第1話 クラスで一番嫌いな女子
平和な高校生活を送るため、蓮には「佐伯美緒には絶対に関わらない」という唯一のルールがあった。成績優秀で完璧な美少女、美緒とは犬猿の仲。ところがある日、両家の長年の約束によって、卒業後に二人が結婚することを知らされる。さらに、二人にはまだ知らない秘密があった。
俺には、学校生活を平和に過ごすためのルールが一つだけある。
佐伯美緒には、絶対に関わらない。
これが、俺――如月蓮が高校二年生になってから守り続けている唯一のルールだった。
「如月くん」
朝のホームルームが始まる直前。
俺の背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこにいたのは、クラスで一番有名な女子だった。
長い黒髪。
整った顔立ち。
成績は学年トップ。
運動もそこそこできる。
先生たちからの信頼も厚く、男子からの人気も高い。
つまり――完璧な女子。
名前は、佐伯美緒。
「何?」
「昨日の数学の課題、提出しましたか?」
「したけど」
「見せてください」
「なんで?」
「あなた、昨日の問題を一問間違えていましたから」
「……は?」
美緒は無表情のまま、一枚の紙を俺の机に置いた。
そこには、昨日の数学の小テストがあった。
赤ペンで書かれた数字。
98点。
「二問目の途中式が間違っています」
「点数は合ってるだろ」
「偶然です」
「偶然で98点取れるなら、俺は天才だろ」
「そうですね。自称天才ですね」
「誰が自称した!」
クラスの何人かがこちらを見て笑った。
俺はため息をつく。
こいつだ。
佐伯美緒。
俺がクラスで一番苦手な女子。
いや。
訂正しよう。
俺がクラスで一番嫌いな女子だ。
「それで、課題は?」
「見せない」
「なぜですか?」
「お前に見せると、絶対に間違いを探すだろ」
「もちろんです」
「堂々と言うなよ!」
美緒は少しだけ口元を緩めた。
……今、笑ったか?
いや。
気のせいだ。
「では、先生に提出するときに確認します」
「勝手にしろ」
「はい。そうします」
そう言って、美緒は自分の席へ戻っていった。
俺はその背中を睨む。
あいつとは、本当に相性が悪い。
入学してから二年間。
テストではいつも一位と二位を争い。
体育祭ではなぜか同じチームにされ。
文化祭では意見がぶつかり。
委員会では何度も言い合いになった。
俺が何かをすると、美緒が注意する。
美緒が何かをすると、俺が文句を言う。
その繰り返しだ。
だから、クラスの中では有名だった。
――如月と佐伯は犬猿の仲。
俺たちは、そういうことになっていた。
そして俺自身も、それでいいと思っていた。
少なくとも、その日までは。
放課後。
俺が帰ろうと鞄を持ち上げたとき、担任の先生が教室に入ってきた。
「如月。ちょっといいか?」
「はい?」
「今日の夕方、家に帰る前に駅前のファミレスへ行ってくれ」
「……ファミレス?」
「ああ。お父さんから連絡があった」
「父さんから?」
「詳しいことは俺も知らない。家族から話があるらしい」
嫌な予感がした。
父さんが学校の先生を通して俺を呼び出すなんて、今まで一度もなかった。
「分かりました」
そう答えたものの、胸の奥に妙な不安が残った。
そして――
一時間後。
「……なんでお前がいるんだよ」
「それは私も聞きたいです」
駅前のファミレス。
俺の向かい側に座っていたのは――
佐伯美緒だった。
「お前の親も来るのか?」
「はい」
「……」
「……」
気まずい。
最悪だ。
学校の外でまでこいつと会うなんて。
俺は深いため息をついた。
「帰っていい?」
「私も帰りたいです」
「じゃあ帰ろう」
「そうしましょう」
二人で席を立とうとした。
その瞬間。
「待ちなさい」
俺の父親の声が飛んできた。
「二人とも座れ」
向かいには、俺の父さん。
その隣には母さん。
そして美緒の両親。
全員が妙に真剣な顔をしていた。
……何だ?
この空気。
「蓮」
父さんが口を開いた。
「お前に、大事な話がある」
「……何?」
「お前は佐伯さんと、昔から家族ぐるみの付き合いがあることは知っているな?」
「まあ……」
俺は美緒を見る。
美緒もこちらを見ていた。
だが、その表情はいつもの無表情とは少し違った。
どこか緊張している。
「実はな」
父さんが続ける。
「お前たち二人には――」
一瞬の沈黙。
「卒業後、結婚してもらうことになった」
「…………は?」
俺の頭が止まった。
隣で母さんが何かを言っている。
美緒の父親も説明を始めている。
だけど、何も耳に入ってこない。
ただ一つの言葉だけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
結婚。
誰と?
決まっている。
俺の目の前にいる女。
俺が学校で一番嫌いな――
「ちょっと待ってください」
俺より先に、美緒が立ち上がった。
「私は反対です」
「美緒?」
「絶対に嫌です」
その言葉を聞いて、俺は少し安心した。
そうだよな。
こいつも嫌だよな。
なら話は早い。
「俺も反対」
「……」
美緒が俺を見る。
目が合う。
いつものように冷たい目。
だけど――
ほんの一瞬。
彼女の瞳の奥に、妙な悲しさが見えた。
「……如月くん」
「何?」
「あなたは、本当にそれでいいんですか?」
「は?」
「私と結婚することが嫌じゃないんですか?」
「嫌に決まってるだろ」
即答だった。
美緒は少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
なぜか、その声は嬉しそうでもあり――
悲しそうでもあった。
父親たちが再び話し始める。
昔から続く両家の約束。
祖父たちの事業。
家同士の関係。
俺には理解できない話ばかりだった。
ただ、最後に父さんが言った一言だけは、はっきり覚えている。
「卒業するまでに、お互いが本当に結婚できない相手だと証明できたら、話は白紙にする」
「……本当に?」
「ああ」
俺は美緒を見る。
美緒も俺を見ていた。
「じゃあ、簡単ですね」
「そうだな」
俺たちは同時に言った。
「絶対に結婚なんてしない」
「ええ。絶対に」
その瞬間。
俺たちは、まるで敵同士のように睨み合った。
いつもの俺たちだった。
だから俺は、そのときは何も疑わなかった。
この結婚話が、俺の人生を大きく変えることも。
そして――
目の前の少女が、三年間ずっと俺に隠していた秘密があることも。
まだ、何も知らなかった。
ファミレスを出たあと。
俺は一人で駅へ向かった。
美緒は少し遅れて歩いていた。
そのときだった。
後ろから、彼女の声が聞こえた。
「如月くん」
「ん?」
「……さっきの話」
「結婚のこと?」
「はい」
美緒は立ち止まった。
夕暮れの空を背にして、彼女は俺を見る。
「一つだけ、お願いがあります」
「何?」
「私を――」
そこで美緒は言葉を止めた。
そして、いつもの冷たい表情に戻った。
「……やっぱり何でもありません」
「なんだよ、それ」
「忘れてください」
そう言って彼女は俺の横を通り過ぎた。
俺は振り返る。
「佐伯」
「はい?」
「……お前、本当に俺と結婚する気ないんだよな?」
美緒は答えなかった。
数秒後。
小さな声で呟いた。
「……ないですよ」
そして、俺には聞こえないほどの声で――
「……あなたが、私を嫌いでいてくれるなら」
そう言った。




