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眼下には、はっきりと形を持った雲が広がっていた。所々うねっている所は、波の洋にも見える。これが海だとしたら、この雲の端は水平線だろうか。
俺の頭上では、まさに昼と夜が交代しようとしていた。西の空は微かに橙色をしており、雲の海の向こうへ、太陽が沈もうとしている。視線をそのまま東へと動かして行くと、だんだんと空の色は青さを増し、東の空は、もう藍色の世界だった。
明るさと暗さの狭間を飛びながら、しばらく俺達は黙っていた。
と、不意に、頬を撫でる風が吹いた。昼下がりの木陰に吹く様な、優しい風だ。
「いま、ちょっと結界を緩めたから」
ハルの声が聞こえた。
「緩めたって……」
「結界を構成してる空気の粒同士の間を、少し広くしたの。風が通った方が、気持ちいいでしょ」
「なるほど……?」
やっぱり、魔法の事はよく解らない。
何が起きてるかは解っても、どうしてそうなったのかは、やっぱり解らないままだ。
案外、そう言う事は解らなくて当たり前なのかもしれない。
「それにしても、お前がちゃんと空飛べてるの、初めて見たよ」
「そう言えば……、確かにそうだね」
ハルは少し考える様な間を置いてから、そう答えた。
「ほら、ヤマトが捕まえてくれた猫、いたじゃない? お父さんによると、カタリーナの倉庫にあった、あのお母さんのホウキのクレストが、お母さんが私に魔法の樹を植え替える時に使ったのと一緒だったんだって。それを使って、猫から魔法の樹を植え替えたんだ。
やっぱり、あの魔法の樹は、私が持ってた奴だったみたい」
つまり、俺の勘は正しかったわけだ。
「で、飛べる様になったって事か」
「うん、まあ、その通りだね」
これで全て、めでたしめでたしだ。全てがあるべき所に収まり、全てが元通りだ。
俺はそう思ったのだが、ハルはそうもいかないようだった。
「なんで、ヤマトは、あの猫が私の魔法の樹を持ってるって思ったの?」
まあ、そこ気になるよなあ。俺もまだ話してなかったし。
「お前が空から落ちてきた日の夜、俺達は何をしたんだ?」
「魔獣、と言うか、あの猫の討伐だよ」
「そうだな。俺は魔法について、まだ詳しくは解らないんだが、魔法の樹って、所有者からそれなりにエネルギーを奪うものなんだよな?
例えば、一人で二つ持つのは、キツいんだろ?」
「そう、だと思う」
もしかしたら、これをハルに問うたのは間違いだったかもしれないが、それを思ってそこを隠し続けるのは、いつかハルをもっと傷つける気がする。
「魔獣があの町に現れたのは、お前が空から落ちてくるしばらく前だった。魔獣は、カタリーナのものだった。一人で二つの魔法の樹を持つ事は出来ない。
それに、カタリーナの性格を考えれば、もうそれしかないだろ。さしずめ、魔獣にクレストかなんかを彫って、お前の周りを彷徨かせたんだろうな。で、お前のお母さんがお前に魔法の樹を移し替えたのと同じ様に、魔法の樹が、魔獣へ移って行く。
まあ、俺に詳しい事は何も解らないけどな」
「……」
ハルは何やら考え込む様に、じっと押し黙った。そして。
「やっぱり、ヤマトがいてくれて、良かった……。かも」
なんだ、「かも」って。言い切ってくれないのかよ。俺が心の中でそう呟いていると、ハルは更に先を続けた。
「魔獣を捕まえたあと、私がカタリーナの所に一人で行ったのは、知ってる?」
「そういや、翠がそんな事言ってたな」
微かな記憶を頼りに、俺はそれを思い出した。そうだ、あのあと、ユリウスさんの泣き落としに引っ掛かったんだ。うう、面白く無い。
「カタリーナは、魔獣討伐のお礼をしたいって、私とみっちゃんを呼び出したんだ。みっちゃんは来なかったけどね。カタリーナは私を、もてなしてくれた。
私とその時ね、カタリーナは私に、『あずみとは良いライバルだった』って言ったの。私、お母さんとの記憶がほとんどないから、カタリーナから、色んな話を聞いたんだ」
また、ハルは短い沈黙を置いた。俺はふと、ハルは言葉を選んでいるのではなく、単に話そうにも離せないだけなんじゃないか、と思った。
「私ね、その時まで、カタリーナが私に敵意を、いや、違うな、嫉妬をしてたなんて、気付かなかったの。
情けないよね」
空中で、何かが夕日を受けて、一瞬だけ輝いた。散らばった光は、すぐに空気中へ溶けて行ってしまった。まるでさっきの明るさが嘘だったかのように、空気はまた輝きを失った。
空の青が、濃くなって行く。柔らかな風が、体を包み込んで、更に高い所へと誘っている様に思えた。
「私の魔法の樹がお母さんのものだって事は解ってた。それが凄く羨まれてたのも、解ってた。でも、こんなすぐ近くの嫉妬に気付かないって、ほんと、馬鹿みたい」
「良いんじゃないのか?」
不意に、俺の口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「汚いものも、綺麗なものも、全部見なきゃいけないなんて、そんなのは悲観的な奴らの独善だろ。イヤなものをみて、綺麗なものが見えなくなったんなら、そりゃ、この上なく残念な事だからな。
綺麗なものを見て、知って、それだけだったら、儲けもんだろ? でも、汚いものを知ってた方が、綺麗なものを、もっと愛おしく思える。どっちが儲けもんかって言ったら、まあ、それは俺にも解らん。
まあ、あれだ。いきなり汚いものを見る必要はないさ。綺麗なものから、知って行けば良い」
目の前のハルの方が、ふっ、と下がった。さっきまでよりももっと、小さな背中に見える。俺はそんな背中に、何かしてあげられたのだろうか?
「それより、お前、あの時の傷、治ったのか?」
俺の母親をかばって、ハルは背中にカタリーナの風の斬撃を食らったのだ。渓の力でも、相当手こずっていたはずだが。
「うん。まだちょっと痛むけどね。
でも、ヤマトのお母さんは、敢えて私に怪我をさせてくれたんじゃないかって、思ってるんだよね」
あのとき、俺の母さんは一歩も引く事なく、カタリーナと対峙していた。まあ、あのままだったら、母さんはカタリーナの攻撃を食らっていただろう。
「私は、ヤマトも、みっちゃんも、竜二も、お父さんも、自分の事に巻き込んじゃった。でもそれなのに、最後の決着までヤマトのお母さんが付けちゃったじゃない?
だから、ヤマトのお母さんは、私に償いをさせようと思ってたんじゃないかな、って思ったんだけど、どうなのかな?」
そしてハルは、
「これくらいじゃ、償いにもなんにもならないけど」
と付け加えた。
「うーん、考え過ぎだと思うぞ?」
あとで訊いてみよう。どうせ、「こっちが堂々としてりゃ、相手が勝手にビビるのよ」とかいうんだろうなあ。
そもそも、あの人が俺達の戦いの場へ現れる事が出来たのは、ひとえにギョニソのおかげだった。訊いた所によると、俺が魔獣討伐をした夜、「ギョニソを買うのにこんなに時間がかかるのはおかしい」と思い、少し警戒はしていたらしい。で、案の定、俺が一晩も帰ってこない、と言う事件が起こり、竜二や翠を物凄い剣幕で脅し、ようやく聞き出したらしい。そんな事を、竜二と翠は、げんなりとしながら語ってくれた。
どうやって魔法使いの話まで聞き出したのかは、正直謎だ。ただ、それくらいの事なら、雑作もない事なんだろう。竜二や翠の、信用の裏返しかもしれない。
「まあ、俺の母さんは、償いとかどうでも良いと思ってるだろうし、俺達だって、そんなのして欲しかないよ」
「そう言うもの……、かな」
「ああ、そうだ」
きっと、翠も、竜二も、ユリウスさんも、そう言うだろう。
「じゃあ……、うーんと」
しばらくハルは何やら考え込むと、前を向いたまま、背筋を伸ばして、こう言った。
「ヤマト、ありがとう」
「どういたしまして、だ」
あ、そうそう。もう一つ、訊いとかなきゃな。
「お前さ、魔法が使えて、良かったって思うか?」
「え? 何よ、急に」
「良いから。良かったって思うか?」
「そりゃ……。そう思ってるに決まってるでしょ」
「そうか」
なら良かった。俺はそれ以上訊かずに、黙り込んだ。
ふと、体が後ろに引っ張られる感覚が訪れた。ホウキがスピードを上げて、更に高度を上げようとしていた。今まで優しかった風が、少し強くなる。
夜へ向かう空は、終わりがない。どこまでだって、上がって行ける。
太陽が、最後の一踏ん張りで、これでもか、と言う程、明るく輝いている。毒々しいまでの橙色でさえも、澄んだ藍色の前では、情けない程に作り物じみていた。
「私、悲しくなったり、イヤな事があったりしたら、いっつもこうやって、空を飛んでたんだ」
ハルはそう言うと体を捻って、こちらを振り向いた。
白く薄い瞼が、少し赤くはれている。蒼い瞳は濡れていて、いつもよりも強く、俺を射抜いていた。
燃える様な太陽の輝きが、ハルの顔を照らし出す。
そして、ハルは、目を細める様に、小さく微笑んだ。
「これが、私の見てきた風景なの。ヤマトにも見せたくって」
俺は、ただただ息をのむ事しか出来なかった。何か言おうとしても、言葉は喉元で、泡の様に消えてしまう。
俺はごまかす様に、天を見上げた。
空にはもう、気の早い星が瞬き始めていた。




