↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/2

1. 箒を持った若様

 朝、大広間へ箒を返しに行くと、城中が俺に跪いていた。


「若様……! その外套は、陛下が即位の日に纏われた……」


 白髪の侍従長の指が、震えながら俺の外套の裾へ伸びてくる。


       ◇


 前日の昼、俺は魔王城の面接の部屋にいた。


 晩秋の窓から薄い日が差す。椅子に座っていても、石の床の冷たさが靴底を通して足に染みる。


 俺はパヴェル、十七歳の羊飼いの村の長男だ。村の税を払いきるため、村の十倍の給金を目当てに来た。


 机の向こうでは、面接係らしい老人がふさふさの白髭を撫でている。


「得意なことは何じゃ?」


「羊追いと薪割りです! あと、母さんに帳簿と煮込みも習いました!」


 老人の目が、ぱっと面白そうに光った。


 俺は懐から、折りたたんだ募集の紙を差し出す。折り目を伸ばす指に、つい力が入る。


「村長が羊毛を売りに来たとき、門の貼り紙を写してくれたんです」


「ほう、どこの村じゃ?」


「ポドラスです! ザルツェンの端っこで、山ひとつ越えたら、もうオルムガルドです!」


 老人はうなずき、紙の写しを指でとんとんと叩く。


「羊毛が売れ残って、村の税が銀貨二百枚……払えないんです」


 膝の上で拳を握った。ここで声を引っ込めたら、村へ持ち帰るものがなくなる。


「ふむ。それで、こんな遠くまで来たか」


「はい! だから、給金のぶんは、俺、何でもやります!」


「それなら雇おう。廊下を頼むぞ」


「えっ、もう決まりですか!?」


「国同士は休戦中じゃが、勇者だけは別口でのう。この城を三回も壊されたわい。人手はいくらあってもよい」


 老人は身を乗り出し、俺の左眉の跳ねを指さす。何かおかしいのかと、俺は思わず眉を上げる。


「そこじゃ。昔は、そこがよう跳ねておった」


「これ、母さんが濡れた手で撫でても戻らないんですよ」


「戻らんでよい、戻らんでよい」


 扉の開く音に振り向くと、迎えに来た当直の侍従が老人へ黙礼した。


 老人は椅子の背から古い外套を取り、俺の肩へそっと広げる。


「おぬし、わしの若い頃にそっくりじゃな! ほれ、これを着ておけ。寒かろう」


 褪せた濃紫の布はずしりと重い。冷えた肩を包むぬくもりに、ほんのり日向の匂いが混じる。


 裾の金糸の羊歯(しだ)の刺繍が、薄日の中でまだかすかに光っていた。


「ありがとうございます! 汚さないように使います!」


 侍従が裾へ目を落とし、何か言いかけて口を開く。俺もつられて足元を見る。


 老人がちらりと侍従を見ると、その口はぴたりと閉じた。


 何かまずかったのか。首をかしげたまま、俺は下働きの詰所へ案内される。


 詰所の机には、金縁の片眼鏡をかけた若い男が座っていた。


 魔王の甥で、正式な後継候補のザイラス様だと、当直の侍従が小声で教えてくれる。俺は外套の前をそっと揃える。


 ザイラスは俺の着ている物には目もくれず、紙束をめくった。


「コイツに仕事ねぇ……。人間の小僧には、箒(ほうき)がお似合いですね」


 言葉の端に浮かぶ威圧感に、俺の膝は勝手に折れる。


 膝を床につけ、冷たさに息を詰めながら思い切り頭を下げた。


「はい! 箒なら使えます!」


「……顔を上げなさい。まだ話は終わっていません」


 片眼鏡が、俺の頭のあった高さで止まる。遅れて床へ傾くのを、俺は下から見上げる。


「夜の廊下を掃除しなさい。冷える場所ですが、村の小僧にはちょうどよい持ち場です」


「廊下全部ですか? 端に置いてある道具も、片づけていいですか?」


「埃を残さなければ結構です。私は壁の修繕も、人手の割り振りも回しているのですよ」


「お任せください! 冷える廊下でも、ちゃんと掃けばみんな歩きやすくなります!」


「その元気が、朝まで続けばよいのですが」


 返事をする前に、ザイラスの指はもう紙束へ戻っていた。


 夜の廊下は、息が白くなるほど冷える。高い窓から落ちる月明かりも、床に触れたら凍りそうだ。


 箒の音だけが石壁に返る。壁に並ぶ肖像の前で、俺は箒を止めた。


 名札の古い字は読めない。けれど、こんな場所に飾るのだから、昔の偉い人の絵らしい。


「はは、眉だけ俺と同じだ」


 尖った耳と短い角を持つ若い男の眉にも、同じ跳ねがあった。


 顔のほかの所は、少しも似ていない。この絵を、母さんにも見せてやりたい。


 渡された古い外套を着て、廊下を掃いていただけだ。床の継ぎ目に沿って箒を引けば、埃は散らない。


「若様、そのようなことは私どもが……!」


 当直の侍従が、横から箒へ手を伸ばしてきた。


 若様というのは、城の新入りを丁寧に呼ぶ言い方らしい。さすが城だ、掃除係にまで親切なんだな。


「お気遣いありがとうございます! でも、これが俺の仕事です!」


 俺は箒を脇に置き、外套の裾を寄せて、深々と頭を下げた。


「どうかお立ちください。こちらが頭を下げねばなりません!」


 侍従の膝まで曲がりかける。俺は慌てて顔を上げ、首を振る。


「それだと、廊下が掃けません!」


「家臣の足元まで整えてくださるとは……」


「埃を集めてるだけです! 皆さんの靴に付く前に」


 俺は立ち上がり、継ぎ目に沿って箒を引いた。


「ほら、ここはもう済みました! あとは向こう側だけです」


「そこまでお心を配られるとは……!」


「お心じゃなくて、箒です!」


 箒を取り返そうとする手は、もう伸びてこない。見守られたまま掃くのは、妙に落ち着かない。


 故郷では、母さんが羊小屋の戸を閉める頃だ。戸板がきしむ音まで、耳の奥によみがえる。


 外套の襟に頬を埋めると、日向の匂いがする。村で干した洗濯物を思い出して、鼻の奥が少しだけつんとした。


 端まで掃き終えた頃、当直の侍従は厨房と廊下の当番を呼び、小声で何か話している。


 話の中身は、俺の耳までは届かない。箒の先に残った埃を、指でつまんで落とす。


「箒は朝のうちに、大広間の脇の道具置き場へお返しください」


「はい。明日も、給金のぶん、しっかり働きます!」


 外套のおかげで、廊下の風の中でも指はちゃんと動いた。


       ◇


 翌朝の大広間で、俺はまだ箒を握っている。


 玉座の上で、昨日の老人がふさふさの白髭を揺らして手を振った。


 その足元から扉の前まで、膝をついた背中がずらりと並んでいる。広間の広さが、逃げ道のなさに変わる。


 じいさんは、魔王だった。


「グラウス陛下が御自らお召し物を……昨夜の当番から、面接でのお言葉も伺いました」


 侍従長は、角のない俺の額をじっと見る。見られた場所がむずむずして、拭きたくなる。


「肖像の眉も似ておいでですし、陛下には昔、人間の想い人がおられたという噂もございます」


「違います」


 声が裏返り、箒の柄がかたかたと鳴る。握り直すほど音が大きくなる。


「父さんも母さんも、村で羊を飼ってます!」


 侍従長は、俺の言葉にうなずくように、さらに深く頭を下げた。


「身分を伏せておられるのですね……おいたわしい」


「伏せてません! 全部しゃべってます!」


 玉座の老人は、にこにこしたまま身を乗り出す。


「父上と呼んでよいぞ」


「待ってください! 父さんは村にいます! 雇い主のことは、何とお呼びすればいいんですか?」


「カッカッカ……。呼び方の話じゃ。父上なら短いぞ」


「短さで父さんを増やさないでください!」


 広間の中で、濃紺の長衣の女と、金縁の片眼鏡のザイラスだけが、まだ立ったままだった。


 女は白銀の直髪の間から、俺と魔王を見比べている。俺が目を向けても、すぐには顔をそらさない。


「ブリーナ参謀殿」


 侍従長が呼び掛けると、女は俺から目を離さないまま、静かに膝を折った。


 ザイラスは、そこで初めて外套の裾を見る。片眼鏡に差す光が、わずかに揺れる。


「……即位の日の、外套を?」


 片眼鏡の奥の顔がひきつる。彼は俺を見ないまま玉座へ向き、最後に膝をついた。


 気づけば、俺も箒ごと床に伏せて土下座している。外套の裾が広がり、箒の先だけが場違いにはみ出す。


「お、お騒がせしました!」


 侍従長の顔が、玉座と俺の頭のあいだを何度も往復した。


「若様まで……どちらへ礼を……?」


「皆さんへです! 俺、箒を返しに来ただけなんです!」


 顔を上げ、箒を胸に抱え直す。女の目は、俺の手から箒の先へ移る。


 侍従長が一歩進み出て、胸に手を当てる。


「各々の持ち場で、若様の器をお確かめいたします」


「俺の仕事を見るんですか? 持ち場は廊下だと聞いてますけど!」


 侍従長は脇の道具置き場を手で示し、かしこまって告げた。


「若様、四天王が〈ご挨拶〉に参ります」


「ご挨拶って、箒を持ったままでもいいんですか!?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。