の槍』が握られている。
「チヅか。そちらに刺客が1人来たな?」
「はい」
「何か聞き出せたか?」
「いえ・・・。そ、それが・・・」
気まずそうに言うチヅリツカの顔をシャルメティエは不思議そうに眺める。このやり取りの間にも、男を捕らえる手を緩めたりはしない。
「申し訳ありません・・・。久しぶりに『凍結の槍』を振るったせいか、思った以上に深く傷をつけてしまいまして・・・」
「殺してしまったか?」
「いえ、そこまではしていません。ただ、あれでは一晩経っても動けないかと・・・」
『凍結の槍』が停止させるのは相手の動きのみである。
故に呼吸は通常通りに行えるため、窒息死はしない。ただ、出血も止まる事はないため、深い傷を負わせたまま放っておけば失血死は免れなかった。
シャルメティエとは異なり体術に自信のないチヅリツカは、教都での就寝時には必ず『凍結の槍』を傍に置いており、男が部屋に侵入してきた際も間髪入れずそれを手にして攻撃を繰り出していた。その時に与えた損傷が彼女の想定を大幅に上回ったものとなってしまい、現在カジガスは会話も出来ない状態となっている。
これは、男の後ろにいる人物を知りたいチヅリツカにとって失態であった。
さらには『凍結の槍』の効果が切れたとしても死んでいては情報を聞き出すことが出来ないため、今まで男の止血に手を焼いていたということである。
「安心しろ、チヅ。代わりならば、ここにいる」
そんな彼女を慰める意味も込めて、シャルメティエは組み伏した男を見下ろしながら言った。
「流石はシャルメティエ様です。早速、情報を聞き出しましょう」
そう言うと、チヅリツカは窓から部屋の中に入り込んだ。その行動にシャルメティエは少しばかり不快感を覚えたようだ。
「チヅ。非常事態ゆえ仕方ないが、そういった騎士らしくない行動は慎むべきだ」
「え?――あ!申し訳ありません、シャルメティエ様・・・!ですが、扉には鍵が掛かっていますので・・・」
「分かっている。だが、我々はこの男のような無法者とは違う。いつ如何なる時においても、騎士として正しき行いをするよう心掛けねばならない」
この状況において、シャルメティエの言うそれは少々こだわりの過ぎるものであった。しかし彼女の真摯な眼差しからは、その言葉が決して気軽に出たものではない事が伝わり、チヅリツカは居住まいを正す。
ただ、シャルメティエの服装が寝間着であるため、言葉との落差に思わずにやけてしまいそうではあった。
「へへ・・・。随分な言い様じゃねえか・・・」
その時、諦めたように脱力していたゴッツァが口を開く。彼には見えなかったが、2人の厳しい視線が攻撃的に注がれた。
「こちらが問うまで口を開くな、下郎。貴様の腕の1本や2本、どうなっても構わないのだぞ?」
脅しも含めて、シャルメティエはそう言い放つ。
しかし、ゴッツァは怯えるどころか、逆にさらに小さく笑った。
「シャルメティエ様。このような者に構っていても仕方ありません。聞くべき事だけ聞いて、捕縛してしましょう」
チヅリツカの提案に頷くと、シャルメティエは男に向かって問い掛ける。その際に、腕に掛ける力をさらに強めておいた。
「再度聞く。お前達は誰の差し金だ?何故、我々を狙った?」
痛みに耐えながら、ゴッツァは不敵に笑う。
その態度がシャルメティエには不快で、今までで一番の力を男の腕に込めた。
「がっ・・・・!」
「答えなければ、折るぞ?」
「くっ・・・かか・・・!まったく・・・とんだ暴力女だ・・・!だが、おつむは足りねえらしい・・・!」
シャルメティエに対する暴言にチヅリツカは怒りを覚え、男の目の前に『凍結の槍』を勢いよく突き刺す。思わず出そうになった悲鳴を飲み込めたのは、ゴッツァもそれなりの場数を踏んでいるからであろう。
「わ、分かった・・・!話す・・・!」
しかし心が折れたのか、ゴッツァは質問に答える意思を見せた。それを受け、シャルメティエも少しだけ力を緩める。
「だけどよ、その前に1つだけ頼みを聞いちゃくれねえか・・・?」
「・・・・・・なんだ?」
相手は交渉できるような立場ではないため、従うつもりは毛頭ないが、シャルメティエは聞く。男の頼みとやらがどのようなものかによって、自分達の問いに真摯に答えるかどうかを判断しようとしたのだ。
その考えを知ってか知らずか、ゴッツァは精一杯下品な笑いを浮かべて、こう言った。
「1人1発ずつで構わねえ。ヤラしてくれ」
その瞬間、部屋の中に骨の折れる音が満ちる。
男に従う意思がないと判断したシャルメティエが、彼の肩、肘、手首の骨を同時にへし折ったのだ。そのあまりの痛みにゴッツァは気絶。口からは泡を吹いていた。
「シャ、シャルメティエ様・・・!」
「む・・・。しまった、つい・・・。すまない、チヅ・・・」
「あ、いえ、仕方ありません・・・。あのような事を言われれば、女ならば誰でも腹を立てます・・・」
「む?チヅは、この男の言葉の意味が分かったのか?」
「え・・・?」
シャルメティエの言葉に、チヅリツカは目を点にする。意味が分かったから骨を折ったのではないのか、と。
「あまりにも要領を得ない言葉だったので思わず制裁を加えてしまったが、一体どういった意図の発言だったのだ?こちらを侮辱しているのは、何となく分かったが」
「え~・・・と・・・」
言葉に詰まるチヅリツカ。シャルメティエの純粋さがここまでとは、予想だにしていなかった。
とりあえず適当な言葉でその場を凌ぐ。
その後、2人は捕らえた男を縛り、もう1人の男と一緒に転がした。
「これでいいですね」
「ああ、後はどちらかが口がきけるようになるのを待つだけだ」
危機が去ったからであろうか、2人はいつものように会話をする。
しかし、彼女達は知らない。この時、彼らの目的はすでに達成されていたのだ。
その少し前、ゴッツァとカジガスが外に向かったのを確認したイストは神殿内を歩いていた。
下手に神殿の周りをうろつくよりも、堂々と内部を進んだ方が怪しまれない。それをイストは経験上知っていた。2人に教えなかったのは、彼らが丁度良い陽動役になってくれると思ったからである。
しかし、時は夜。
もし常日頃から戦いの神殿に通う者と出くわしたら、怪しまれてもおかしくはなかった。そのため、ある程度の言い訳を考えながら進んで行く。
誰とも出会いたくはなかったが、誰かと出会えれば仕事が早く済むとイストは考えていた。その者に刃を突きつけ、目的の少女の居場所を聞けばいいのだ。銀髪という分かり易い特徴をしているため、記憶に留めていることもあるだろう。
また、おそらくその少女は客室にいる。
現在、イストはそこに迷うことなく歩いて向かっており、この建物が知識の神殿と似通った構造であることに感謝していた。
「――!」
そんな彼の視界にある人物の姿が映る。
その者はイストが従う者が一度は脅威と定めた人物。そう、グレンである。
鍛錬でもしていたのか、少しばかりの汗をかいており、手には刀が握られていた。アスクラにはああ言ったが、やはり一対一で出くわすと圧を感じるもので、イストは落ち着きを保つのに全神経を注ぐ。
グレンの方も彼の事を始めから認識しており、視線を寄越しながら近づいてきていた。
「すまない」
距離が程よく近くなった頃、グレンがイストに声を掛ける。
人見知りである彼がイストに声を掛けたのは、それが必要であると判断したからだ。つまり、グレンはイストの事を不審者だと捉えていた。
「はい?」
それをイストも察しており、至って平然とした様子で応じる。表情には出なかったが、その反応にグレンは意表を突かれた。
「君は、誰だ?」
そのため、このように無意味な質問をしてしまう。
「誰だ、と申されましても。こちらこそ、貴方のような方を存じません。赤の他人に向かって自己紹介もなしに不躾な質問をするのは、些か失礼ではないですか?」
「む・・・!確かにそうだな・・・。すまなかった・・・。どうやら、少し気を張っていたようだ・・・」
「何があったかは分かりませんが、今後は気を付けてください。えーと――」
「グレンだ。グレン=ウォースタインと言う」
「――グレンさん。・・・ん?グレン?」
グレンの名を聞いたイストは、何かに思い至ったかのように眉を寄せる。
しかしこれは演技であり、続く言葉も嘘であった。
「ああ、貴方がグレンさんですか。実はジェウェラ大神官から貴方を呼ぶよう言われていましてね。すぐにでも向かっていただけますか?」
「こんな時間にか?」
「はい。何でも、とても重要な話があるとかで」
イストの言葉に、グレンは思案するように彼を見る。イストの言葉が真実かどうか、見定めようとしていた。
「無理なようならば、伝えておきますが?」
しかし、続く言葉があまりにもあっさりと彼の口を突いて出たことにより、グレンも了承するように「分かった」と答える。
そしてイストとすれ違うと、彼の前からその姿を消した。この時、イストの名前や素性を問い質さなかったのは完全に失敗である。
その事に安堵しつつ、イストは一度大きく深呼吸をした。
「あっぶな・・・。いきなり、出くわすかね・・・」
緊張感から解放されたせいか、イストは普段の彼らしくない口調で独り言を呟く。その喋り方がアスクラに似ていたのは、敢えてそうしたせいであった。
『追いつめられた時こそ、軽口を叩け。そうすることで、気持ちが落ち着く』
何の根拠があるのか分からないが、アスクラはイストにそう語った。今回彼は、それを律儀にも実行してみたのだ。
「ふう・・・」
落ち着いたかどうか分からないが、とりあえず危機は去った。
知識の神殿と同じ場所に大神官の部屋があるのならば、行って帰ってくるまでにジェウェラとのやり取りを含めても最低10分程度は掛かるはずである。その隙に標的を捕らえ、ここを出る必要があった。
はやる気持ちを抑え、イストは目を閉じる。
そして、周囲の音に意識を集中させた。壁越しに聞こえてくる寝息や話し声を捉えるつもりなのだ。
夜の静けさの中から、イストは標的に最も近づけるであろう音を選び取る。
風の音、虫の音、足音、そして少女達の話し声。
微かであったが、イストの耳には確かに届いていた。
(こっちか)
その声がする方へ、足を速める。
そしてある部屋の前まで来ると、最終確認のため扉に耳を近づけた。
「だから大丈夫っすよ、お嬢!旦那っちが、守ってくれるっす!」
「ふふ。ありがとうございます、レナリアさん。少しだけ、元気が出てきました」
少女2人のはっきりとした会話が聞こえる。この中に銀髪の少女がいる可能性を考え、イストは戸を叩くことにした。
仮にいなかったとしても、同じ屋根の下にいる者同士だ、教えてもらえばいい。
そう結論付け、イストは扉を優しく叩く。瞬間、少女達の会話が止まった。
向こうから何の返事もない事から、どうやら夜の訪問者に警戒しているようである。
異国であるということに加えて、夜も遅い。さらには今日、この神殿に属する少年が死んだのだ。少女達にしてみれば、そうしない方がおかしかった。
そのため、なるべく警戒心を刺激しないように語り掛ける。
「すいません。グレンさんから、言伝を預かっているんですが」
先程大男の名前を知ることが出来て良かった、とイストは思う。もし少女達があの男の知り合いならば、その名を出すだけで自分の事を信用してくれるだろう。
もし「誰だ、それは」と言われたならば、「部屋を間違えた」と答えれば問題はない。
「い、今、開けるっす」
しかし、どうやらこの部屋で当たりらしい。
あとは、目的の少女がいるかいないかだが――。
「どんな話っすか?」
扉を開けた少女の髪は、栗色。寝間着にしてはやけに肌を露出した服装をしており、もし同行してきたゴッツァやカジガスがいたのならば、問答無用で襲い掛かっていたであろう。顔も整っている方であるため、猶更だ。
が、イストにその気はなく、標的ではないことにただただ落胆した。それが表情に出ない様、逆に軽く笑みを浮かべてから、イストは言う。
「夜分遅くに申し訳ありません。こちらに銀髪の方はいらっしゃいますか?グレンさんから、その方にお伝えするよう言われまして」
「あ、それ、お嬢の事っすね。お嬢ー」
栗色の髪をした少女が後ろを振り返り、もう1人を呼んだ。
その瞬間、イストの作った笑みが本物となった。とは言っても下品な笑いではなく、あくまで微笑といった感じである。
「はい」
その会話を聞いていたもう1人の少女が姿を現した。その髪は確かに銀色であり、リットーの望んでいた少女であることは確定的である。
(なるほど、あのジジイが好みそうな顔だ)
と思うや否や、イストは腰に忍ばせておいた短剣を抜き放つ。次いで、左手で目の前の少女の肩を掴むと、それを喉元に突きつけた。
「声を出せば、こいつを殺す。逃げても殺す。分かったら、黙ったまま一度だけ頷け」
あまりにも突然の出来事に2人の少女の動きが止まる。
イストから見えるのは銀髪の少女の表情だけであったが、そこには痛ましい程の悲壮感が溢れていた。悲鳴を上げなかっただけ、上出来であろう。
「お、お嬢・・・!逃げるっす――っつ!」
「お前もだ。黙ってろ」
口を開いた少女の首に、短剣を少しだけ押し込む。
それだけで、赤い小さな雫が少女の体内から零れ出た。これで死ぬことはないし、血もすぐに止まるが、その光景に衝撃を受けた銀髪の少女が何度も頭を縦に振り始める。その目には涙が見え、震える手で口を押えていた。
左手の薬指に填められた指輪が、イストの視界に映る。
「良し。今から神殿の外に出る。こっちに来い」
銀髪の少女を先に歩かせ、イストはもう1人の少女を抑えたまま部屋を出た。
(そういえば、まだやることがあったな・・・)
アスクラからは少女の誘拐だけでなく、少女の夫――グレンの呼び出しも命じられていたのであった。それを思い出したイストは、銀髪の少女に声を掛ける。
「おい、娘。グレンとやらの部屋はどこだ?」
銀髪の少女がある一室を指し示した。
「そこか。――娘。これを部屋の前に置け」
イストは取り出した紙を少女に向かって差し出す。それは予め用意しておいたものであり、グレンに対して知識の神殿まで来るよう書かれていた。
それを受け取った銀髪の少女は内容に目を通し、少しだけ青褪めたような表情を浮かべる。
(・・・・ん?)
しかし、イストはその中に安心感が含まれているようにも感じた。
(それほど、夫を信頼しているということか?)
それが、このような若い少女があのような大男の伴侶となった理由なのかもしれない。イストは何となく、そう思った。
ただ、それ以上余計な事に頭を使っている暇はなく、少女が手紙を置いたのを見届けると、すぐに移動を開始する。
当初の予定と異なり人質が2人いるため、神殿への放火は断念した。また、ゴッツァとカジガスの行方も分からないが、放っておいても良いと判断をする。
そして、イストは少女2人を連れて、誰と出会う事もなく神殿からの逃走に成功した。
グレンが手紙を見つけたのは、それから1分もしない内の事である。
「エクセとレナが攫われた!?」
部屋の中、シャルメティエの声が響く。
目の前にはグレンがおり、先程見つけた手紙をその手に持っていた。
「ああ」
グレンの声は聞く限り平時のものであり、落ち着いているようである。
「まさか、この者達以外にも侵入者がいたとは・・・!」
部屋の中にはグレン、シャルメティエ、チヅリツカの他に、捕らえられた男が2人いる。彼らの腕や足は縛りつけられており、もはや脅威にはなり得なかった。
その者達を見ながら、グレンは考える。
おそらく、エクセとレナリアを攫ったのはあの時出会った男だろう。戦いの神殿の中で一度も見たことのない顔であったし、何よりジェウェラが自分に用があるという話が嘘だったのだ。
あんなにも容易く騙された自分に、グレンは呆れ返っていた。
それに引き換え、シャルメティエとチヅリツカはどうだ。見事、悪漢共を捕らえているではないか。
エクセとレナリアが攫われたのは、完全に自分の落ち度である。グレンはそう考えていた。
「今すぐ助けに行きましょう!」
シャルメティエの言葉に、グレンは首を横に振る。
「ここには私1人で知識の神殿まで来いと書かれている。お前たちはここで待機していてくれ」
「何を言うのですか、グレン殿!?そのような事、守る必要などありません!」
「シャルメティエ様のおっしゃる通りです!全員で向かいましょう!」
正に正義感の強い騎士らしい――彼女達らしい台詞であった。しかし、グレンは了承しない。
「頼む」
グレンの発するその言葉は、やはり落ち着いたものであった。しかし、何故かシャルメティエとチヅリツカは恐怖に背筋を凍らせる。微かだが、彼の発する殺気を感じ取ったのだ。
そこから察するに、何が起こるかは明白。
「では、行ってくる」
まるで散歩にでも出向くかのような日常的態度で語られるそれは、制止しようとする2人の動きを逆に止める。まるで金縛りでもあったかのような感覚に襲われ、シャルメティエとチヅリツカはグレンが部屋を出て行くのを黙って見ている事しか出来なかった。
ぱたん、と静かに扉が閉められる。
それを合図に2人は体の自由を取り戻し、互いに顔を見合わせた。
「如何いたしましょう、シャルメティエ様・・・?」
「我々がどうすべきかよりも、グレン殿がどうするつもりなのかが気になる・・・。確か、手紙にはあの首飾りを持ってくるようにも書かれていたはずだ・・・」
「はい。グレン様のことです。何かお考えがあるとは思うのですが・・・」
言いながら、2人は言い知れぬ不安感に襲われる。
グレンの導き出す結末が、彼女達の思い描いていたものとはかけ離れたものになりそうな気がするのだ。
「チヅ。グレン殿には止められたが、やはり我々も後を追うぞ」
「はい。そうおっしゃると思っていました」
未だ寝間着姿の2人は急いで自分達の部屋に戻ると、装備を整え始めた。
シャルメティエとチヅリツカが行動を開始した頃、グレンは戦いの神殿の広間にいた。
ふと、ハルマンの遺体があった場所を見る。
まるで今も少年が横たわっているような幻影を目にし、グレンはある事を思いついた。
(君の仇も取ってきてやる・・・)
グレンは先程ジェウェラの部屋を訪れた際に、彼から手渡された物を取り出す。
『これをハルマンだと思って、持っていてはくださいませんか・・・』
憔悴し切ったジェウェラの言葉が思い出された。
仲間を失った辛さはグレン自身、何度も味わったことはあるが、自分よりも幼い者が死んだ経験は一度としてない。その悲しみは筆舌に尽くし難く、また容易に乗り越えられるものではないだろう。
自分はそうはならない。なりたくない。
グレンの目が先程までの落ち着いたものではなくなり、鋭く尖った眼差しへと変わって行く。
それは丁度、広間にある戦いの神の像に彫り込まれた表情に似ていた。
レナリアを人質に取られたエクセは、男に言われるまま知識の神殿へと足を踏み入れる。
そこに待っていたのは、以前出会ったリットーという大神官であった。
「おお、来たか・・・!」
喜色満面に声を上げる老人の周りには、屈強そうな男達が何人もいる。その光景に、レナリアは怯んだ様子を見せていた。
「お疲れさん、イスト。首尾はどうだい?」
その中の1人が、自分達をここまで連れて来た男に声を掛ける。この男の名前はイストというのだな、とエクセは記憶に留めておいた。
「目的の娘を連れて来ました。ついでにもう1人、娘を大人しく従わせるために人質として。娘の夫にも、『神々の遺産』と共にここまで1人で来るよう置手紙を残してあります。おそらく、すぐにでも姿を現すでしょう」
「完璧だな。流石じゃねえか」
その物言いから、イストと会話をする人物が集団の長なのだとエクセは理解する。
交渉をするのだとしたら、この者に対してするべきだ。
「待っていたぞ、銀髪の娘よ・・・!」
そんな事を考えるエクセに向かって、リットーが言葉を発する。視線を移すと、寝間着姿の自分を嘗め回す様にじっくりと眺める老人の姿を認識した。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
「くっくっく・・・!やはり良い・・・!お前ほどの美しい娘は、見たことがない・・・!」
エクセに賛美を送るリットーであったが、その口からは醜くも涎が溢れており、少女にさらなる嫌悪感を与えてた。
「娘よ、お前の名を聞かせてくれ・・・!」
どうやらこの老人は自分に興味があるようだ。だからと言って、素直に従う気にもなれず、その口は閉ざしたままだ。
待てども答えぬエクセの態度に、リットーは少々痺れを切らしたようであった。
「おい・・・」
そのため、レナリアの喉元に短剣を突きつけたままのイストに一言だけ合図を送る。彼の持つ短剣がレナリアの首元にさらに近づけられ、言う事を聞かなければどうなるかを物語っていた。
慌てたエクセは、悔しさを噛み締めながら、自分の名を教える。
「エクセリュートと・・・言います・・・」
エクセの声と名前を初めて聞いたリットーは、その顔をだらしなく歪ませた。その表情に、少女は再び嫌悪感を覚える。しかし、恐怖はない。
「良いぞ、良い・・・!やはり思った通りだ・・・!美しい声に、美しい名前・・・!ああ、エクセリュート・・・!我が最愛の少女よ・・・!」
老人からの求愛の言葉に、エクセは気分が悪くなるほどの不快感を覚える。この老人が自分達を――いや、自分を何故ここまで連れてこさせたのかを理解した。
つまり、自分を我が物としたいのだ。
「何を・・・言っているんですか・・・!」
その現実が受け入れがたく、エクセも拒絶の言葉をリットーにぶつける。しかし、その声は弱々しく、リットーの嗜虐心を刺激するだけであった。
「安心しろ・・・。お前は何も考えなくていい・・・。全て儂に任せれば良いのだ・・・。そうすれば、極楽へ連れて行ってやる・・・」
その言葉や眼差しからは、以前見受けた色欲が感じられた。男の淫らな感情をぶつけられた少女は、その身に更なる嫌悪を生じさせる。
しかし、やはり恐怖はない。
「この娘をあの部屋へ連れていけ・・・!鎖に繋ぐだけで良い・・・!後は、儂がやる・・・!」
傍に控える男達に向かって、リットーが指示を出す。しかし、男達が動く様子はなかった。
「リットー大神官。もう少し待ってもらえませんか?この娘はあの大男を仕留めるのに役立つ人質です。それまで待ってください。それに、神の教えでは夫のいる女性に手を出してはいけないんでしょ?」
その言葉に、リットーは苛立たし気に右手に持った錫杖を鳴らす。
「知った風な口を利くでない、アスクラ!貴様のような下賤の輩に、神の教えを口にする資格などないわ!」
大神官の挑発的な怒りの言葉に対しても、アスクラと呼ばれた男は飄々とした感じで肩を竦めて見せる。それとは対照的に周りの男達は皆、リットーに向かって敵意のある眼差しを送っていた。
その様子からエクセは、男達がリットーではなく、アスクラに従っているのを見て取る。この状況を何とかするには、アスクラを説得する以外ないようだ。
「あの・・・アスクラ様・・・」
相手の気分を損ねないように、エクセは丁寧な口調で語り掛ける。その対応に、アスクラは驚いた様子を見せた。
「おいおい、自分を攫った奴の親玉に向かって『様』なんて付けなくて良いぜ。こっちも、あんた達の事を人質その1、その2としか見ていないからよ」
「では・・・アスクラさん・・・。このような事は、すぐにでもお止めになった方がよろしいと思います・・・」
エクセのその提案は、弱い立場の者が発する命乞いにも似ていた。実際、彼女以外の者はその言葉をそう受け取る。
今この場で言うには少々都合の良い発言に聞こえたのか、何人かの男達は声を出して笑い始めた。
「おいおい、お嬢さん・・・。そりゃまあ、アンタにしてみればそうだろうけどよ・・・。こっちも一応仕事としてやってんだ。途中で投げ出す訳には、いかねえな」
「ですが、このままでは・・・」
エクセの懇願を聞き、アスクラの気持ちは少しだけ揺らぐ。それは、少女があまりにも愛らしい外見をしていたからであろう。
見た目が良いと得だよな、とアスクラは苦笑いを浮かべた。しかし、彼の仲間にとっては少し違うようで、興奮したようにエクセを囃し立てる。
「このままではどうなるってんだ、お嬢ちゃん!?」
「その可愛いらしいお口で教えてくれよ!」
「そのエロい体にエロい事されるんだぜー!」
「俺もおこぼれに与かりたいもんだ!」
男達の低俗で下品な揶揄にも、エクセは動じない。その目にあるのは、ただただ同情の気持ちであった。
それを目にしたアスクラだけが、少女の続く言葉に意識を向ける。彼の表情からは最早余裕も情けもなくなっていた。
「このままだと、どうなるんだ?」
部下達を黙らせる意味も込めて、アスクラは自ら発言を続けるよう促す。その言葉を受けて、先程まで騒ぎ立てていた男達も少女を黙って見つめ始めた。
エクセは極々当たり前なような口調でこう返す。
「皆さん、グレン様に殺されてしまいます・・・」
「・・・・・へえ」
少女に似合わぬその言葉を、アスクラは余裕の笑みを以って迎える。
しかしそれは表情だけで、内心は大きな緊張に縛りつけられていた。彼の仲間も同様であり、窮地であるにも関わらず、そのような言葉を発することが出来る少女に畏怖を覚えているようだ。彼らの経験上、そのような者は誰一人としていなかったのだから、当然である。
それでも、この場にはそれを意に介さない人物が1人いた。
「くだらん・・・!」
それはリットーの怒りの言葉であった。
欲の強い老人は、エクセが自分を無視してアスクラと会話を始めたのが、ひどく不愉快であったようだ。さらには、自身の夫を信頼するかのような発言。リットーには、それが耐えがたい愚行であった。
そのため、怒りをぶつけるように少女の頬を左手の甲で打つ。
ぱしん、という音が神殿内に響いた。
老人の力は強くはなく、少女の体にも大した痛みは生じなかったが、白く美しい肌が赤く染まり始める。そしてその痛み以上に、エクセは生れて初めての暴力に衝撃を受けていた。
震える手で、殴られた頬に触れる。
「て、てめえ!お嬢に何しやがる!!」
その蛮行に激怒したレナリアが怒りの声を上げた。
喉元に凶器が突きつけられていたため今まで黙っていたが、最早そのような事は関係ない。多少の負傷は覚悟の上で、レナリアはリットーに向かって走り出す。
「待ちな」
しかし、その決死の行動はあっさりとイストに止められてしまう。レナリアは後ろ手に腕を極められ、激痛に顔を歪めた。この時、手に持つ短剣を使わなかったのは、イストなりの優しさであったのかもしれない。
「いたっ・・・!放せっす・・・!」
「お前では何も出来ない。大人しくしておけ」
それはレナリアが一番よく分かっていた。
おそらく自分では、リットーを除く男達の誰一人として敵わないだろう。それでも、エクセの身の安全を守る義務が自分にはあると考えているし、シャルメティエ達にもそのような指示を受けている。諦められる訳がなかった。
「おい、ジジイ!それ以上、お嬢に何かしてみろ!旦那っちが来る前に、アタシが殺してやる!」
手は出せないが、口は出せる。
少しでも老人の意識をエクセから逸らそうとしたのだ。
「煩わしい・・・。おい、貴様・・・。あの姦しい女を連れていけ・・・」
騒ぐレナリアを一瞥すると、リットーは傍に立つ男にそう指示をする。始めは嫌そうな顔をした男であったが、レナリアの露出された肌を見て何を思ったのか、今度はいやらしい笑みを浮かべた。
それを見たエクセは、レナリアの身に良からぬ事が起こる事を察する。
「や、やめてください!レナリアさんには手を出さないで!」
エクセの悲痛な叫びは、存外にリットーを興奮させた。
「くっくっく・・・!そうか、そんなに友人が大事か・・・!ならば、儂の名を呼べ・・・!そして、懇願しろ・・・!」
その言葉は、エクセに屈辱を感じさせた。
しかし、レナリアを守るため言わない訳にはいかず、少女は震える口を開く。
「お願いします・・・、リットー大神官様・・・。どうか、レナリアさんには何もしないでください・・・」
少女の視線は下を向いており、リットーの表情を窺い知ることはできなかった。それでも、老人の顔が歓喜に歪んでいることを肌で感じ取る。それ程までに、リットーは興奮していた。
「くっくっく・・・かかっ・・・!いいぞ!こういった強制も、趣があって良い!――そこの貴様!よくぞ、エクセリュートの仲間を連れて来た!褒めてやろう!」
リットーに褒められても全く嬉しくなかったイストであったが、一応軽く頭を下げておく。
「いいぞ、いい・・・!最近は同じような営みばかりで、飽きていた所だ・・・!そこにいる娘も、あの部屋に招待するとしよう・・・!」
その言葉が何を意味するのか、エクセとレナリアには理解することが出来なかった。
しかし、老人の表情からその意味合いが窺い知れ、2人は背筋に悪寒を走らせる。
それでも、エクセに恐怖はなかった。
「ならば次の命令だ、エクセリュート・・・!お前の左手に填められたその指輪・・・!忌まわしきそれを外せ・・・!」
その行為は、実際の所なんの意味もない。
エクセとグレンは現実的に夫婦ではなく、填められた指輪もお遊びで着けられているようなものだ。少女もグレンも、それをしっかりと理解している。
「・・・・・っ・・・!」
だが、エクセにはそれが堪らなく不快であった。
指輪を外す事を強制されることで、グレンとの絆を微かでも断ち切られるような気がしたのだ。
そのため、エクセは逡巡する。
それが気に障ったのか、リットーはイストに向かって顎をしゃくって指示を出す。それを受け、イストは捕らえた少女の首筋に再度短剣を押し当てた。
先程手放したこともあり、今度は刃が少しだけ肌を切り裂くように力を込める。レナリアの首に一筋の切れ目が生まれ、血が滴り落ちた。
「や、やめてください!」
エクセの叫びに、リットーは笑みを作った。
「ならば、分かっているだろう・・・?」
問われ、逡巡しながらもエクセはゆっくりと指輪に右手を近づける。指輪に触れた時点で再び動きを止め、祈るように目を瞑った。
(大丈夫・・・、大丈夫だから・・・)
エクセに恐怖はない。
(きっと・・・きっとすぐに助けに来てくださる・・・)
2人の絆の証が、少しずつ指先へと移動していく。
(グレン・・・様・・・)
指輪がエクセの指先を離れようとした、その瞬間――かつん、と小さく足音が聞こえた。
「・・・・・・お出ましか」
アスクラの覚悟の込められた声が、静かに発せられた。それ程までに場は沈黙していた。
皆、理解していたのだ。
近づいて来る足音の主が誰なのかを。
その者がここに何をしに向かっているのかを。
そして、その者がどれ程の力を有しているのかを。
(人質がいるとは言っても・・・やっぱ、怖えな・・・)
アスクラは震える腕を抑え込む。部下達に見られていないのが、彼にとって救いであった。
その場にいる全ての者が見つめる先は未だ暗闇のみ。そこからある者は恐怖を、ある者は殺意を、そして少女たちは希望を感じていた。
そして、ついにその者が姿を現す。
鍛え抜かれた屈強な体、大男と称される程の長身、顔や腕には無数の古傷が見られ、腰には大太刀を備えていた。
その男の名こそ――。
「グレン様ぁ!」
「グレンの旦那っち!!」
2人の少女に名前を呼ばれ、グレンは視線を巡らせる。
その瞬間にも、敵の数、立ち位置、状況、それら全てを頭に叩き込んでおいた。
「無事か、2人とも?」
言いながら、グレンは心の中で自嘲する。
エクセの左頬は赤く、レナリアは首から血を流していた。おそらく殴られたのだろう、刃物で切り付けられたのだろう。
そう、無事である訳がない。
その事実を受け入れながらも、グレンの表情は全くと言っていいほど変わらなかった。
それを見て、アスクラは考える。
(こりゃ・・・予想以上に手強いな・・・)
怒りに狂った相手ならば御しやすく、また人質も効果があると判断できた。しかし、グレンの態度からは人質に僅かな価値があるようにしか見えず、出し抜くことも困難だと思われる。
それはアスクラの考え過ぎなのだが、今までそのような人物と出会ったことがない事から来る仕方のない勘違いであった。
「来たか・・・、醜き夫よ・・・」
そんな彼の懸念を知る由もなく、リットーはグレンに向かって声を掛ける。
グレンも老人に目を向けた。
「やはりお前か、リットー」
「ふっ、随分馴れ馴れしく呼んでくれる・・・!お前のような礼儀も知らぬ男が、この娘と契りを交わしたと思うと腸が煮えたぎる想いだ・・・!」
グレンに対して一方的な怒りをぶつけ、リットーはアスクラに対して指示を出す。
「アスクラ・・・!今すぐ、その男を殺せ・・・!」
彼とて、そうしたいのは山々であった。しかし、まずはグレンの弱体化――おそらく『神々の遺産』と呼ばれる魔法道具が鍵なのであろう、それを奪ってからだ。
(と言うか、それが主目的じゃねえのかよ・・・)
この時のアスクラの考えもまた、間違いであった。
実の所、リットーは『神々の遺産』についてそこまで執着していなかったのである。
では何故、今まで多くの時間を費やしてでも探し続けたのか。それだけでなく、王国に刺客まで差し向けたのは何故か。
それは、彼の欲が関係していた。
少女を捕らえ、弄びたい。その己の欲を叶えるにあたって、リットーは『神々の遺産』探索を言い訳にしていたのだ。
『神々の遺産』というユーグシード教国にとって絶大なる価値を有する魔法道具を探す作業。そのような使命に精を出しているのだから、少々の息抜きくらい許されるだろう。いや、許されなくてはならない。
歪んだ目的のために建前を作り出し、リットーは今までそれを行ってきた。
そしてついには、それすらも忘れる程に気を昂ぶらせてしまっている。
ここにいるのは狂った獣。
理性を失い、本能にのみ従う淫獣であった。
「早くしろ・・・!アスクラ・・・!」
唾を飛ばしつつ命令して来るリットーに対して、アスクラは心の中で呆れる。彼にしてみれば狙い通りなのだが、大神官ともあろう者がここまで堕ちるとは、と人間の醜さを痛感していた。
「はいはい・・・」
空返事をし、アスクラはグレンに体を向ける。グレンの方もアスクラを見つめてきており、その威圧感を体にひしひしと感じていた。
「えっと、グレンさんだっけ?申し訳ないけど、『神々の遺産』だかなんだかをこっちに渡してもらっていいかな?」
言われたグレンは何も答えず、右手に持つ宝石をアスクラに見せる。神殿の明りに照らされ、それはきらりと輝きを放った。
「これが、そうだ」
その言葉に違和感を覚えたのはエクセとレナリア、そしてリットーである。
「待て・・・!貴様の持つ『神々の遺産』は、首飾りだと聞いている・・・!この期に及んで、よもや儂を謀ろうとしておるのではあるまいな・・・!?」
「いや、そんなつもりはない。だが、魔法道具として価値があるのは、この宝石だけだ。もし必要ならば、この鎖も渡すが」
言いながら、今度は細い銀の鎖を取り出す。
グレンの左手に掴まれたそれは、小さく音を立てて揺れた。
「せめてもの抵抗のつもりか・・・!?全てを渡すつもりはないと・・・!?」
リットーは苛立たし気に錫杖を鳴らした。
しかし、すぐに笑みを作る。
「ふっ、まあいい・・・。貴様は今夜、あらゆる物を奪われる・・・。命も、仲間も、妻もだ・・・。それくらい、残しておいてやろう・・・」
そして、リットーはグレンに向かって手を差し出すと、
「さあ、それを寄越せ」
と言った。
しかし2人の間には距離があり、代わりにアスクラが仲間の1人にグレンの持つ宝石を持ってくるよう目で指示を出す。それを受け、男がグレンに向かって歩を進めた。
「いいだろう。受け取れ」
だが、それに先んじて、グレンはリットーにそう声を掛ける。
続いて、右手の宝石を彼に向かって放ってみせた。白く美しい光沢のある宝石が宙に舞い、明りを受けて眩いばかりに輝く。
白――つまりは赤ではない。グレンの持つ『英雄の咆哮』は赤色の宝石であるはずなのに。
それは、『戦刃』の構成員が個人を識別するため、己の胸に付ける宝石であった。
皆、放物線を描いて飛ぶそれに目を奪われている。
唯一人、グレンを除いて。
「――開け」
そして、唱える。それは左手の中に握られた『英雄の咆哮』の効果を発動させるための合言葉。
続いて、展開する。仲間を癒し、強化する半球状の赤色光。
宝石に目を奪われた誰もがその異常に気付き、そして誰もがグレンが立つ場所へ急いで視線を移す。
そこには、黒炎の如き全身鎧を身に纏った戦士と2人の少女がいた。
「え?あれ?」
自分達の置かれた状況の変化に気付いたのか、レナリアが不思議そうな声を漏らす。それは他の者も同様に上げたい声であったが、視界に映る戦士の姿に誰もが口を開くのを憚られていた。
考えなくても分かる。あの大男が一瞬のうちに、少女たちを救ったのだ。
(イスト・・・!)
レナリアを捕らえていたイストの身を、唯一アスクラだけが案じる。
しかし、先程までいた場所に部下はおらず、更に視線を巡らせると、壁際に彼の体が転がっているのが見えた。近くまで行かなければ正確な事は言えないが、恐らく顔面を殴られている。その衝撃によるのか、首が2回転くらいしており、すでにイストの命が失われているのが分かった。
アスクラは悲しみに目を瞑る。そして再び開くと、仲間を殺した男を視界に収めた。
その者の背中には今、人質として捕らえた少女が2人。
それはつまり、男に対抗しうる手段が完全に失われたことを意味していた。周りの部下達も、事態の急変に慌て出している。
そんな彼らを最早気にせず、少女の1人がグレンに声を掛けた。
「グレン様、ですか・・・?」
『紅蓮の戦鎧』を身に纏った英雄の背中に向けて、エクセは問う。
振り向いた彼の頭にも兜が被さっており、素顔は見えなかったが、それでも続く「そうだ」という言葉に少女は笑みを作った。
「そう言えば、エクセ君にこの姿を見せるのは初めてだったな」
「はい・・・!それが・・・!それが、お父様の言っていた・・・!グレン様だけが身に着けることのできる鎧なのですね・・・!」
歓喜の中で、エクセはグレンに対して少しばかりの違和感を覚えていた。
先程まで至って平静な表情をしていたグレン。今回の言葉もまた、落ち着いた口調で語られていたのだが、エクセはその中に深い深い怒りが込められているような気がしたのだ。
「おお!格好良いっす、旦那っち!とりあえずもう、あいつらギッタンギッタンに叩きのめして欲しいっす!お嬢とアタシの仇を取って欲しいっす!」
グレンが『英雄の咆哮』を発動したことにより、エクセとレナリアの傷は完治し、その精神も奮い立たされていた。体には力が漲り、少女達は今までにない戦闘力を帯びている。
しかし、2人の出番はない。
「無論、そのつもりだ」
そう、ここにはグレンがいる。
絶対的戦力を有した戦士が、神話級装備を身に着けている。人の身で、これに勝てる存在はいない。
「だがその前に――エクセ君、これを預かっていてはもらえないか?」
そう言ってグレンが差し出したのは、先程リットーに向かって放った宝石であった。少女達を助けるのと同時にグレンはその宝石も回収していたのだ。
エクセはそれを両手で受け取る。
「グレン様、これは?」
「ハルトの形見だ。見事一矢報いたことを、後でジェウェラ殿に教えてやらねばな」
少年の宝石はリットー達を欺き、その視線を釘付けにした。
それがなくともエクセとレナリアを助けることは出来たと思うが、その際に少女達が負傷する可能性もあった。それ故、グレンは相手の隙を作る必要があり、ハルマンの宝石は正にそれを成し遂げてくれたのだ。
「分かりました。これは確かにお預かりします」
エクセの返事を聞き、グレンは再び敵と対峙する。
グレンが少女と会話をしている間にも、男達は微動だにしなかった。それは、彼らがそれを隙と受け取らなかったからである。
がら空きの背中に攻撃を加えようものなら、間違いなく殺される。男達の誰もが、それを感じ取っていた。
特に、アスクラなどはそれを必要以上に感じていた。
(やばい・・・!やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!!)
確かにグレンは強い。
それはアスクラも十分理解していた。しかし、どのような方法で装着したのかは分からないが、鎧を身に着けてからの彼の気配は別格である。
策を講じて、勝つ――そのような考えすら、思い浮かばなかった。
(なんとかして・・・こいつらだけでも、逃がさねえと・・・!)
被害を受けずにこの場を脱する手段はすでにない。
ならば部隊の長として、その被害を最小限に収める必要がある。
アスクラは意を決して、刀をゆっくりと抜き放つグレンに向かって言葉を紡いだ。
「ま、待ってくれ、旦那さんよ!少し、俺の話を聞いちゃくれねえか!?」
大声を出したアスクラに、グレン以外の全ての者が視線を向ける。
「俺らはただ、リットーに依頼されてあんたの女を誘拐しただけだ!だから、諸悪の根源はこの老いぼれなんだよ!勿論、それに従った俺らにだって罪はある!だからよ、贅沢は言わねえ!ここは俺とリットー、2人分の命で勘弁しちゃもらえねえか!?」
自分の命を犠牲に、部下の命を守ろうとする行為にアスクラの手下達はひどく心を打たれた。悲し気に「お頭・・・」と呟く声が聞こえる。
だが、その言葉に激怒した人物もいた。
「アスクラ!貴様!この儂を侮辱するつもりか!?」
「侮辱するつもりか、だと!?こちとら、これまでテメエの我が儘に付き合ってやってたんだ!今回くらい、俺の我が儘に付き合ってもらうぜ!」
「貴様・・・!飼い犬の分際で・・・!」
「はっ!俺達がいつ、アンタに飼われたよ!?俺らの主は唯一人!その方のため、お前を利用してやろうと近づいただけなんだよ!」
「な・・・なに・・・!」
「分かったら、すっこんでろ!この老いぼれ!」
今までのリットーへの不満が爆発したのか、アスクラは声を荒げて感情をぶつけた。
しかし、それも仕方のない事であろう。今彼は、彼に従う者全ての命を背負っているのだから。
「すまなかったな、旦那さん。邪魔が入っちまってよ」
アスクラは再び、グレンに視線を向ける。
次いで、グレンの姿を捉えた彼の目は大きく見開かれることとなった。
なぜならば、グレンがすでに大太刀を大上段に構えていたからだ。
「―――っ!」
思わず息を飲むアスクラ。
しかし、未だ説得の余地がある事は確かであった。もしこちらの話を聞く気が無ければ、その刃はすでに自分たちに向かって振り下ろされているはずである。
アスクラは気を取り直し、グレンを説得するため言葉を重ねた。
そのやり取りを、エクセは黙って見守る。
(グレン様・・・)
目の前の英雄はどのような判断をするのだろう。
大太刀を振り上げて以降、全くと言っていいほど動かないグレンは今何を考えているのだろうか。もし悩んでいるのならば、相談に乗ってあげたい。
グレンによって勇気を授かったエクセには、そう考えるだけの余裕が生まれていた。
(もし、グレン様があの方の要求を断るのだとしたら・・・)
それは、グレンの刃が彼らに襲い掛かる事に他ならない。
(おそらく、これから繰り出されるのはグレン様最強の技『崩山刀』・・・!)
かつて、父親であるバルバロットから聞かされた話。
ルクルティア帝国の一軍が王国領土内の山に築いた砦を、グレンが山ごと斬り崩したという逸話のある技だ。
ただ、そのような知識があり、かつ剣の指導を受けているとは言っても、エクセがグレンの動きを完璧に予測するのは不可能であった。
それでも、エクセがそう考えたのには理由がある。
それは、グレンが己の大太刀を両手で握っているからであった。エクセは以前グレンと共に旅をして、彼の戦いぶりを実際に目撃しているが、その時は例え相手が地上最強の魔物であるサイクロプスであっても刀を片手で振るっていたのだ。
それに加えて、エクセは彼が構えた姿も目にしたことがなかった。
そこから、グレンが今から放つのは彼の最大攻撃力を誇る技に違いないと思い至ったのだ。
――しかし、本当にそうだろうか。
これからグレンが放つ技が『崩山刀』なのか、と言う事ではない。
山を崩す程度の攻撃が彼の繰り出せる最大限度の技なのか、という事だ。
それは、グレン本人にすら分からない。
何故ならば、彼は今まで全力というものを出したことがなかったからだ。
理由は様々あり、その中でも最たるものが、全力を出さなければ勝てない相手と出会ったことがないから、である。
しかし、それも当然であろう。強大な魔物を刀1本で圧倒するような存在が、一体何に対して本気を出すと言うのか。
彼の顔や腕にある古傷も、実を言えば幼少の頃の山での生活で負ったものである。その時は今ほどの力に目覚めていなかったため魔物相手に苦戦したが、今に至ってそれは全く参考にならないだろう。
また、グレンには奥の手として『英雄の咆哮』――それにより獲得する『紅蓮の戦鎧』があったが、彼はそれを相手が手強いからと言って使用したことは一度としてなかった。
かつての兵士時代には、ティリオンやバルバロット、そしてアルベルトからの指示を受けて使用したのが複数回。兵士を辞めてからはアンバット国との戦争の際に、友軍の被害を抑えたいからといった理由で使用したのみである。
『紅蓮の戦鎧』を身に着けたグレンには不可能はない。軽く刀を振るうだけで強靭なモンスターの皮膚を切り裂くこともできるし、容易く山を崩すこともできた。
そのような未知の強さを有するが故に、グレンは王国で『英雄』という称号を与えられたのだ。
では今、グレンはどれ程の力を見せようと言うのか。
それを、彼は刀を構えたまま考えていた。
(さて、どうするか・・・?)
エクセ達を攫い、傷つけた無法者を許すと言う選択肢はない。
同情もしないし、交渉にも応じない。
ただ殺す。過不足なく殺す。
先程から1人の男がしきりに命乞いをしているが、グレンの耳には届いていなかった。
彼が悩んでいるのは、連中をどう片付けるか、ということである。
言うまでもなく、グレンが刀を振るえば一瞬にして大量の死体が出来上がるだろう。しかし、それは彼としても好ましくはなかった。何故ならば、グレンのすぐ後ろにはエクセがいたからだ。
少女にそんな凄惨な光景を見せたくない、と彼は考えていたのだ。
かつてエクセは大量のオーガの死体を見たことがあるが、人とモンスターの死では心に与える衝撃の大きさが異なるなど考えるまでもない。
エクセの心に傷を残したくないという大人らしい思いやりである。
そんな彼であるが、決して冷静という訳でもなかった。
それが今回『紅蓮の戦鎧』を身に着けている理由である。
グレンにとって、目の前の男達を屠るのに『紅蓮の戦鎧』は過剰な装備であった。しかし今、彼は怒りに燃えている。先程までの冷静な表情は、必死に自分を抑え込んでいた結果なのだ。
その理由もまたエクセが関係している。少女には、自分の怒りの形相を見せたくはなかったのだ。
エクセの前ではいつでも落ち着いた自分でいたいというグレンなりの見栄が働いたのだろう。それでも兜で顔を隠した今、グレンの眉は吊り上がり、その目は鋭い眼差しで男達を見つめていた。
怒りに駆られながらも、グレンは静かに頭を働かせる。
そして、ついに結論を導き出した。
(ああ・・・、そうか・・・。簡単なことだった・・・)
それはグレンにのみ可能な手段。
(奴らの死体を、残さないように斬ればいいのか・・・)
あまりにも単純であるが、グレン以外には発想すら出来ない方法を彼は思い付く。
こうなったら、後は早い。それをただ実行すればいいだけなのだから。
グレンは刀を握る手に力を込める。
彼がこれから放つのは、全身全霊全力全開の攻撃。最早、この神殿がどうなろうが、この街がどうなろうが知った事ではなかった。
その動きは微細ながらも実力者であるならば敏感に察知でき、それを見たアスクラは思わずこう呟いていた。
「あ・・・これ、俺ら死んだわ・・・」
その声には、恐れも憂いもなかった。全てを事実として受け入れる覚悟のある男の声。
それを合図にしたかのように、グレンは刀を振り下ろす。
その瞬間、彼が隠したがった表情はさらに凶悪に怒りを露わにしていた。剥き出しになった歯はがっちりと噛み締められており、沸騰した血液が血管を浮き出させている。
それはまるで、神殿に祀られている戦いの神そのものであった。
グレンが放った一撃の速度を称えるにあたって、どのような言葉が適切か。
疾風か。音速か。閃光か。
いや、そのどれもが不足していた。
彼の全力の一振りを表現する上では、この世の全てが遅すぎる。風も音も光も、全てが置き去りとなっていた。
仮に、グレンの一撃をその目で捉えることが出来た者がいたとしよう。
その者はきっと、こう表現するに違いない。
『全てが制止した灰色の世界で、彼だけが動いて見せた』、と。
「知識の神殿はあちらです!シャルメティエ殿!」
シャルメティエとチヅリツカは今、グレンに遅ればせながら知識の神殿へと近づいていた。そこには、ジェウェラとマリンも同行している。
グレンが戦いの神殿を発った後、すぐにでも武装を済ませた彼女達であったが、ある事に気付いたのだ。
そう、自分達は知識の神殿の場所を知らない。
そのため、ジェウェラとマリンに道案内を頼み、彼らの着替えや年老いたジェウェラの体力に合わせて、ここまで時間を掛けて辿り着いていた。
「あそこか!行くぞ、チヅ!」
「はい!」
戦場では一番乗りが誉れとなる。
ならば、大いに出遅れた彼女達はどれ程の恥となるだろうか。
それを叱責する者はここにはいないが、彼女達の心は自分自身への怒りで満ち溢れていた。それが原動力となり、2人の足を全速力で回転させて行く。
そして、目的地までもう少しといった所で、それは起こった。
「何っ!!?」
知識の神殿の内部から、轟音と共に一筋の衝撃波が飛び出す。それは凄まじい速度で直進し、神殿だけでなくあらゆる建造物を破壊し尽くしていった。彼女達のいる地点とは逆の方角だったため直接的な被害はないが、あまりの光景に足が止まる。
一体、どれ程の被害になったのだろう。
「シャルメティエ様!あれは間違いなく、グレン様の放った斬撃!」
「ああ!そうに違いない!中で何があった!?」
シャルメティエとチヅリツカがそう考えたのは、グレンには底知れぬ力があるということを知っていたからであった。無論、全てを理解しているわけではないが、彼ならばあれ程の攻撃を繰り出せてもおかしくはないと納得することは出来る。
「これは最早、我々の出番はないのでは!?」
チヅリツカの提言に、シャルメティエは否定の言葉が思い浮かばなかった。あれ程の攻撃を受けて生きている人間など、いるはずがない。それに、グレンが攻撃を外すとも考えられなかった。
「ならば、我々は街の人々の救助に向かう!」
無法者共がエクセとレナリアを攫ったからと言って、この街の住民を犠牲にして良い訳ではなかった。万が一にもそのような事態が起こらないように彼女達はグレンに同行しようとしたのだが、すでに手遅れとなっている。
せめて、その後の対応は迅速にするべきだ。
そう思い、シャルメティエは被害状況を調べるため瞼を閉じた。それにより、彼女が装着する兜『鷲の目』の能力が発動。自身を中心とした半径5㎞以内の俯瞰風景を目にする。
その瞬間、シャルメティエは再び戦慄した。
「なんだとっ!?」
その戦慄が大声となって外に漏れ、チヅリツカを驚かせる。
「ど、どうなさいました・・・シャルメティエ様・・・!?」
部下の問いに、シャルメティエは一度喉を鳴らしてから答えた。
「見えん・・・!」
「え・・・?」
しかし、その答えは要領を得ないもので、チヅリツカは困惑したような返事をする。それでも思考を巡らして考え付いた答えは、夜であるが故に俯瞰風景が見えにくいのではないか、ということであった。
「仕方ありません、シャルメティエ様。こう暗くては、さしもの『鷲の目』も意味を成さないでしょう」
部下の慰めの言葉に、シャルメティエは首を横に振る。
その姿に覇気はなく、目を閉じたままの彼女の額には冷や汗が流れていた。
「違う・・・。そうではない・・・。グレン殿が放った斬撃の、終わりが見えないのだ・・・」
その言葉を耳にし、今度はチヅリツカが戦慄する。
彼女とて、上官の装備の特性は熟知していた。そしてそれはつまり、先程の衝撃波が5kmを超えて進撃したと言う事である。
「そんな・・・、まさか・・・」
そのあまりの事実に、彼女達はただ立ち尽くす事しか出来なかった。
グレンの放った斬撃は教都フェインスレインを蹂躙してもなお止まる事はなく、破壊の限りを尽くしていく。
切り裂かれる草原、両断される山。
しかし、それでも止まる事はない。
草原を、山を、河を、橋を、街を、家を、また山を、村を、また河を、また街を、次々に切り裂いていく。
土砂の崩れる音、建造物の決壊する音が夜の教国に響き渡り、人々は降って湧いた災厄に慌てふためく事しかできなかった。死者が出なかったのが、せめてもの救いである。
グレンが初めて放った全力の一撃は、教国の中央に位置する教都から飛び出し、サリーメイア魔国の領土に差し掛かった辺りで止まった。ユーグシード教国は比較的小さい国であったが、それでもその距離は数十kmに達しており、彼の力が規格外であることを教えてくれている。
そして、破壊はもう一度やって来る。
グレンの持つ大太刀『二刀一刃』は、攻撃を加えた対象の別の部位に同じ威力でもう一度損傷を与える、という能力を持つ。
普段はそれを未発動の状態にしているが、怒りに狂ったグレンは攻撃の際にその能力を発動させていた。
つまり、これから起きるのは初撃と同等の破壊。
では、それはどこに発生するのだろうか。
グレンはユーグシード教国を斬り付けたが、国と国の区別は人間が勝手に定めた国境による。そこから考えるに彼は今、大陸という対象を傷つけたと言えるだろう。
そしてそれは、二撃目が発生する可能性を大陸全土が有しているという事を示していた。
この時グレンは、全く関係のない国だけでなく、フォートレス王国まで傷付ける危険性のある行いをしていたのだ。
後に彼はこの所業について、「怒りに任せた浅はかな行い」と評しており、深く深く反省することとなる。
しかし幸運なことに、二撃目もユーグシード教国内で生じてくれた。
それは、グレンを中心に初撃と真反対の方向に発生。ただし、先程の様に順繰りに崩壊を生むのではなく、一瞬にして同等の損害を教国に与えた。二撃目がこのように発生するのを、グレンはこの時初めて知る。
再び教国に存在する山が、河が、街が、村が、橋が、草原が、切り裂かれる。
その損壊は教国領土内にぎりぎり収まったが、あと少しで隣国へと至っていた所であった。それでも初撃と同様、死者が出ることはない。
度重なる幸運ではあったが、エクセの渡した『天恵』が彼に未曽有の救いをもたらしたとでも言うのだろうか。
いずれにしろ、グレンの放った一振り二撃の斬撃は、結果としてユーグシード教国を両断した。
「旦那っち・・・、さすがにやり過ぎっすよ・・・」
視界に映る前後の崩壊を目にし、レナリアが呆れたように呟く。
それがどれだけの規模かを判断することは出来なかったが、見て取れる部分だけでも甚大な被害であることは容易に想像できた。
先程まで敵対していた男達の姿は文字通り消え失せており、血痕すら残っていない。その中には大神官という立場の者もいたが、今更どうしようもないため、レナリアは浅く考える事すらしなかった。
グレンの背中に視線を移すと、彼は未だ刀を振り下ろした姿勢を保っている。
残心と言うのか、余韻と言うのか。その姿からは、歴戦の戦士としての覇気が感じられた。
「グレン様・・・」
そんな彼に向かって、エクセが声を掛ける。
彼女も今の状況に少しばかり戸惑っており、どうしたものかと反射的にグレンの名を呼んでいた。
それでグレンも意識を現実に向けたのか、姿勢をゆっくりと正していく。しかし、すぐに動きを止めると、今度はぷるぷると小刻みに震え出した。
「グ、グレン様・・・?」
その異常とも取れる反応に、エクセは心配したように声を掛ける。グレンのその動きからは、莫大な後悔と悲しみが感じられたのだ。
「どうしたっすか、旦那っち?」
返答のないグレンに違和感を覚えたのか、レナリアも同じように問い掛ける。
自分の後ろ姿を見つめる少女2人に向かって、グレンは振り向くことなく言葉を返した。
「か・・・刀が・・・」
「え?」
「刀がどうしたっすか?」
絞り出された言葉は要領を得ず、少女達はさらに疑問の言葉を発する。それに対し、グレンは若干泣きそうな声で答えた。
「お・・・折れている・・・」
言われた少女達は、それぞれグレンの左右に移動し、彼の持つ大太刀を観察する。
「「あ・・・」」
グレンの言葉通り、『二刀一刃』は根元からぽっきりと折れてしまっていた。
彼の力に装備が耐えられない。
それもまた、グレンが全力を出した事のない理由であった。




